83話~虎ちゃん。あたしも…~
ホテルの最上階のオープンテラス。そこに設置された一脚のベンチに、俺とジュンさんは並んで座る。少し空間を開けて座ったが、ジュンさんはすぐにその空間を詰めて、俺の左腕にピタリとくっ付いて来た。
余程怖かったのだろう。俺の袖を握る手は、まだ若干震えている様に見えた。
俺はその手に己の手を重ね、見上げて来ていた彼女に視線を合わせる。
「ジュンさん…」
遅れて済まなかった。腕の具合は大丈夫かい?あいつに、何か変な事をされなかったか?
色々と言いたいこと、聞きたい事が喉奥から溢れそうになる。だが、俺はそれらを飲み込む。震える彼女の様子から、今時間を遡らせるのは酷だと思った。
こうして震えている今は、少しでも彼女の気持ちを遠くへ誘うべきだ。
「素晴らしい景色だね」
俺は空を見上げ、星々に視線を惑わす。今までマトモに見た事もないのか、星や星座の名前が一つも浮かんでこない。
こういう時に、博識な人なら話も面白いのだろうな。この時期の星について、色々と語れるだろうから。
ほらご覧。あれがデネブ。アルタイル。ベガ。星々が示す、夏の大三角さ。っと。
「うん。凄く綺麗」
それでも、ジュンさんは満足そうに頷いて、俺と一緒に空を見上げる。そうしながら、反対側の手も俺の腕を掴んで、より密着してくる。
「ごめん。ちょっとだけ、こうさせて貰って良い?なんだか、夜空に落っこちちゃいそうで、ちょっと怖くて…」
「ジュンさん…」
これは…。
洋子さんが配慮してくれたロマンチックな場所だが、今のジュンさんに暗闇はNGだったか?
「場所を変えるかい?」
「ううん。ここが良い。ここはとても静かだし、虎ちゃんが居るから…」
そんな、嬉しすぎる事を言ってくれるジュンさん。
いやいや、落ち着け。彼女は今、心を傷付けられて弱っている。少しでも誰かに寄り添って欲しいんだ。
今それが出来るのは、俺しかいない。全ての事情を知り得る俺が、彼女の止まり木となるのだ。
「俺はここに居るよ。安心してくれて良い。何せ俺は、頑丈さも取り柄だからね」
頑丈な木になるのだ、俺。もう蓄えた脂肪は使い切ったが、代わりに重厚な筋肉を得ている。君が何処から飛び込んで来ても、全て受け止めてみせよう。
俺は右拳で、己の胸を叩く。ドンッと、低く硬い音が夜闇に響いた。
憂いた顔だったジュンさんが、少しだけ表情を緩ませる。
「うん。ありがとう。今は凄く安心だよ」
ジュンさんは少しだけ、視線を下ろす。俺の顎辺りを見ながら、ポツリ、ポツリと言葉を零す。
「すっごくね、怖かったんだ。あの時、腕をギュって掴まれてちゃって…。痛いって、何度言っても離してくれなくて、言っている言葉も訳が分からなくて。何を考えてるかも、何をされるかも分からなくて…。あんなに怖いって思ったの、初めてだった…」
「ジュンさん」
また震えだしてしまった彼女を見て、俺は彼女の発言を止める。背中を優しくタップして、俺がここに居る事を示す。
「もう大丈夫だよ。俺がここに居る。こうして傍に居るから。だから…」
「…本当に、居てくれる?」
ジュンさんが顔を上げる。不安気に揺れる瞳からは、また薄らと涙が浮かんでいた。
彼女が安心を求めている。心の底からの安心を。
ならば、示さねばならない。その根拠を。
俺がここに居る、本当の意味を。
「ジュンさん。俺は君を守りたい。二度とあのような事が起きない様に、君の傍に居たい。そう、強く願っている」
仮令、ジュンさんの心が上郷の虜となっていようと、ここで踏み留まってはいけない。怖がって居ては、彼女に届かない。
仮令ここで、玉砕しようと。俺は…。
「ジュンさん。俺は…君が好きだ。だから、君を守りたいと思っている」
「えっ…えっ!?ちょっ、ちょっ、ちょっとタンマ!」
儚かったジュンさんの瞳が、急に輝きだした。
「待ってよ。待って、虎ちゃん。好きって、あの、あれでしょ?友達としてぇ…みたいな?」
「…いいや。違うんだ、ジュンさん。俺は君を、異性として好きなんだ。俺は君を…愛している」
とうとう、言ってしまった。
ジュンさんの反応は、友達で居たかったのに〜と言うものにも聞こえる。そう思われていた奴が突然、こんな事を言い出したら…。
引かれるだろうか。怖がられるだろうか。もう友達もやめようって、言われるかもしれない。
だが、それでも、これは意味がある行為だ。口先だけで守りたいと言っている訳じゃないと、知ってもらいたかったから。
「異性…好き…愛…」
うわ言の様に呟いた彼女は、徐々に俺から離れていく。掴んでいた手から力が失われ、接していた体を離してしまう。そして、後ろに仰け反り、そのままベンチに倒れ込んで…って、あっぶねぇ!
