第20話
吉井理子物語 第20話
――火の玉の残像、沈黙する潜水艦
九回表、広島球場。
夜の帳が降りたスタジアムは、もはや一つの巨大な生き物のように脈動していた。
三塁側、赤い波が打ち寄せるその中心に、炎の守護神・津田恒斗が立っている。
マリーンシーガルズのベンチ。理子は、フェンスを握る手の感覚がなくなるほど強く、一点を見つめていた。
マウンド上の津田から放たれる一球ごとに、空気が震え、衝撃波がベンチまで届く。
先頭打者、鈴木明美。
彼女が放ったスイングは、津田のストレートの残像すら捉えられていなかった。
――ドドォォォンッ!!
捕手・坂倉のミットが、火薬が弾けたような爆音を鳴らす。
百五十九キロ。電光掲示板に刻まれた数字に、スタンドの熱狂が臨界点を超えた。鈴木は、ただ空を切ったバットの振動に呆然と立ち尽くし、すごすごとベンチへ引き下がるしかなかった。
「……あんなもん、人間が投げる球じゃねえわ」
誰かの呟きが、理子の耳を打つ。
だが、次に打席へ向かう實森ゆかは、その言葉を鼻で笑い飛ばした。
「人間じゃなきゃ、わしらが引きずり下ろすまでよ」
實森は理子と一瞬だけ視線を交わすと、泥を払うこともなくバッターボックスへ入った。
理子のリードを守りきれなかった女房役の意地。
津田の初球。内角、抉り込むような直球。實森は逃げなかった。骨が軋むのも厭わず、最短距離でバットを出す。
――バキィィッ!!
耳を劈く、生々しい破壊音。
實森の手にしていたアオダモのバットが、根元から無惨に裂け、木片が宙を舞った。
球威に完全に押し潰された。力なく転がった打球は津田の足元へ。津田はそれを素手で掴み取る勢いで処理し、一塁へ送る。
二死。
「……っ、クソがぁ……!」
ベンチに戻ってきた實森の右手は、凄まじい痺れで感覚を失い、細かく震えていた。
理子は無言でその肩を叩いた。言葉は不要だった。自分たちの「野球」が、王道の暴力の前に、粉々に砕かれていく。その屈辱だけが、共有されていた。
そして、最後の打者。
九番、吉田正志。
今日、この泥沼の試合で唯一、三塁打を放って「希望」の種を蒔いた男。
スタンドからは、彼を「最後のご馳走」として飲み込もうとする、残酷なほどの「津田コール」が降り注ぐ。
だが、吉田の瞳には、怯えはなかった。
一球目、空振り。二球目、三球目……。
吉田は、津田の放つ火の玉に、執念だけでバットを当て続けた。
ファウル、ファウル、ファウル。
バットが悲鳴を上げ、手の平の皮が剥け、血がグリップに滲む。
それでも吉田は、理子がマウンドで見せたあの「毒」のある眼光を思い出し、歯を食いしばった。
ボール、ボール、ボール……。
ついに、カウントは三ボール二ストライク。フルカウント。
スタジアムから、一瞬だけ音が消えた。
競輪場の喧騒も、焼肉の匂いも、今は遠い。
理子はベンチの最前列で、祈るように拳を握りしめた。
(……行け、吉田! 運んでくれ……!)
津田が、吠えた。
彼が最後に選んだのは、サインなど必要のない、今日一番の、魂を乗せたド真ん中。
――ッシャアアアア!!
吉田のフルスイングが、真っ向からその炎を捉えた。
芯だ。完璧な手応え。
打球は、セカンドの頭上を越える――誰もがそう確信した弾丸ライナー。
だが。
パシィィィンッ!
飛びついたドラゴンズの二塁手、緒方大和のグラブの先に、白球が吸い込まれた。
超ファインプレー。
その瞬間、広島球場は、火山が噴火したような大歓声に包まれた。
「ゲームセット!!」
三対四。
マリーンシーガルズの反乱は、あと数センチというところで、王者の壁に阻まれた。
マウンドで咆哮し、仲間たちと抱き合う津田恒斗。
赤いユニフォームが乱舞するその光景は、理子にとって、網膜を焼き切るような残酷な光だった。
彼女はベンチの隅で、座り込んだまま動けなかった。
ふと見ると、足元に置かれた自分のグラブに、広島の土がべったりと付いていた。
五回表まで、自分があのマウンドで戦っていた証。
だが、その土はもう、理子の体温を失って冷たく乾き始めていた。
「……負けたんよね、わしら」
理子は、震える指先でグラブの泥をゆっくりと払った。
自分のリードを守れなかった。黒木の無念も、島崎の意地も、吉田の執念も、すべてを勝利という形に変換できなかった。
メジャーを追われ、日本でも「一勝」がこれほどまでに遠い。
ベンチ裏へ引き上げる際、理子はマウンドでヒーローインタビューを受ける津田の後ろ姿を、一度だけ振り返った。
眩しい。あまりにも眩しすぎる。
その光が強ければ強いほど、彼女の中に潜む「毒」は、より黒く、より鋭く研ぎ澄まされていく。
「……たいぎぃのぉ、ほんまに。……負けたままじゃ、終わらせんよ」
理子の瞳に、絶望ではない、冷徹な復讐の炎が宿った。
故郷・広島での初先発、初黒星。
それは、吉井理子が「ただの投手」から、この腐りきったリーグを根底から覆す「魔王」へと変貌するための、血塗られた儀式に過ぎなかった。
夜の広島。
スタジアムを後にする理子の背中に、冷たい雨が降り始めた。




