第八話 五歳の私が選ばなかったもの
「ななちゃーん!」
朝、はるくんの声で目が覚めた。
私は布団の中で、ほっと息を吐いた。
いる。
今度は、はるくんがいる。
起き上がって机を見ると、昨日置いた絵も、書きかけの手紙もなかった。
赤い屋根の家はある。貝殻もある。
それだけでは、いつもの世界と何が違うのか分からない。
「ななちゃん、パン、なくなるよー」
廊下からはるくんが言った。
「え! 私のも食べる気?」
「ママが、よんできてって」
「それなら、そう言ってよー」
ドアを開けると、はるくんがにこっと笑った。
顔を見ただけで、うれしくなった。
リビングにはママがいた。
いつものようにお弁当のふたを閉めて、私のほうを見る。
「おはよう。顔、洗っておいで」
「おはよう」
ママも同じだ。
もっと優しくできた私の世界でも、ママは、いつものママに見えた。
*
朝ごはんのあと、私は棚の箱を見た。
ふたには、やっぱり「ななみ」と書いてある。
「ママ。この箱、見てもいい?」
「今? 学校、遅れちゃうよ」
「じゃあ、帰ってから」
「うん。どうぞ」
今すぐ開けたかったけれど、チャイムが鳴った。
かえちゃんだ。
「いってきます!」
学校へ行く道で、かえちゃんが工作の家の話をした。
「今度、庭に花も作ろうよ。紙をくるくるして、貼るやつ」
「いいね」
「ななみんちの、ぶらんこの横に」
こっちの私も、かえちゃんと家を作ったんだ。
ピアノを続けた世界では、そこに写真があった。
違ったり、同じだったり、いろんな選択をしてきた私がいることが、だんだんとわかってきた。
「何色にする?」
「……黄色」
「いいね。私、ピンクも持ってく」
かえちゃんは、いつもの調子で歩いていた。
私は、ママの黄色い服を思い出していた。
*
家に帰ってランドセルを置くと、朝、開けられなかった箱を開けた。
折り紙の冠。毛糸を貼った紙。
その下に、絵がある。
あった。
黄色い服のママと、腕の中のはるくん。
はるくんの髪の毛は、やっぱり三本だった。
こっちの私も、そうしたんだと思うと、少し笑えた。私は、わたしなんだ。
私はそっと、紙の端を触った。
端は少し曲がっているけれど、あのくしゃっとした折り目はない。
「ななちゃん、おやつ……ああ、それ見てたの」
ママが、私のそばにしゃがんだ。
「この絵、よく覚えてる」
「そうなの?」
「うん。はるくんが、まだ小さいときね」
私は絵を膝に置いた。
「どうやって、見せたんだっけ」
声が、少し変になった。
ママは気づかなかったみたいで、絵をのぞき込んだ。
「ママ、すぐ見られなかったんだよね。はるくんを寝かせていて」
そこは、同じ。
「ななちゃん、何度も見てって言ってたのにね。ママ、強く言っちゃって」
そこも、同じなんだ。
「それで?」
「ななちゃんが、ここに置いとくねって。ママの枕のところに置いてくれたの」
え?そうなの?
私はママの顔を見た。
「……そう、言ったの?」
「うん。それから隣の部屋で待っていたでしょう。はるくんが寝たあと見に行ったら、ななちゃんも眠ってたの」
ここに、置いとくね。
その言葉を選んだ私が、いたんだ。
「起きてから、絵のお話をしたんだよね。ママの服が黄色なのは、ななちゃんが好きな色だからって」
「……うん」
好きだった。
今も、好きだ。
でも、私の世界では、その話をした覚えがない。
ママに抱きついて、「うん」としか言えなかったから。
「はるくーん、おやつにしよう」
ママが立ち上がって、はるくんの元へ向かった。
私は、絵をしばらく眺めていた。
*
おやつを食べてから、私は宿題をした。
早く終わらせたら、ママと、もう少しお話ししたい。
あの日のこと。
こっちの私は、その時どういうふうに過ごしていたのか、知りたい。
プリントを終えてリビングへ行くと、はるくんがママの膝に座っていた。
小さい指に、絆創膏を貼ってもらっている。
「どうしたの?」
「かみで、きった」
はるくんが、ちょっと泣いた顔で言った。
「痛そう。大丈夫?」
「うん」
私は椅子に座った。
「ママ、さっきの絵のことなんだけど」
「うん。少し待ってね。今、ここ貼っちゃうから」
はるくんが指を動かす。絆創膏がうまくくっつかなくて、ママが貼り直した。
待ってね。
私は、持ってきた絵をテーブルに置いた。
待てるよ。今の私は、十歳だし。
紙で切ると、痛いのも分かる。
でも、ママが私のほうを向いてくれたらな、とは思った。
「ママ、ここもいたい」
