第七話 ずっと探していた「もしも」
「ママー! これ、どこー!」
廊下から声がした。
ころちゃんの肉球が額を離れるより早く、私は目を開けた。
「はるくん!」
『ななみちゃん、先に、上』
起き上がりかけた私の前で、ころちゃんが天井を指した。
七色の文字が浮かんでいる。
〈はるくんと、もう一度いっしょに遊びたい。〉
ふふ。あっちの私、はるくんのこと可愛いと思ってくれたんだ。
「そっか。遊んだんだ」
ちょっと大変じゃなかった? 同じ遊び、何回もしたがるんだよ。
そう言いたくなってから、文字をもう一度読んだ。
もう一度、いっしょに。
「ありがとう」
誰に聞こえるわけでもないけれど、声に出した。
ころちゃんの鈴が、小さく鳴った。
文字が淡くなり、部屋の輪郭が戻ると、私は廊下へ出た。
はるくんが片方だけ靴下をはいて、立っていた。
「ななちゃん、こっちがない」
「何が?」
「くつした!」
「ああ、そっか」
私ははるくんの前にしゃがんだ。
髪の毛が、一か所ぴょんと立っている。口の横に、パンくずが付いていた。
「なに?」
はるくんが私の顔をのぞき込む。
「……ううん。おはよう」
「おはよう。くつしたは?」
「探そうか」
ソファの下から靴下が出てきた。
どうしてこんなところにあるの。思わず笑うと、はるくんも笑った。
*
その日、学校から帰ると、私からはるくんを誘った。
「はるくん、飛ばそう」
「うん! きょうは、ななちゃんのからね」
「いいの?」
「きのう、ぼくからだったもん」
あっちの私と遊んだときは、はるくんからだったんだ。
私は黄色い飛行機を持ち上げた。
「じゃあ、いくよー」
飛行機は、テーブルの手前に落ちた。
はるくんが駆け寄って、拾う。
「ここ、なおしていい?」
「うん。お願い」
少しずつ翼を直す、はるくんの指を見た。
五歳の手。小さいけれど、ちゃんと自分で考えて私に教えてくれる。
そんな弟がとっても可愛い。
「できた」
はるくんが顔を上げた。
きらきらと目が輝いている。
「ありがとう。今度は、もっと飛びそう」
はるくんは、うれしそうに笑った。
*
金曜日、学校で作ったものを持ち帰る袋を探していると、棚の奥に大きな箱があった。
ふたに、ママの字で「ななみ」と書いてある。
「ママ、これ、昔の絵?」
「そうよ。見ていいよ」
私は箱を床へ下ろした。
昨日の世界にも、こういう箱があった。あ、昨日じゃない。月曜日か。
なんだか、昨日のように鮮明に覚えている。
ふたを開けると、折り紙の冠と、毛糸を貼った紙が見えた。
その下に、何枚も絵が重なっている。
あ。あった。
ママの服が、黄色い。
腕の中には、小さなはるくん。白い哺乳瓶の先が、はるくんの口にくっついている。
この絵だ。
紙の端に、くしゃっとした折り目があった。
指でなぞると、そこだけ少し硬かった。
*
あの日、私はこの絵を描いていた。
はるくんがミルクを飲んでいるところ。ママが、はるくんの顔をのぞいているところ。
二人とも、上手に描けた。
はるくんの髪の毛は少ないから、三本だけ。
はるくんとママに、すぐに見せたかった。今そこにいる二人を、今描いたから。
「ママ! 見て!」
ママははるくんを抱っこしていた。
「ななちゃん、ちょっと待ってね」
私は紙を胸の前に持ったまま、待った。
ママが、はるくんの口を拭く。背中をぽんぽんする。
もう、いいかな。
「ねえ、ママ。できたよ」
「うん。おむつ替えたらね」
私はママのそばについていった。
おむつの袋が、がさがさ鳴る。
はるくんの足が、ばたばた動く。
「これね、ママとね……」
「ななちゃん、もう少し待ってね。はるくん、ねんねだからね」
今度は、ねんね。
いつになったら、見てくれるんだろう。
「ママ、ねえ。今、見て」
「ななちゃん!」
急に、大きな声がした。
「ちょっと待ってねって言ってるでしょう」
私は、びっくりして動けなくなった。
ママの顔が、いつもと違う。
悪いこと、した?
