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吉井理子物語  作者: 水前寺鯉太郎


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第24話

吉井理子物語 第24話


 二回表。

 大阪ドームの人工芝が放つ特有の匂いが、ヘルメットの奥まで入り込んでくる。

 一死の場面でバッターボックスへ向かったのは、この日の朝、二軍から昇格したばかりの大竹野だった。

 ファームの泥にまみれた生活から、突如として放り込まれた一軍の舞台。その顔には緊張よりも、食い扶持を奪い返そうとする飢えた獣の気迫が宿っていた。

「……いい目じゃね」

 ベンチで理子は、大竹野の背中を見つめて小さく呟いた。

 野田のトルネード投法。大きく身をよじり、打者の視界から一瞬、球を消す。だが大竹野は、その「間」に惑わされなかった。

 初球、甘く入ったスライダーを迷いなく振り抜く。鋭い打球が三塁線を破り、フェンスへと直撃した。大竹野が咆哮するように二塁へ滑り込む。

 続いて實森ゆかが打席へ。

「理子、見とれよ」

 口の中でそう唱え、實森は野田のフォークをバットの先に当てた。ふらふらと上がった打球が一塁手と右翼手の間に落ちる。ポテンヒット。一死二、三塁。

 追加点の絶好機。だが、野球の神様はそう簡単に弱者へ微笑まない。

 九番・吉田に対し、野田がギアを一段上げた。体幹をさらに深くひねり、解き放たれたシュートが内角低めへ食い込む。吉田のバットが詰まる。打球は遊撃手の正面へ——最悪のコースだった。

「……っ!」

 ダブルプレー。大竹野の激走も、實森の執念も、一点という形にならないまま霧散した。

 一点リードのまま、試合は重苦しい投手戦へと形を変えていく。

 五回裏。「いてまえ打線」が、ついに眠りから覚めた。

 黒木はすでに限界を迎えつつあった。オマリーに右中間を破る二塁打を浴び、続く杉田にも右前安打を許す。無死一、三塁。「大阪紅牛会」のトランペットが、黒木の神経を執拗に逆撫でする。

 渾身の力で大野を空振り三振に仕留め、一死。だが七番・大河が三遊間を抉る痛烈なヒットを放った。

 一死満塁。

 坂本監督がゆっくりとベンチを出た。マウンドの黒木へ近づき、左手を挙げる。

「……吉井、出番だ」

 理子は無言で、帽子を深く被り直した。

「たいぎぃのぉ……」

 誰にも聞こえない声で吐き捨て、マウンドへ向かう。スタンドから物珍しさと蔑みの混じった野次が飛ぶ。石ころ程度だった。

 バッターボックスには、レッドブルズの捕手・天野謙信。

 理子は大きく息を吐き、身体を沈めた。

 初球。「カット気味のシュート」。天野の胸元を抉るように食い込ませる。

 ――バキッ!

 鈍い破壊音。天野のバットが粉々に砕け散った。

 完璧な内角攻め。仕留めたはずだった。

 だが、砕けたバットの破片と共に放たれた白球は、無慈悲な軌道を描いた。

 勢いを殺されたボールが、前進守備の二塁手の頭上をふわりと越えていく。

 ポテンヒット。

 バットを折ってなお、転がり落ちた安打。三塁からオマリーが悠々とホームを駆け抜ける。

 一対一。

 理子は、マウンドに散らばった木の破片を冷ややかに見つめた。

「……運だけは、ええようじゃね」

 同点。満塁のピンチは続いている。

 理子の「毒」が通用しなかったのではない。野球という名の魔物が、この夜に笑っていた。

 メガネの奥に、かつてメジャーで挫折したあの夜と同じ、暗い炎が静かに灯る。

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