「ジュンさん!」
「す…す、き…」
アカン!これまた、お目目グルグル状態やんけ。
ショックが大き過ぎてなんだろうけど、この場合はどうなのだろうか?嬉しくて気が動転したとも、考えられると思うが…?
いや、今はそんなことより、ジュンさんの事だ。
「しっかりしてくれ、ジュンさん。こんな所で寝てしまっては、風邪を引くぞ」
初夏とは言え、夜はまだ冷えるからな。
俺が軽く頬をタップすると、ジュンさんの目の焦点が合う。俺を見て、ビックリした表情を浮かべる。
「あっ、ごめん。虎ちゃん」
「いや、こちらこそ済まない。自分勝手な思いを押し付けてしまい、君を困らせて…」
「待って!虎ちゃん。あたし、困ってなんかないから!」
ガバリっと、勢い良く上半身を起こしたジュンさん。俺の腕の中で、こちらを見上げる。
「困ってなんかないよ、あたし。すごく…その…うれ、嬉しくて、その…」
顔を真っ赤にしたジュンさんは、目をぎゅっと瞑った。そこからまた、ポロポロと涙が零れる。
「嬉しい…嬉しいよ、虎ちゃん。あたし…」
「ジュンさん」
俺が彼女の背中に手を回そうとすると、彼女は俺の胸の中に顔を埋める。彼女の腕が、俺の背中に回される。
嗚咽の間に、俺の名前を何度も呼び、強く抱きしめて来る。
俺も彼女を抱きしめる。彼女がここに居てくれる事を確かめる様に、しっかりと抱き留める。
ああ、良かった。ジュンさんが俺の思いを受け止めてくれて。君を好きな俺を、傍に居させてくれて本当に嬉しい。
彼女に認めて貰えて。彼女に必要とされて。それがこんなにも嬉しい事とは思わなかった。こんなにも安堵する事だとは思わなかった。
それだけ、俺もこの娘に心を奪われていると言う事だろう。すっかり、骨抜きだ。
「虎ちゃん」
少し落ち着いたジュンさんが、俺の胸から顔を少しだけ離して、俺を見上げてくる。
「なんだい?ジュンさん」
「あのね。あたしも…あの、虎ちゃんに言いたい事があってね。その…」
顔を真っ赤にさせて、言葉を詰まらせるジュンさん。
なんだろうか?俺に言いたい事?まさか、彼女も俺の事を好いてくれているのか?
いや待てよ。つまりそれは、彼女が魅了の魔の手から逃れらた事を意味する。俺の努力が、上郷の魅了に勝ったと言う事を。
楽観的に考えそうになるのを、俺は必死に抑える。必死になって何かを告げようとするジュンさんを、俺は静かに見守った。
良いよ。ジュンさん。何でも言ってくれ。俺はどんな事でも受け止めるから。
そう、彼女に伝わって欲しいと思いながら。
そしてそれは、彼女に伝わる。
顔を真っ赤にしながらも、彼女の瞳が俺の目を真っ直ぐに見詰める。小さく息を吸い込み、決意の籠った表情をする。
言葉を、発した。
「虎ちゃん。あたしも…」
「あーー!!」
しかしその言葉は途中で、大きな声にかき消されてしまった。
その大きな声の元へと視線を向けると、こちらへ駆けてくるノゾミさんの姿があった。
「やぁっと見つけたわよ、虎二君!私との約束をすっぽかして、こんな所で何してるの!」
少々憤慨した様子でこちらへ走って来る彼女。でも、俺と抱き合う形のジュンさんを見て、吊り上がっていた目を小さく開いた。
「ちょっと、ジュン!どうしたのよ、その目。泣いてたの?」
「あっ、えっと、これはその…」
「手首もどうしたのよ!?真っ赤じゃない!」
ジュンさんが目元を隠そうと手を上げた途端、更に大きく目を開いて驚くノゾミさん。俺とジュンさんの間に割って入って、ジュンさんの腕を心配そうに摩った。
それに、ジュンさんも「えっと、上郷君が…」と先程の事を端的に説明する。
「酷い。そんな事をするなんて…許せないわ!」
かなり省略した説明でも、ノゾミさんは憤慨する。自身も受けたことがあるからか、まるで自分の事の様に表情を歪めた。
それに、ジュンさんは宥めるように両手を上げる。
「でもさ。あたし達が彼から逃げたのも事実だし…」
「それは、あいつに聞き分けが無いのが悪いんじゃない。私達は別の人と行くって言っても、強引に付き従わせようとしたのはあいつでしょ?しかも、スマホを壊したのは完全に自分のせいなのに…」
「それは…あたしも言ったんだけど、全然話を聞いてくれなくて」
ふむ。なるほど。そんなやり取りがあったのか。確かにそれは、随分と狂っている。
これはもしや、魅了の副作用か何かか?
