留守番
1556年 4月 観音寺城
父義賢が家臣たちの殆ど連れて美濃へ遠征に行っている中留守番である。特にやれることもないので、弟達と久しぶりに戯れているのである。まず次弟の鶴寿丸、これは史実においての義治であるが。なかなか気性が荒い人物ではあるが、武勇には優れた才覚を示しているように思う。特に弓術の才においては父に劣らぬものがある。最近は、一つ下の浅井猿夜叉と供に切磋琢磨している。このまま仲良く成長してほしいものだ。次に三男の鹿丸。史実においての高定のことだ。寡黙で武よりも文に秀でていると感じる。次男の義治とはあまり馬が合わないようだ。まあ、社交的な人物と内向的な人物のそりが合わないことは往々にしてよくあること。互いに成長して分別がつけば解消されるだろう。
そんな我が家の団らんに参加しているのが、浅井猿夜叉君である。すくすくと育ち、縦にも横にもでかく成っている。史実での彼の孫にあたる豊臣秀頼の体格は猿夜叉からの遺伝であるという説も頷ける。とはいえ、文武ともに優秀な快男児である。この世界では是非とも六角家の元でその才を発揮してほしいものだ。
「忠定の兄上、早く鶴寿丸も元服し戦場に出とうございます。」
夕餉に保内商人から献上された鯉のあらいと鯉こくを皆で食していると義治がそう切り出した。過去の自分を見ているようで笑みがこぼれる。
「鶴よ、武門の男児としてよい心がけである。しかし、体を鍛え、頭を鍛えなければ一端の武士になることはできない。博役の進藤から聞くところによると四書五経を学ぶことを嫌がり、隙あらば武術の鍛錬ばかりにかまけているそうではないか。一兵卒ならともかく、為政者において猪武者が大成した例は古今東西を見渡してもないぞ。」
勉学にも励むようにと伝えると、痛いところを突かれたのかむっとした顔をされてしまった。その顔に笑いが起こる。
「しかし、鶴寿丸さまとは反対に、亀寿丸様は戦場には出たがりましたが武芸の稽古は嫌がっておりましたな。いや、今もでしたな。」
「これは、大変なことを弟達に知られてしまった。」
三雲定持によって過去の行いがばらされてしまった。全く過去の自分の愚かさとを恨み、今現在の自分の怠惰さを反省するばかりである。
「皆は、この兄を反例として各々の苦手な分野から逃げずにしっかりと向き合うように。」
「この定持からも、忠定様には弟方の手本となるようにより一層武芸としっかりと向き合っていただきたいと進言申し上げます。」
最後にしっかりと釘を刺されてしまった。今一度自分を見直すこととしよう。
食事を終えて、照と供に同衾する。かいがいしく世話をしてくれる美しい妻に私はぞっこんである。小氷河期という時代ゆえか、四月といえどまだ春の訪れは遠いように感じる。
日が昇ると、寝所から這い出て冷たい井戸水で濡らした手拭いで体を拭く。最初はこの冷たさに慣れず、朝が相当憂鬱なものになっていた。人間の慣れとは恐ろしいものである。身支度を整えていると、山城との国境より何やら急報が飛んできたようだ。請われて本丸に戻ると、そこには私の直臣である坂井・青地・宮部・建部が集まっていた。
ここでの建部は、史実において織田信長や豊臣秀吉の元で吏僚として兵糧・弾薬・人員の手配など裏方で大きな活躍をした建部寿徳である。出家していたところを無理をいって取り立てたのだ。
「若様、山城との国境に近い勝軍山城に三好方が八千兵を集め、山科に兵を集めているとのこと。」
「播磨攻めがひと段落し、六角の主力が美濃に行った隙にがら空きの領国を襲おうとする算段か。」
「おそらくは、斎藤がつながりのある伊勢氏を通して三好氏に我が六角の後方を脅かしてほしいと頼んだのではないでしょうか。」
三雲の報告によって、諸将たちが次々と口を開く。先陣を切ったのが青地茂則大きく憤っていることがよく伝わってくる。そして、三好がここまで早く動けたのは斎藤高政が今年初めに娘を伊勢貞孝に嫁がせたことによってできた伝手を使ったに違いないと定持が発言する。確かに、嫁ぐ前にも両家の中を深めるためにいろいろと交流があっただろうから、その時に何かの約束事を交わしていても不思議ではない。
「宮部、どうする。策を述べよ。」
「やはり此方も兵を集め国境の城に兵を入れ、備えありという姿を見せつけることが肝心。守りが固いことを知れば三好とてこれ以上兵を進めるようなことはないと考え申す。」
「建部、兵糧・弾薬は十分にあるか。」
「ありていに申せば、兵糧は潤沢なれど、鉄砲の弾薬の欠乏甚だしきことこの上なし。鉄砲一丁につき五・六発が限度かと。」
「堺からの荷止めがきいておるか。」
「火薬はともかく、鉛が入ってこないのがきつうございます。」
「鉄砲がきついなら我らのお家芸である弓術に頼らざるをえんか。さりとて、我らが使えずとも相手は鉄砲を大いにつこうてくると考えらるる。各城には竹束を運び入れ、対策を怠らぬように伝えい。」
確か近江国内でも、鉛の鉱山が小規模ながら幾つかあったはず。山師に探させるか。やはり堺からの荷止めは効果抜群である




