第32話
吉井理子物語 第32話
理子がマウンドを降りる際、球場を支配していたのは、罵声ですらなく「困惑」だった。
メジャー帰りの劇薬が、震える指先でボールを地面に叩きつけ、二回途中で逃げるようにマウンドを去る。一塁側のファンは焼いていた肉の手を止め、信じられないものを見る目でその背中を追っていた。
「……すまん、黒木。あとは、頼んだわ」
すれ違いざま、理子は声を絞り出した。
黒木大地は何も答えなかった。ただ、泥と汗で汚れたボールを無言で受け取っただけだった。
黒木がマウンドに立つ。
目の前には、羽を震わせ、複眼をぎらつかせる「秋田の怪物」たちが、獲物を仕留めた後の余裕で並んでいる。
「おい、おっさん。お嬢に恥をかかせたお返し、たっぷりしてやるよ」
五番・大野葵が、オオミズアオの美しい羽を誇示するようにバットを構えた。
黒木は動じなかった。
彼は理子のように「毒」で制圧するタイプではない。ボロボロの体を引きずり、泥を啜り、打者の心根をじりじりと削り取る「消耗戦」が、この男の真骨頂だ。
(虫が何じゃ。化け物が何じゃ)
ロジンを手に取り、マウンドの土と混ぜ合わせ、力任せに握りつぶす。
(わしらが戦っとるのは、いつだって「現実」じゃろうが)
初球。内角、膝元を抉るシュート。
大野の美しい羽が、逃げるように激しく羽ばたく。だが、ボールは逃がさない。芯を外された打球が、力なくファウルゾーンへ飛んだ。
「……なんだ、この重さは」
大野が息を呑む。黒木の球に華やかさはない。だが、何百回、何千回と打ち込まれ、その度に立ち上がってきた男の「怨念」にも似た重圧が乗っていた。
二球目、外角低めのスライダー。三球目、再び内角への直球。
相手が虫だろうがハリネズミだろうが、お構いなしに懐を突く。羽の音も鱗粉の輝きも、黒木の目には「単なるノイズ」に過ぎなかった。
「ストライク! バッターアウト!!」
大野を三振。続く六番・小島三太夫も、黒木の泥臭い投球の前に巨大な体躯を揺らしながら内野ゴロに倒れた。
無死満塁、六失点という地獄から、黒木は一歩も引かずに後続を断ち切った。
理子はベンチの隅で、タオルを被って震えていた。
そこへ、黒木が歩み寄る。理子を見ることなく、自分のグラブを隣の席に放り出した。
「……吉井。あいつらが虫に見えるんなら、目ぇ瞑って投げろ」
「黒木……」
「わしは、あいつらを『野球選手』としてしか見てねぇ。……それ以外、考える必要がどこにある」
言葉を継がず、黒木はグラブを手に取った。
理子は、タオルの中で、唇を噛んだ。
六対〇。絶望的な点差。
だが、隣の背中が語っていた。




