第27話
吉井理子物語 第27話
八回が終わった。
スコアボードには、両チームともに「0」が整然と並んでいる。
ファルード有志の投球は、終盤に入ってもなお衰えを知らなかった。対する理子も、幾度となく訪れた窮地を執念で凌いでいた。中田、清宮という重量級のスラッガーに快音を響かされた場面もあったが、最後は地を這う「毒」がわずかに上回り、すべて力ないフライへと変えてみせた。
北の冷気が、理子の体力を確実に削り取っていた。
九回表。
絶対的な安定感を誇っていたファルードが、この試合初めて「甘い」スプリットを投じた。
五番・山田和利が、その一球を逃さなかった。
――ッガァァン!
低い弾道の打球が、凍てつく夜空を切り裂き、レフトスタンドへ突き刺さる。ソロホームラン。
一対〇。ついに均衡が破れた。
ベンチに戻った山田を、理子は無言で迎えた。喜ぶ余裕はない。指先は感覚を失いかけ、肩が焼けるように熱い。
「……あと三人。たいぎぃのぉ、本当に」
白い息を吐き、マウンドへ向かった。
だが、勝利への道筋は急速に霞んでいく。
杉谷健太のセーフティバントが理子の動揺を誘い、後藤一が粘って四球を選ぶ。新庄浩三の三遊間を抜く安打で、瞬く間に無死満塁が完成した。
ドームの歓声が、理子の意識を飲み込もうとする。
打席には、一番・大沢友貴哉。
理子は身体を深く沈め、渾身の力を指先に込めた。
だが、放たれたアンダースローはわずかに制球を乱した。大沢が合わせたバットの先、打球がふらふらと内野と外野の間に落ちる。
ポテンヒット。
三塁走者が生還し、一対一の同点。なおも無死満塁。
理子はマウンドで、一人、荒い息を吐いた。
一点のリードは消えた。サヨナラの走者が三塁で、静かに彼女を睨んでいる。
「……笑えんね」
一拍置く。
「わしをここまで追い込むとは」
メガネの奥の瞳が、青白く燃え上がる。
もはや技術の問題ではない。どちらの魂が先に折れるか、それだけだ。
絶体絶命。無死満塁。一対一。
北の大地の静寂の中で、吉井理子の真の「毒」が試されようとしていた。




