第六話 はるくんのいない世界?
目が覚めると、廊下が静かだった。
いつもなら、はるくんがママを呼んでいる。靴下が片方ないとか、パンは丸いほうがいいとか。
今日は、何も聞こえない。
私は布団から出て、ドアを開けた。
「ママ、おはよう」
「おはよう、ななちゃん。よく眠れた?」
台所にはママがいた。テーブルには、お皿が二つ置いてある。
パパはもう出かけたのかな。
「はるくんは?」
ママが振り返った。
「はるくん?」
「まだ寝てるの?」
ママは、卵焼きを載せたお皿を持ったまま、私を見た。
「誰のこと? お友達?」
ママ、何言ってるの。
ーそう、言葉にする前に、気づいた。
テーブルの横に、小さい椅子がない。
はるくんが座ると、いつも少しだけきいっと鳴る椅子。
冷蔵庫にも、はるくんが描いた、ぐるぐるの絵がない。
「ななちゃん?」
「……ううん。夢、見てたのかも」
自分で言って、胸がどきどきした。
夢だったら、よかった。
ママがお皿を置いたあと、私はリビングを見回す。
ソファの横の、紙飛行機の箱がない。幼稚園のかばんもない。
写真立ての中には、ママとパパと私だけがいた。
これは、別の世界だ。
でも、はるくんがいない。
*
「牛乳、もう少しいる?」
ママに聞かれて、私は首を振った。
「大丈夫」
ママは私の前に座った。
「今日、パートが少し早く終わるから、帰ってきたらおやつ一緒に食べようか」
「うん」
ママが、私を見ている。
はるくんに呼ばれて立ち上がることもない。私が話し始めれば、最後まで聞いてくれそう。
でもーー。
「ななちゃん、卵焼き、冷めちゃうよ」
「あ、うん」
食べてみると、いつもの味だった。
ママが焼いた卵焼き。甘くて、端がちょっと茶色い。
違うのは、私の隣だけ。さみしい。
学校へ行く前に、家の中をもう一度見た。
洗面所のコップは三つ。小さい歯ブラシもない。
誰もいない廊下で、私はそっと言った。
「ころちゃん。ねえ」
返事はなかった。
*
かえちゃんは、いつもと同じように迎えに来てくれて、一緒に登校した。
学校も同じだった。凛ちゃんも綾ちゃんもいた。
昼休み、綾ちゃんが工作クラブの話をした。
「次、何作るんだろうね。私、動くやつ作りたいな」
「車とか?」
「うん。輪ゴムで走るやつ」
「それ、はるくんが喜びそ……」
言いかけて、私は口を閉じた。
「はるくん?」
綾ちゃんが顔を上げた。
「あ。……小さい子が、喜びそうって」
「だよね。ななちゃん、そういうの上手そう。私、すぐタイヤ取れちゃうんだよ」
綾ちゃんは両手で丸を作り、ころんと倒してみせた。
私も少し笑った。
はるくんの名前を、みんな知らない。
私だけが、知っている。
授業が終わってから、かえちゃんと帰った。
曲がり角で別れたあと、道の端に、細長い葉っぱが目に留まった。
先がくるんと巻いていて、飛行機の羽みたいだ。
見せたら、はるくん、飛ばすかな。工作に使うんじゃないかな。
しゃがんで拾いかけた手が止まる。
ーー見せる相手は、この家にはいないんだった。
胸の奥が、ずーんと重たくなった。
*
家へ帰ると、ママが約束どおり待っていた。
「おかえり。手を洗っておいで」
テーブルには、クッキーが二枚ずつ置いてあった。
大きいのをはるくんが先に取ることも、私が最後の一枚を譲ることもない。
私は丸いクッキーを持ち上げた。
「今日、学校どうだった?」
「綾ちゃんがね、次のクラブ、車を作りたいって」
「へえ。何で作るの?」
「まだ決まってない。輪ゴムで走るやつ」
話すと、ママはうなずいた。
そのまま、クラブのことも、給食のことも話す。
こういう時間も、うれしい。
ママが私の話を楽しそうに聞いてくれる。
「……ママ」
「ん?」
「私、小さいころ、どんなだった?」
「急にどうしたの」
ママは笑って、お茶を飲んだ。
「お話が好きだったよ。見て見てって、いろんなもの持ってきてくれた」
「絵も?」
「もちろん。今も取ってあるよ」
ママが棚から箱を出してくれた。
開けると、折り紙や、小さな紙の冠が入っていた。
