第29話
吉井理子物語 第29話
延長十回表。マリーンシーガルズの攻撃。
マウンドには、依然としてファルード有志が君臨していた。
百球を優に超え、極寒の夜気が体力を奪っているはずの十回。にもかかわらず、彼のフォーシームは百五十キロ後半を計測し、スライダーの切れ味は増すばかりだった。
「……嘘じゃろ。あいつ、バケモノを通り越して機械か何かか」
ベンチに戻った理子は、肩をアイシングで固めながらその投球を凝視していた。九回裏、無死満塁の絶体絶命を魂で凌いだ直後だ。だが、その執念の「毒」を嘲笑うかのように、ファルードは淡々とシーガルナインを三者凡退に打ち取っていく。
打てるはずがなかった。今のファルードは、野球という競技を超越した「絶対零度の壁」と化していた。
十回裏。
理子は志願してマウンドへ戻った。坂本監督は止めた。實森も目を逸らした。
「わしが始めた喧嘩じゃ……最後まで、わしに片を付けさせろ」
だが、限界は音もなく訪れた。
先頭打者の新庄浩三が、理子の渾身のスライダーを全て見透かしたように芸術的な流し打ちでライト前へ運ぶ。続く代打・杉谷の揺さぶりに、理子の制球がわずかに乱れた。四球。無死一、二塁。
静まり返るスタジアム。理子の視界が、疲労でわずかに歪む。
打席には、九回に三振に仕留めたはずの天才、佐藤寿也が立っていた。
寿也は、理子の顔をじっと見つめた。そこには侮蔑も驕りもない。ただ、同じ極限を生きるプロとしての、冷徹な敬意だけがあった。
初球。理子が投じた、この日最後のアンダースロー。
指先から離れた瞬間、理子は「それ」を悟った。
――甘い。
浮き上がるはずのシュートが、寿也の待ち構えていた「点」へと吸い込まれていく。
寿也のバットが、最短距離で、最も残酷な角度で白球を捉えた。
――ッガァァン!
打球は一瞬で理子の頭上を越えた。吉田正志が懸命にバックする。だが打球は芝の上で鋭く弾け、外野の奥深くへと転がっていった。
新庄が三塁を蹴り、歓喜の悲鳴に包まれたホームベースへ滑り込む。
サヨナラ。一対二。
理子はマウンドに立ち尽くしたまま、動けなかった。
歓喜に沸くフライヤーズの輪の中心で、寿也が静かにバットを置く。ファルードが駆け寄り、固い握手を交わす。
一人は勝利の光の中に。一人は敗北の影の中に。
「……負けたんか。わしが」
理子は、泥のついたグラブを力なく見つめた。
九回の奇跡も、ファルードと投げ合った意地も、結果という名の冷酷な現実の前では、たった一行の「敗戦」に書き換えられてしまう。
ベンチへ戻る理子の背中に、北海道の冷たい風が容赦なく吹き付けた。
だが、下を向く選手は誰もいなかった。
黒木が、鳥居が、島崎が——みんな、悔しさに顔を歪めながらも、その瞳には今までになかった「飢え」が宿っていた。