「ノゾミさん。上郷は以前から、そんな人間だったのかい?」
いいえ無かったわと、首を振るかと俺は思った。
でも意外な事に、彼女は「そうね」と星々を見上げながら呟いた。
「そこまで酷いのは今回が初めてだけど、その気は前からあったわ。あいつって一人っ子で、かなり甘やかされて育ってきたから、自分は特別って思ってる節が、何処かあるのよね」
なるほどね。
でもきっと、魅了の力を有しているのも原因の一つだろう。何の苦労もせず異性から好かれるから、傍若無人な振る舞いをしても悪いと思わない。人と関わる努力をして来なかったから、人の心を理解できないのだと思う。だから彼女達の嫌悪を、都合よく好意と捉えてしまう。
それはある意味、魅了の副作用とも言える。過ぎた力…努力せず得た力など、人を狂わせる害悪でしかないのだから。
「悲しい男だ…」
「そうね」
つい零した俺の声に、ノゾミさんが大きく頷く。そして、先ほどまでジュンさんがしていたように、俺の左腕に縋りつく。
「でもそんな男から、貴方が守ってくれるんでしょ?」
「うっ…」
俺は言葉に詰まる。
確かにそうだ。でも君の場合は、セイジの力から解放したいが為であり、ジュンさんとは違う理由だ。
それを説明するのは難しい。少なくとも、今この場では時間的にも不可能だ。
とは言え…この流れは不味い。何とか弁明せねば。
「…上郷に泣かされている者は、男女問わず多いだろう。そう言う者達を救うためにも、俺は努力せねばならないと思っている」
うん。これなら、遠まわしにノゾミさんだけを特別視しないことを伝えられる。俺にとって、ジュンさんが一番だと伝わる…かも知れない。
そう、期待したのだが、
「守ってくれるってことよね?嬉しい!頼りにしているわ、虎二君」
ノゾミさんがギュッと抱き着いて来て、全てが水泡に帰した。
おーい、ノゾミさん。もしかしてだけど君、ワザとやってないか?
「さぁ、お部屋に行って、さっきの続きをしましょう?」
「クラスの報告会ね?」
主語はしっかり言ってね?ノゾミさん。意味深な言葉になっちゃってるから。
「済まないが、ノゾミさん。俺はもう少し、ジュンさんと話していくから。先に行っていてくれないか?」
俺の手をグイグイ引っ張るノゾミさんに、俺は待ったを掛ける。
ジュンさんは今、大変な状態だから、君も分かってくれるよね?
そんな思いでノゾミさんを見たのだが、不満そうな彼女が何か言う前に、後ろのジュンさんが「大丈夫!」と声を上げた。
「あたしも行くよ、虎ちゃん」
「ジュンさん」
大丈夫なのか?
俺はつぶさに彼女を見詰めて、真意を覗こうとする。
すると、彼女はニコリと笑った。
「虎ちゃん。あたしも頑張るから。だから、ちゃんとあたしを見ていてね?」
えっ。それって、もしかして…さっき言おうとしていたことの続き、なのか?
ノゾミさんと一緒に俺を引っ張り始めたジュンさんを、俺はジッと見る。
ジュンさんから色よい返事をもらうには、まだまだ努力が必要みたいだ。
〈◆〉
やっぱりまだ、虎ちゃんはノゾミの事も好きみたい。
でも、大丈夫。あたしのことも好きだって言ってくれたから。一歩リードしていたノゾミに、追いつくことが出来た。
だから、もう一歩だ。もう一歩、ノゾミの前に出よう。そしたら虎ちゃんに告白するんだ。
ノゾミに負けないように、あたしも努力するんだ。
虎ちゃんみたいに。