その下に、絵が何枚も重なっている。
ママとパパと私。
大きな花。赤い電車。
あの絵はなかった。
ママが、はるくんにミルクをあげている絵。
私は一枚ずつ、元の順番に戻した。
「懐かしい?」
「……うん」
ママは私が箱を閉めるまで、隣にいてくれた。
*
夕方、一人で宿題をした。
いつもより早く終わった。
「ママ、終わったよ」
「はーい。置いておいてね」
何をしようかな。時間が余った。
私は引き出しから紙を一枚出して、飛行機を折り、翼を開く。はるくんに教えてもらったみたいに、両方をそろえてみる。
そっと飛ばした。
飛行機は机の向こうへすうっと進んで、本棚に当たって落ちた。
「はるくん、見て。飛ん……」
言いかけて、やめた。
私は飛行機を拾いに行った。
一回飛んだだけで、先が少しつぶれていた。
いつもなら、はるくんが先に拾ってくれる。
私のなのに、勝手にまた飛ばすこともある。
「ちょっと待って」って言うと、聞こえないふりをする。
今は、私が拾わなければ、ずっとここに落ちたままだ。
私はつぶれた先を、指で直した。
*
晩ごはんのとき、パパが学校のことを聞いてくれた。
ママはお昼に聞いた話なのに、また笑った。
この家も、楽しくないわけじゃない。
ママもパパも優しい。ここの私は、きっと二人とたくさん話してきたんだろう。
それでも、空いているところを探してしまう。
テーブルの横。お風呂の小さなおもちゃを置くところ。廊下の隅。
いない人の場所ばかり、見てしまう。
夜、部屋で一人になると、私は飛行機を机へ置いた。
時計の音が途切れ、本棚がぼやけ始めた。
チリン。
「ころちゃん!」
枕の横に現れたころちゃんへ、私は駆け寄った。
「はるくん、いないの。写真にも、どこにも」
『うん』
「私が、そう思ったから?」
声が小さくなった。
「私、昔、はるくんのせいって思ったことがあったの。ママがすぐ来てくれないの、はるくんのせいだって。でも、いなくなってほしいって、そんなこと……」
『ななみちゃんが、消したんじゃないよ』
私はころちゃんを見た。
『ここは、ずっと前から、こういう家族だったんだ。ななみちゃんのおうちでは、はるくんは今日も過ごしているよ』
「……ほんと?」
『うん』
私はベッドに座り込んだ。
握っていたパジャマの裾を、ゆっくり離した。
「私が何か思うと、いなくなっちゃうんじゃないんだね」
『そうだよ』
ころちゃんの背中へ手を置いた。
温かかった。
「ここ、ママといっぱい話せるの」
『うん』
「おやつも二人で食べた。私、それは、うれしかった」
言っていいのか、少し迷った。
ころちゃんは黙って聞いていた。
「でも、はるくんにも会いたい。飛行機が飛んだの、見せたかった」
机のほうを見た。
飛行機の形も、今はぼんやりしている。
「ママと話したいのと、はるくんに会いたいのと、両方なんだね。私」
口にしてから、少し息がしやすくなった。
今も昔も、はるくんのことは大好き。
でも、あの日の言葉を思い出すと、胸が痛くなる。
「帰れるんだよね。今夜」
『うん。一文を残したら、帰ろうね』
ころちゃんがふわりと浮き上がった。
私は差し出された尻尾を、やさしく握った。
ここの私に、何て書こう。
ママとおやつを食べたことも、飛行機が少し飛んだことも、あった。
それでも、一番心に残っているのは。
〈今日は、はるくんに会いたくなりました。〉
書いてから、七色の文字を見た。
もう一人の私は、はるくんのことを、どんなふうに思っただろう。
私は布団へ入った。
「ころちゃん。あの飛行機、ここに置いていくね」
『うん』
「ここの私も、飛ばしてみるかな」
ころちゃんは、机のほうへ顔を向け、飛行機をみていた。
それから私の額に、そっと肉球を置いた。
明日、はるくんに何て言おう。
今日は私から、遊ぼうって言おうかな。
考えているうちに、まぶたが重くなった。
今度は、目を開けたあとの朝が、待ち遠しかった。
いつもありがとうございます。
七海を見守っていただけてうれしいです。




