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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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33/40

第33話

吉井理子物語 第33話


 黒木がマウンドで泥にまみれ、秋田の「異能」を力ずくで抑え込んだ。

 その熱が、ベンチの打撃陣へと引火した。

 六対〇。絶望という名の厚い雲に覆われた幕張球場に、最初の光を穿ったのは、またしてもあの男だった。

「……虫だろうが何だろうが、俺の腹は膨らまねぇんだよ」

 低く呟き、打席に入ったのは大竹野だ。二軍の泥から這い上がってきたばかりの男。

 先発・揚羽山幸太郎の放つ、アゲハチョウのように舞い落ちるチェンジアップ。一軍の打者たちが幻惑されるその軌道を、大竹野は地面に這いつくばるようなスイングで拾い上げた。

 打球が三遊間を泥臭く破っていく。中前安打。

 そこからは、理子がこれまで見てきた「バラバラの個人」ではなかった。

 藤田が最短距離でバットを出して進塁打。山崎は青葉の予測不能な跳躍をあざ笑うように、あえて足元を狙った強烈な打球を放ち、一死一、三塁。

 四番・島崎大成が打席へ向かう際、ベンチを振り返った。

「お嬢、見てろよ。野球は『綺麗』な奴が勝つもんじゃねぇ」

 揚羽山の百五十八キロの直球を、泥にまみれた右腕でライト前へ運んだ。一点返す。

 六対一。

 スタンドのファンが、肉を焼く手を止めて立ち上がる。

 だが、真の衝撃はその後だった。

 五番・鳥居來樹。

 シーガルズの沈黙の象徴が、ゆっくりとバットを構える。マウンドの揚羽山が、美しい羽を小刻みに震わせ、理子を沈めた「魔の変化球」を解き放った。

 ――ガッ。

 重低音がスタジアムを支配した。

 鳥居のバットが、揚羽山のチェンジアップを、その「羽」ごと叩き潰した。

 打球が潮風を切り裂き、バックスクリーンへ一直線に突き刺さる。

 スリーランホームラン。六対四。

 わずか一イニングで、シーガルズは秋田の喉元まで詰め寄った。

 ベンチでタオルを被っていた理子は、その快音に顔を上げた。

 ダイヤモンドを一周する鳥居の背中。自分を助けようとしている仲間たちの姿。

「……なんじゃ、みんな」

 一拍置く。

「わしの不始末を、尻拭いしてくれとるんか」

 理子の瞳から、怯えが消えた。

 いつもの「毒」が混じった光が、静かに戻り始めていた。

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