第34話
吉井理子物語 第34話
七回裏、幕張の潮風が一段と冷たさを増していた。
マウンド上の黒木大地は、既に限界を超えていた。泥にまみれたユニフォーム、肩で刻む荒い息。だが彼は、理子が作った「地獄」を、自らの血肉を削るような投球で七回まで守り抜いた。
スコアは六対四。
「……黒木、もうええ。あとはわしが行く」
ベンチの隅、アイシングを無理やり引き剥がした理子が立ち上がった。
「待て、吉井」
坂本監督の声が、鋭く空気を切った。眼鏡の奥の瞳が、冷静に理子を射抜く。
「お前の震えはまだ止まっていない。二回の失態を忘れたのか。今の状態でマウンドに上がれば、取り返しのつかないことになる」
「……分かっとる。分かっとるわい、そんなこと」
理子は監督を睨みつけた。
「わしが一番分かっとる。虫が怖くてマウンドから逃げた卑怯者は、ここに居るわしじゃ」
一息置く。
「監督……わしは、このまま終わるのが一番嫌なんじゃ。あいつらに背中を見せたまま幕張の夜を終えたら、わしは一生、自分を許せんけぇ」
ベンチに、沈黙が落ちた。
理子の拳が、白くなるほどに握りしめられている。
坂本監督はしばらく理子の瞳を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……三分だ。三分で準備しろ。少しでも指先が揺れたら、即座に交代させる」
「……あぁ。三分もありゃあ、十分じゃ」
八回表。理子が再びマウンドへ歩み出す。
スタジアムにどよめきが走った。「また逃げ出すぞ」という野次が飛ぶ。スピナーズのベンチから、小笠原りこが嘲笑うような視線を送ってくる。
理子はマウンドに立つと、深く前傾姿勢を取った。
目の前には、羽を震わせ、鱗粉を撒き散らす獣人たちがいる。その羽音が、再び理子の鼓膜を震わせ、吐き気を催させる。
だが、黒木の言葉が蘇った。
――目ぇ瞑って投げろ。
理子は、本当に目を閉じた。
視界を閉ざせば、そこには「野球」しかなかった。
實森の構えるミットの位置。ロジンの匂い。指先に残るボールの縫い目の感触。
「……虫じゃない。あいつらは、ただの的じゃ」
腕が、地面を擦るような極限の低さでしなった。
百四十キロの「浮き上がる」ストレートが、バッターボックスで羽を震わせていた七番・城田ゆみの胸元を、完璧に貫く。
「ストライク!」
理子は目を開けた。
その瞳に、もう迷いはなかった。