ただ、見せたかっただけなのに。
「……ママ」
声を出したら、涙が出た。
紙のママが、よく見えない。
「ななちゃん、あのね」
ママが何か言おうとした。でも、腕の中ではるくんが泣いた。
ママははるくんを抱き直している。
また、はるくん。
私は待ってるのに。
「もういい!」
紙をぎゅっと握った。
「ママなんて、嫌い!」
隣の部屋へ走る。
誰もいない部屋の隅っこに座って、涙がとまらなかった。
紙は離したくなくて、泣いている間も、ずっと、握りしめていた。
しばらく、はるくんの泣く声が聞こえていたけれど、
その鳴き声の中、私も眠ってしまっていた。
次に、目を開けたとき、お腹に毛布がかかっていて、
ママが、そばに座っていた。
「ななちゃん、おはよう」
私は黙って、ママを見た。
「絵、見せてもらったよ。ママとはるくん、描いてくれたんだね」
ママが、しわの付いた紙を見せた。
「素敵な絵。すぐ見てあげられなくて、ごめんね。それに、強く言ってごめんね」
私は小さく、うなずいた。
「大好きよ、ななちゃん」
「……うん」
ママがぎゅうっと抱きしめてくれた。
私も手を伸ばした。
ごめんね。
そう言えばよかったのに。
5歳の私は「うん」としか言えなかった。
*
その夜のことも、少しだけ覚えている。
目が覚めて、ママを探しに眠っていた部屋を出ると、
リビングの明かりがついていて、帰ってきたパパが、ママと一緒にソファにいた。
ママの手には、私の絵があって、
パパがママの背中に手を置いているのが見えた。
ママは、目元を拭っているように見えた。
え?ママ、泣いてるの?
何を話しているかは、よく聞こえなかったけれど、
それでも、ママが泣いているのはよく分かった。
私が、嫌いって言ったからだ。
私が、ママを泣かせたんだ。
部屋へ戻って、布団を頭までかぶった。
ごめんねと言うのが、さっきより怖くなっていた。
*
「ななちゃん、あった?」
ママの声で、ハッと顔を上げると、
私は箱の前に座ったまま、絵を持っていた。
「……うん」
「袋は、隣の引き出しよ」
「あ、そっか。ありがとう」
ママは台所へ戻っていった。
私は、絵を箱へ戻せなかった。
今のママと、私は仲がいい。
一緒に笑うし、ピアノも聴いてもらうし、寒い朝にはぎゅーってくっつくことだってある。
それなのに、時々思い出す。
ママが優しくしてくれると、特に。
ママは謝ってくれたのに。
私だけ、まだごめんねって、言えてない。
土曜日、私は絵を持ってリビングまで行った。
ママは洗濯物を畳んでいた。
「どうしたの?」
「……ううん」
絵を後ろへ隠した。
ママに気づかれる前に、部屋へ戻った。
もう。かえちゃんには、言えたでしょう。
でも、五年前の「嫌い」を出すのは、金曜日のことを話すよりずっと怖かった。
私は机に紙を一枚置いた。
言えないなら、お手紙を書いてみよう。
『ママへ』
その下に、ゆっくり続けた。
『あのとき、ママを泣かせたのは私です。』
鉛筆を止めた。
次は、ごめんなさい。
たったそれだけなのに、書くと、あの日のママの顔が戻ってきそうだった。
私は、紙を裏返して、横へ鉛筆を置いた。
その隣に、絵も置いた。
*
日曜日の夜、私はベッドから机を見た。
書きかけの手紙は、まだあそこにある。
はるくんがいない世界へ、行きたかったんじゃないの。
ママと二人だけになりたかったのではないの。
はるくんも、ママもいてほしい。
ただ、あの日の私が、違うことを言っていたら。
「もうちょっと待つね」って言えたら。
「大好き」って言えたら。
あの夜、ママは泣かなかったのかな。
目を閉じると、鈴の音がした。
白いところで、ころちゃんが私を待っていた。
私は立ち上がらずに、聞いた。
「あの日の私、違うことを言えたのかな」
ころちゃんは近づいて、私の前に座った。
「もっと、優しくできた私もいる?」
『違う選び方をしたななみちゃんは、いるよ』
「会える?」
『会うことはできない。でも、その先を過ごすことはできるよ』
私はころちゃんの尻尾をぼぅっと、眺めた。
七色の先が、ゆっくり揺れている。
あの日の、先。
五歳の私に戻って言い直すんじゃない。その私が、ここまで来た場所。
私は、床に手をついて立ち上がった。
「行ってみたい」
ころちゃんが歩き出した。
置いていかれないように、そのすぐ後をついていった。
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