留守番2
1556年 4月 観音寺城
鉄砲の弾薬不足という問題を抱えながらも直参家臣を中心に約五千余りの兵を集めることができた。時間がたてば、北伊勢にいる前野や堀尾、山内らの兵約三千を呼び寄せることができる。しかし、これをどう配置すべきか。
「若様、常道に則れば相手は田ノ谷峠を越えてやってくると考えられまする。されど搦め手も警戒せねばなりませぬ。故に兵を四手に分け、宇佐山・灰山城・松本山城に兵を進め、本陣を近江大津宮跡に布陣すればよろしいかと。さすれば、相手が裏をかこうとして小関越を通れば、本隊で迎え撃ちつつ、灰山から側面を突くことができまする。逢坂山関においても同様であり、峠を進む敵を松本山城から側面を衝き時間を稼ぎ灰山、近江大津宮跡からの援軍と合流させるのでありまする。」
「三雲、この宮部の策をどう思う。」
「理にかなっており良い策かと。皆、本隊を除き要害に依っており一挙に攻め落とされるようなことはなく他の部隊が援軍に来る時間を稼げましょう。しかし、これは互いに情報をやり取りし、いかに早く敵の動向を掴み援軍に赴くかが肝心。伝令の数を何時もより多くすればよろしいかと。」
宮部の策を基本とし、青地・三雲賢持・山岡にそれぞれ一千の兵を与え宇佐山・灰山・松本城に配置する運びとなった。この布陣を持って父が近江に戻ってくるまでの間何とかして耐え抜けばよい。
「兄上、是非ともこの鶴寿丸も連れて行ってくださいませ。」
困ったな。自分も勝手に軍について行って縛られて送り返された経験があるので強くいうことが出来ない。早めの初陣と思えばいいか。
「よかろう。ただし、兄の指揮に従いともに本陣にいること。危なく成れば素早く城に逃げ帰ること。この二つが守れないのなら連れていくことは叶わん。」
「分かりました。戦場においては兄上の指揮に従いまする。」
「よく言った。なら早く鎧兜を身に着けい。一刻を争うときぞ。」
弟の成長を喜びながら、帰った父にどう言い訳するか考える。三雲もこんな気持ちであったのだろうか。急ぎの行軍のため、通り道の城の蔵から兵糧を受け取るので小荷駄隊は連れて行かない。こちらには様々な不安要素がある。戦にならなければ良いが。
勝軍山城 松永久秀
一万の兵を率いて何処を攻めるかと思えば、六角に対する圧力をかけるだけと長慶様よりお聞きしたときは安心した。六角と三好、何時かは雌雄を決せなばならぬがまだその時期にはあらず。播磨では波多野がしぶとく抵抗しておるし、公方様との対立を何とかせねばならぬ。公方様を抱き込まずして、六角とは戦えぬ。
伊勢殿を通して斎藤から六角の背後を脅かしてほしいとの依頼があったときは驚いた。人の縁とはどこにつながるか全くわからぬもの。成り上がりの我らがいうのもおかしいが、名門伊勢家と斎藤家が婚姻を結ぶとは夢にも思わなんだ。
さて、手薄な領国を麒麟児殿はどう守るのか。尾張では精彩を欠いていたようだが。そのままであれば与しやすいし、立て直して来たら恐ろしく手ごわい相手。ここで見極めさせてもらおう。
我らが勝軍山の一帯に布陣してから数日で、六角方も布陣してきた。物見によれば、主要な小関、逢坂関、田ノ谷峠の三か所を宇佐山・灰山・松本城に拠ることによって効果的に防御できる布陣となっているようだ。
「兄者、六角の布陣は相当堅固なようだな。」
宇治橋の造替していたところを動員された我が弟、内藤宗勝本陣にやってきた。
「そうだ弟よ。六角の麒麟児は尾張で精彩を欠いていたというが、すぐに立て直してきよったのよ。これでは付け入る隙が無い。隙があれば南近江を荒らしてやったというのに。」
「どうだ兄者、六角の陣地に一当てしてみぬか。六角本隊は美濃にいるのなら、此方に割ける兵は多くないはず。軍を三手に分けて一斉に攻めかかればいい。」
「それも考えた、されどせっかくの大軍の利が生かせぬ隘路で戦うことに変わりがない。それに北伊勢より援軍がやってきているようだ。その数によっては、各個撃破の憂き目にあう。この状況は先に攻めた方が負ける状況よ。」
「口惜しいな。いつぞやの敗北の雪辱を晴らす機会と思うたのに。」
「なに、そう遠くないときに雌雄を決する時が来ると言っておるじゃろ。堪え性のないやつめ。そして、長慶様のご命令は六角の牽制。こうやって陣取るだけで構わん。危ない橋を渡る時ではない。」
どこか未練がましい顔をしている宗勝をおいて、城の櫓に上る。ここからでは敵の本陣がある大津を見ることは叶わぬが、山を隔てた向こう側にいる麒麟児に思いをはせる。雌雄を決する時が来ると言っているがそれは儂の半ば願望に近い発言である。あ奴が長慶様とは二十歳近く若いことを活かして長慶様がお亡くなりになるまで持久戦に持ち込まれれば、急拡大した三好が内外の圧力によって瓦解するやもしれん。待つことを知る人間は恐ろしく強い。強敵である我らとは戦わず、分裂した斎藤から領地を奪おうとしているのは、親子で戦略を共有しているからかもしれん。
長慶様と敵対し没落した者たちはこのような気持ちであったのだろうか。




