稲生の戦い
観音寺城 1556年 8月
今川義元殿との会見の後、二日ほど駿府に滞在し今川氏真や今川家家臣団との親睦を深めさせてもらった。特に、岡部元信とは親しくさせてもらった。彼とは、一時期武田家に身を寄せていた時に手紙のやり取りを行っていたのだ。何とか武田家から引き抜こうとしたのだが、今川義元をはじめとすろ今川家への忠節を理由に断られてしまった。
横瀬商人たちは、特例で市への参加を許され、各々が持ってきた商品を売ったり特産品を購入したりしていた。彼らとはここ駿府で別れ別々に帰還することになった。
駿府を離れる際に義元殿から名馬を五頭も頂くことが出来た。流石は馬産地として知られる東国である。並みの大名では。将軍に名馬を一頭送ることがやっとなのに五頭も一気に送ってくれるとは。最後の最後に今川家隆興の凄まじさを見せつけられた。
衝撃を受けて駿府を出立した後ににこっそり、井伊谷に人を走らせ次郎法師とは岡崎にて合流し、今は観音寺城下の屋敷に住まわせている。だが未だに照にはこのことを話せていない。後回しにすればするほど良くないのだが未だに話す機会を見つけることが出来ていない。
人目を忍んで清須城を訪問した。織田信友の元、清須城下は復興しつつあるようだ。あれ程手酷く焼かれたというのに、この賑わい。戦国の民草の力強さには何度も驚かされる。
「六角殿、今日はちょうど友閑と名乗る町人が舞を教えに来ておりましてな。六角殿も習ってみませぬか。」
そう言って示した先には物腰柔らかそうな仏僧が座って待っていた。
「舞苦手である故、ご遠慮いたそう。されど、信友殿の舞の稽古を見物させていただこう。」
実を言うとこの清須に住んでいて、舞を教えに来ている友閑と名乗る人物に心当たりがある。松井友閑。織田信長が重用した、吏僚の一人であり堺代官という重職を任された人物だ。是非とも家臣に欲しい。あれこれ考えていたら、稽古は終わっていたようだ。
「其許、名をなんという。」
「拙僧、今は友閑松井友閑と号して暮らしております。」
「僧と言うことは、何処か寺の住職か。」
「拙僧の様なものに、住職なぞとても務まりませぬ。托鉢と施しによって、凌ぐばかりでございます。」
「この伊賀守、友閑の舞を見て気に入った。100石を持って召抱えたい。どうだ、その舞を教えてくれまいか。」
「拙僧は、清須の者。織田様が首を縦に振らなければお仕えできませぬ。」
「信友殿。良いか。」
「勿論にございます。お気に召されたのなら、断る理由はございません。」
「友閑。許可が出たぞ。」
「不詳友閑お仕えいたします。」
清須で思わぬ拾い物をしてしまったようだ。
駿府で今川義元から持ち掛けられた織田信長の領国を不安定化させる策においては、どうやら手を伸ばす前に織田家中が割ることとなった。私が観音寺城に到着してから十日後、織田信長の実弟織田信勝が林秀貞・林美作守・柴田勝家らとともに反旗を翻した。これに、犬山織田家の織田信清、清州織田家の織田信友が呼応し、織田信長は三方を敵に囲まれる事態に陥った。
史実では於多井川を挟んで、東西で対立していたのだが今回は清州城を中心に勢力を保つ織田信友、犬山城の織田信清、末森城を中心に勢力を構える織田信勝。完全に織田信長包囲網が敷かれている。しかも、織田信長の那古野城は庄内川の東にあり完全な突出部と化している。また、近くの吉田城や松葉・深田城への連絡路は清州城からの妨害を受け岩倉城は完全に孤立している。これの盤面はかなり詰んでいるように感じる。
「織田信友が織田信勝と手を組むのはまだわかる。しかし、犬山の織田信清が反旗を翻したのは驚いた。あれは先の岩倉攻めでも信長に援兵を送っていたはず。何があって信勝と手を組むに至ったか。」
「どうやら、岩倉織田家領を巡って諍いを起こしたらしく、そこから急激に仲が悪化していったと聞いておりますな。」
宮部継潤がそう話す。たしかに史実でも岩倉織田家領の扱いを巡って仲たがいしていたのでそれが早く起こったのだろうか。
「名目としては岩倉織田家の織田信家の復帰を名目として立ち上がっているようです。」
詳しく話を聞くと流石織田信長、開戦早々清州城城下を焼き払い、織田信友の動きを封じた。岩倉城に攻めかかってきた織田信清を撃退したようだ。しかし、織田信清は中々頑強に抵抗したようでその間に、信長が那古野城に帰還することを防ぐために名塚に信勝側は柴田勝家を指揮官として砦を築き始めた。ここに砦を築けば、小田井の渡しを塞ぐことが出来るからだ。
だが信長はあまりにも早かったようだ。建設途中の砦を奪ってしまった。これに慌てたのが那古野城を囲んでいた林通具だ。信長を引き付けてくれると信じていた同盟者達が鎧袖一触で蹴散らされ、砦まで奪われた。逆に自分たちが同盟者たちとの連絡を絶たれてしまった。
彼は、態勢を立て直した柴田勝家と連動し二手から名塚砦に襲い掛かった。稲生坂では信長勢三百余りと林勢七百が激突した。しかし、連戦連勝の信長勢は勢いに乗っており、信長自身が別同部隊を率いて横から突撃することで林勢を大いに打ち破った。林通具は雑兵の手にかかって戦死したようだ。
残りの軍勢を率いた織田信房は戦巧者である柴田勝家に大きく苦戦し、名塚砦に向かってどんどん押し戻されていったようだ。あわや総崩れといったところで信長の援軍が間に合い、信長が敵に対して大喝一声、すると身内同士の争いだったこともあり、柴田軍の兵たちは逃げていったという。信長は背後の織田信友を警戒し追撃を行わなかったので、柴田勝家が見事敗残兵を纏めて末森城撤退した。
ここで出てきたのが信長と信勝の母である土田御前である。勝利した信長ではあるが、軍の損耗は激しく長期戦になれば各個撃破される可能性も高い。そこで、土田御前の取りなしにより信勝は信長と対面して許された。有力武将であった林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人も信長に謝罪、忠誠を誓ったらしい。しかし、史実とは違い信長は完全に信勝を屈服させたわけではなく、いまだに弾正忠の名乗りを続けている。加えて、信勝は信友や信清らと和解を仲介するなど家中の影響力においては一部影響力が増したような痕跡すら見受けられる。弾正忠家は元鞘に戻っただけだろう。
信長には今川義元を打ち取ってもらうという大仕事があるので何とか基盤を固めて欲しい。しかし、勢力は大きくしないでほしいという強くなっては欲しいが強くなりすぎるのも困るといった相反する気持ちがある。




