第33話
吉井理子物語 第33話
黒木がマウンドで泥にまみれ、秋田の「異能」を力ずくで抑え込んだ。
その熱が、ベンチの打撃陣へと引火した。
六対〇。絶望という名の厚い雲に覆われた幕張球場に、最初の光を穿ったのは、またしてもあの男だった。
「……虫だろうが何だろうが、俺の腹は膨らまねぇんだよ」
低く呟き、打席に入ったのは大竹野だ。二軍の泥から這い上がってきたばかりの男。
先発・揚羽山幸太郎の放つ、アゲハチョウのように舞い落ちるチェンジアップ。一軍の打者たちが幻惑されるその軌道を、大竹野は地面に這いつくばるようなスイングで拾い上げた。
打球が三遊間を泥臭く破っていく。中前安打。
そこからは、理子がこれまで見てきた「バラバラの個人」ではなかった。
藤田が最短距離でバットを出して進塁打。山崎は青葉の予測不能な跳躍をあざ笑うように、あえて足元を狙った強烈な打球を放ち、一死一、三塁。
四番・島崎大成が打席へ向かう際、ベンチを振り返った。
「お嬢、見てろよ。野球は『綺麗』な奴が勝つもんじゃねぇ」
揚羽山の百五十八キロの直球を、泥にまみれた右腕でライト前へ運んだ。一点返す。
六対一。
スタンドのファンが、肉を焼く手を止めて立ち上がる。
だが、真の衝撃はその後だった。
五番・鳥居來樹。
シーガルズの沈黙の象徴が、ゆっくりとバットを構える。マウンドの揚羽山が、美しい羽を小刻みに震わせ、理子を沈めた「魔の変化球」を解き放った。
――ガッ。
重低音がスタジアムを支配した。
鳥居のバットが、揚羽山のチェンジアップを、その「羽」ごと叩き潰した。
打球が潮風を切り裂き、バックスクリーンへ一直線に突き刺さる。
スリーランホームラン。六対四。
わずか一イニングで、シーガルズは秋田の喉元まで詰め寄った。
ベンチでタオルを被っていた理子は、その快音に顔を上げた。
ダイヤモンドを一周する鳥居の背中。自分を助けようとしている仲間たちの姿。
「……なんじゃ、みんな」
一拍置く。
「わしの不始末を、尻拭いしてくれとるんか」
理子の瞳から、怯えが消えた。
いつもの「毒」が混じった光が、静かに戻り始めていた。




