第19話
吉井理子物語 第19話
――火の玉が燃える夜。地獄に咲く、直球の華。
八回裏。広島球場は、もはやスタジアムの体裁を成していなかった。
三万人を超えるドラゴンズファンの放つ「赤」が、地鳴りのような大歓声となって一塁側ベンチを、そしてマウンド上の吉井理子を圧殺しようとしていた。
理子の右腕には、これまでにない「重み」がまとわりついていた。
地表数センチ、指先が土を擦るたびに腰へ走る鈍い痛み。アンダースローという極限のフォームが、ついに彼女の下半身に代償を求め始めたのだ。
――沈み込みが、浅い。
自分でも気づかぬうちに、リリースポイントが数センチ上がっていた。
「……っ!」
先頭打者、ベテランの正田。
理子が投じた渾身の内角ホップ。本来なら胸元で浮き上がるはずの球が、疲労ゆえに真ん中付近へと甘く流れた。
正田はそれを、老獪なバットコントロールで捉えた。腕を畳み、力ずくで押し出す。
打球は低い弾道でライトフェンスを直撃。理子が顔を上げた時、正田はすでに二塁を陥れていた。
動揺は、伝染する。
続く町田。三遊間を針の穴を通すような鋭い当たりで射抜き、一、三塁。
この瞬間、理子は初めて、故郷・広島の「殺気」に背筋が凍るのを感じた。スタンドから降り注ぐのは、もはや野次ではない。自分たちの英雄を讃える、狂信的なまでの咆哮だ。
そして、バッターボックスには若き主砲・緒方大和。
カウント二ボール三ストライク。理子はロジンを強く叩き、指先の感覚を呼び覚まそうとした。
(たいぎぃのぉ……。まとめて、黙らせてやるわい)
無理やり奮い立たせた右腕が、今日一番の鋭い旋回を描く。
だが、放たれた白球は、打者の手元で「跳ねる」前に、緒方のバットの軌道に飲み込まれた。
――ッガァァァン!!
夜空の星さえも弾け飛ぶような、凄まじい衝撃音。
理子の視界の端を、白球が光の矢となって横切った。ライトスタンド最上段、赤い波の中へ吸い込まれる逆転三ランホームラン。
三対三。
呆然と立ち尽くす理子の背中に、さらに追い打ちがかかる。続く四番・マギー。理子の心を完全に折りに行くような、初球を捉えたソロホームラン。
三対四。
理子はマウンド上で、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
自慢のアンダースローが、無慈悲に粉砕された瞬間。
だが、地獄はここからが本番だった。
九回表。
スタジアムのスピーカーが、スピーカーの限界を超えるほどの重低音を響かせる。
照明が一瞬だけ落ち、再び点灯した時、マウンドには「彼」がいた。
『ピッチャー、山内に代わりまして――津田』
炎のストッパー、津田恒斗。
彼がマウンドに現れるということは、対戦相手にとって、それは緩やかな「処刑」の始まりを意味していた。
津田が持つ球種は、実質的に一つだけ。
ストレート。ただ、それだけだ。
三年前。この広島球場が日本一の狂喜に沸いた夜、津田はそこにいた。
対戦相手は、史上最強の呼び声高い浪速レオパルド。
掛布、真弓……そして、伝説の三冠王・バース。
現代の野球理論が「変化球でかわすべき」と説くその場面で、津田はただ、真っ向から直球を投げ込み続けた。
後にバースが「ツダはクレイジーだ。あんなボール、人生で一度も見たことがない」と述懐した、物理法則を無視したような唸りを上げる剛速球。
理子はベンチで、泥にまみれたグラブを握りしめたまま、その姿を凝視していた。
津田が投球練習を開始する。
――バシィィィン!!
捕手のミットが閉じる音ではない。空気が爆発する音だ。
真っ向勝負。
それは、弱者が最も嫌い、強者が最も愛する、残酷なまでの力による支配。
理子の「沈み、浮く」アンダースローが「影」ならば、津田の「火を噴く」ストレートは「光」だ。
リードは一点。だが、その一点の壁は、天を衝くほどに高く、険しい。
「……きれいな野球じゃね。ほんまに、眩しすぎて反吐が出るわ」
理子は、メガネを指で押し上げた。
打ち砕かれたプライドの欠片を、彼女はまだ捨ててはいない。
光を呑み込むための、最後の「毒」を。
九回表、二死。
絶望の静寂が広がるスタジアムで、理子は次の一手を見据えていた。




