第35話
吉井理子物語 第35話
八回表、二死。
目を閉じて放ったあの一球に、スタジアムの空気は一変していた。
だが、小笠原りこ監督がそれを見逃すはずはなかった。
「……ふぅん。面白くなってきたじゃない。理太郎、アレを出して」
兄の理太郎が顔を強張らせる。
「……いいのかい、りこ。アイツを出すと、球場全体がバルサンだらけになっちゃうよ?」
「構わないわ。ぶっ飛ばすって言ったでしょ」
スピナーズのベンチから、一人の男がゆっくりと這い出してきた。
その姿が現れた瞬間、観客席から「悲鳴」が上がった。
黒く、光沢のある皮膚。異様なほど長く動く触覚。そして、物理法則を無視したような、ヌルリとした動き。
「代打――黒田」
ゴキブリの獣人。
あらゆる生命が絶滅しても生き残ると言われる、生存本能の化身。その存在自体が、虫嫌いの人間にとっての「極限」だった。
「……嘘、じゃろ」
理子の顔から、一気に血の気が引いた。
黒田がバッターボックスに入る。全身を小刻みに震わせ、カサカサという微かな音が理子の耳を劈く。バットを構えるだけで、空気が不浄なものに塗り替えられていくような感覚。
「お、おい……理子! 目を閉じろ! 奴を見るな!」
實森が叫ぶ。だが理子は、金縛りにあったように動けなかった。
目を閉じても、あの「気配」が脳裏から離れない。暗闇の中で、無数の脚が這いずり回る幻覚。
「……う、うわあああああ!!」
半狂乱のまま、一球を投じた。
だが、黒田の反応速度は異常だった。球が放たれた瞬間、その身体が文字通り「ブレ」る。残像を残す高速移動で軌道に割り込み、バットを振るというより、身体をぶつけるようなスイング。
――カサッ!
乾いた、不快な音。
打球が予測不能な変化をしながら、島崎の横をすり抜けた。グラブの中でボールが暴れ、捕球できない。内野安打。
「……ひっ、ひぃ……」
理子はマウンドで震え、呼吸を乱した。
「技術」で乗り越えようとした壁を、さらに深い「本能的な嫌悪」で叩き壊された。小笠原監督の嫌がらせは、完璧だった。
「……ったく、情けねぇツラすんな、お嬢」
背後から、黒木の低い声がした。
マウンドには上がらない。ただ、ベンチの最前列からタオルを理子へ向けて投げつけた。
「あいつが『G』だってんなら、わしらが新聞紙にでもスリッパにでもなってやる。……一人で戦っとると思うな。お前の後ろには、泥まみれの野郎どもが九人おるんじゃい」
理子はタオルを掴み、顔を拭った。
黒田が一塁ベース上で触覚を動かし、こちらを嘲笑っている。
理子はメガネを押し上げ、震える脚を自らのグラブで力いっぱい叩いた。
「……そうじゃね」
一拍置く。
「新聞紙で叩き潰される快感、あいつに教えてやらんといけんわ」
理子の瞳に、絶望を通り越した光が宿った。
八回表、二死一塁。




