第22話
吉井理子物語 第22話
――黄金の渦、潜水艦の戦慄。
二〇三〇年、四月十日。大阪。
改修された黄金のドームは、光と音の暴力に支配されていた。
天井から降り注ぐネオンの乱反射と、大阪紅牛会が放つ地鳴りのような重低音。マリーンシーガルズの面々は、スタジアムそのものに飲み込まれそうな錯覚に陥っていた。
マウンドには、大阪レッドブルズの先発、野田英雄が立っていた。
彼がセットポジションに入ると、球場全体のボルテージが跳ね上がる。
野田のフォームは、もはや人間の限界を超えていた。
左足を高く上げ、上半身を捕手とは正反対の方向へ――百八十度、いや、二百七十度近くまで捻り込む。背番号が完全に打者の方を向く、狂気的な「トルネード投法」。二〇三〇年に導入された人工脊椎による異常な可動域。
シュゴォォッ!
空気を切り裂く、圧縮された風切り音。
一番・加藤優実は、その「渦」の中に吸い込まれそうな感覚に襲われながらも、野田が放った初球――内角を抉るツーシームを、腰を引きながらも叩いた。
――ッガ、カッ。
詰まった打球がセンターの前で力なく弾む。先頭打者出塁。
だが、加藤は一塁ベース上で肩を激しく上下させていた。ヒットという結果とは裏腹に、その顔には「得体の知れないもの」を見た恐怖が張り付いている。
「……なんじゃ、ありゃ」
ベンチで理子がメガネを押し上げる。
「背骨、どうなっとるんね。リリースまで球が影に完全に隠れとる。……ありゃあ、野球のフォームじゃないわ。ただの破壊衝動じゃ」
二番・藤田が、震える手でバントを決める。犠打成功。
三番・山崎。野田の「タメ」に翻弄され、スイングのタイミングを完全に破壊されながらも、執念でバットの先を合わせた。白球がふわりと内野と外野の間に落ちるポテンヒット。
一死、一・三塁。
スタジアムを支配する応援歌が、一瞬だけ止み、不気味な「沈黙」が訪れる。
打席には、四番・島崎大成。
広島での三連戦を経て、その瞳には「お嬢さんに頼るだけではない」という、野良犬のような意地が宿っていた。
野田が、再び「渦」を巻く。
背骨がギチリと鳴る音が、ベンチまで聞こえてくるような錯覚。
放たれた一球。
百五十五キロのフォーシーム。
島崎は、その「渦」が解けるリリースの瞬間、野田の指先が土を掴むような一点の静止を見逃さなかった。
――ッシャアアアア!!
島崎のフルスイングが、黄金のネオンを切り裂いた。
芯だ。
打球は左中間を真っ二つに破り、フェンスを直撃する。
三塁走者の加藤が、悲鳴のような歓声を背にホームへ滑り込む。
「……セーフッ!!」
先制。
千葉マリーンシーガルズ、一対〇。
理子はベンチで立ち上がり、小さく拳を握りしめた。だが、その隣で坂本監督は、無言のままスコアボードを見つめている。
「……吉井君。喜ぶには早い。……奴はまだ、何も投げていないよ」
マウンド上の野田は、失点したことなど意に介していない様子で、静かに帽子のつばを触った。
「……ここまでは、小手調べや」
野田の独白。
次の打者、ベテランの鳥居。
野田が、今まで以上に深く、身体を沈めた。
トルネードが最大出力で解放される。
放たれたのは、直球と同じ軌道から、ベース板の上で「奈落」へと消えるフォーク。
バシィィィン!!
鳥居のバットは、空気を切ることすらできず、白球が通過した後に虚しく揺れた。
三振。
スタジアムから、再び「いてまえ」の咆哮が地鳴りのように湧き上がる。
野田は一瞥もくれず、マウンドを降りていった。
「……たいぎぃのぉ。一点取ったくらいで、この圧倒的な敗北感は何なんね」
理子は自らの右腕を強く擦った。
一点リードで迎える、一回裏。
そこには、昨シーズン二位という数字以上に暴力的な「いてまえ打線」の王たちが、牙を剥いて待ち構えている。
黒木がマウンドへ向かう。
その背中に、黄金のドームの照明が、まるで処刑台のスポットライトのように降り注いでいた。
理子のメガネの奥に、かつてないほどの緊張が走る。
大阪の夜は、まだ一回も終わっていない。