はるくんが、別の指を出した。
「こっちは切れてないよ。大丈夫」
ママの声が聞こえる。
私は絵の中の、三本の髪の毛を見た。
こっちの私でも、待つのは寂しいんだ。
「お待たせ」
ママが、私の隣の椅子へ座った。
「絵のこと、どうしたの?」
ママが戻ってきてくれた。それだけで、ちょっと安心した。
「……このときの私、泣かなかった?」
ママは絵を見て、うーんと、少し考えていた。
「眠ったあと、目のところが濡れてたよ。泣いてたんだと思う」
「そうなんだ」
「すぐ見てほしかったんだよね。ママ、あとで気づいたの。ママとはるくんを描いてくれたんだって」
こっちの私も、泣いていたんだ。
「嫌い」と言わなくても、悲しかったんだ。
「ママ、うれしかった?」
「うん。すごく。だから取ってあるし、よーく覚えてるの」
ママの指が、絵の黄色い服に触れた。
「でもね、ななちゃんが待ってくれたから、それでよかったとは思ってないよ。もっと優しく言えばよかったなって、ななちゃんが見せに来てくれたときに、見てあげれていたらって、今でも思うよ」
そうなんだ。
わたしが我慢したから、待っていられたから、よかったわけじゃないんだ。
ママは、そう思うんだ。
「私、待ててたのに?」
「うん、ななちゃんは待っててくれてたけれど、我慢させてしまったでしょう。
ななちゃんの気持ちを、ちゃんと考えられるママじゃなかったなって。余裕がなかったなって。」
ママは小さく笑った。
私は絵を、自分のほうへ引き寄せる。
こっちのママの気持ちは、少し聞けた。
じゃあ、私のママは?
あの折り目のある絵を、どんな気持ちで取っておいたんだろう。
*
「ななちゃん、これ、ぼく?」
はるくんが絵を見つけて、不思議そうにみている。
「そうだよ」
「かみのけ、さんぼん」
「赤ちゃんだったからね」
「いま、いっぱいあるよ」
自分の頭を両手で押さえるから、おかしくて笑ってしまった。
「知ってる。毎朝、ぴょんってなるよね」
「ならないよー」
はるくんは少し怒ったふりをしたあと、また絵を指差して、見ている。
「ぼく、ミルクのんでるね」
「うん」
「ななちゃんが、かいたの?」
「私が描いたの」
この絵を描いたこっちの私は、ママに「嫌い」と言っていないはずだ。
ママもはるくんも、大好きで。
だから描いて、うまく描けたと思って。
すぐ、見せたくなったんだった。
私は、その前のことを忘れていたのかもしれない。
いつも、言ってしまった言葉のところから、思い出していたから。
大好きだから、描いたんだった。
*
夜、部屋に戻る前。
折り目を付けないように、両手で持って、そっと箱の中に絵を重ねる。
部屋に戻って、ベッドに座っていると、やがて、廊下の音が止まった。
窓や、家具の縁がにじみ、枕の横で鈴が鳴る。
「ころちゃん。あったよ。絵」
『うん』
「ここの私は、枕のところへ置いたんだって。ここに置いとくねって
私も、そうすればよかったんだよね」
ころちゃんは何もいわず、私の膝の上に座った。
「……でもね。こっちの私も、泣いたんだって」
『そうだったんだね』
「ママも、強く言ったのを、あとで気にしてた。
私が我慢しても、ママが困ったこと、全部なくなるわけじゃないんだね」
ころちゃんの背を撫でた。
毛の流れに沿って手を動かすと、ころちゃんは気持ちよさそうにしている。
「私も、見てほしかっただけなのにな」
口にすると、鼻の奥がつんとした。
「ママとはるくん、上手に描けたって思ったんだよ。それで、持っていっただけなのに」
ころちゃんが、私の手に頭を寄せた。
しばらく、撫でていた。
「……元のママにも、聞けるかな」
『何を?』
「絵のこと。まだ、覚えてるかな」
ころちゃんは、私を見た。
『帰ったら、ママはいるよ』
そうだよね。
でも、聞いたら少しだけ、帰りたくなった。
一文を書くとき、私はすぐに言葉を決めた。
〈あの日、私もママに絵を見てほしかった。〉
七色の文字が、私ところちゃんの前に浮かんだ。
うらやましいとは、書かなかった。
でも今は、この言葉を伝えたかった。
布団へ入ると、ころちゃんが枕の横に降りた。
「おやすみ、ころちゃん」
『おやすみ、ななみちゃん』
額に肉球が触れた。
私は目を閉じて、折り目のあるほうの絵を思い浮かべた。
帰ったら、あれをもう一度見よう。
ママの黄色い服も、はるくんの三本の髪の毛も。
私が、大好きで描いた絵を。
いつもありがとうございます。
とても嬉しいです。




