第28話
吉井理子物語 第28話
九回裏、無死満塁。一対一の同点。
サヨナラのランナーが三塁で、静かに理子を見つめている。スタンドを埋めた北海道のファンが鳴らすハリセンの音が、北風に乗ってスタジアムを揺らした。
「……うるさいのぉ、本当に」
理子はロジンバッグを指先で弄びながら、打席へ歩み寄る男を睨みつけた。
二番・佐藤寿也。
球界随一の頭脳派捕手にして、打者としても一切の隙がない天才。不敵な笑みを浮かべ、理子のリリースの高さを測るように低く構える。
「吉井さん、あなたの『毒』の成分、もう解析済みですよ」
理子は返事をしなかった。ただ、身体をさらに深く沈め、右腕を地面と平行にセットする。
一球目。内角を抉るシュート――寿也の予想通り。ピクリとも動かない。ボール。
二球目。外角へ逃げるシンカー。これも見送る。カウント二ボール。
スタンドのボルテージが最高潮に達し、悲鳴に近い歓声が理子を包む。
(……解析済み、じゃと?)
脳裏に、かつてメジャーで打ち込まれた時の屈辱が蘇る。あの時も、データがどうだ、傾向がどうだと、わかったような顔をした連中に叩き落とされた。
(おどれらに、わしの何がわかるんじゃ)
三球目。理子が投じたのは、この試合一度も見せていなかった「超スローカーブ」だった。
アンダースロー特有の、下からふわりと浮き上がり、天を突くような軌道。
「……なっ!?」
計算し尽くされた寿也の思考が、一瞬で瓦解した。完璧なスイングが、虚しく空を切る。
そこからの理子は、狂気を帯びていた。
四球目、百四十キロの「浮き上がる」ストレート。五球目、膝元を貫く高速スライダー。
「ストライク! バッターアウト!!」
天才・佐藤寿也から、渾身の空振り三振。
静まり返るスタジアム。理子は吠えなかった。ただ、一塁側ベンチを冷ややかに一瞥した。
一死満塁。
三番・新道豊。理子の「毒」に中てられたように、初球をひっかけてサードゴロ。本塁封殺、二死。
そして最後の一人。四番・オブライエン。
北の主砲が、力で全てを黙らせようとバットを構える。
理子は、感覚の消えかけた指先に最後の魂を込めた。
「……幕張まで、連れて帰ってやるけぇ」
放たれた最後の一球。打者の内角、逃げ場のない場所へ突き刺さる「火の出るようなシュート」。
オブライエンのバットが鈍い音を立てて力負けする。打球がふらふらと、理子の頭上へ舞い上がった。
理子は動かなかった。
ただ、そのボールが自分のグラブに収まるのを、傲然と待ち構えた。
――パシッ。
三死。チェンジ。
マウンドを降りる理子に、ベンチから飛び出してきた實森だけが駆け寄った。
理子は、實森にだけ、小さく笑いかけた。
「……たいぎぃ仕事じゃったわ」
一対一のまま、試合は延長へ突入する。




