第五話 あっちの私も、私がうらやましい
『ななみちゃん。朝だよ』
額の上で、ぽん、ぽんと肉球が動いた。
分かってる。起きなきゃ。
でも、まだ目を開けたくない。
『ななみちゃん?』
「……明日になっちゃった」
『うん。火曜日だよ』
薄く目を開けると、ころちゃんの顔があった。その向こうに、いつもの天井が見える。
机の上には、赤い屋根の家。
ーー写真立てはなかった。
そっか。帰ってきたんだ。
「ころちゃん、もう一人の私は?」
『おうちへ帰ったよ。一文を、残していったよ』
ころちゃんが前足を上げる。目で追うと、天井に七色の文字が浮かんでいた。
〈ピアノを休んでもいいあなたが、うらやましかった。〉
「……え?」
私は体を起こした。
もう一度読む。休んでもいい、あなた。
「私のこと?」
『ななみちゃんに、書いたんだよ』
「でも、私、弾けないんだよ。昨日みたいには」
ころちゃんは黙って、天井を見上げていた。
もう一度、読んでみるけれど、書いてある文字は変わらない。
私がうらやましかったのは、弾けるあなたなのに。
「なんで?」
つぶやいたとき、廊下で足音がした。
「ななちゃん、起きてる?おはよう。」
ドアが開くと、ころちゃんも文字も、ぱっと見えなくなった。ぼんやりしていた本棚の端が、いつもどおりにはっきりする。
「あ、うん。おはよう。」
ママが顔を出して、窓へ向かった。
カーテンが開き、朝の光が、赤い屋根に当たる。
「今日は、もう起きてたのね。ごはん、もう少しでできるからね」
「うん。着替えたら行く」
ママが出ていったあと、天井を見上げると、
少しして、同じ一文がまた浮かんだ。ころちゃんが、枕のそばに戻っている。
「……途中だったから、待っててくれたの?」
『うん』
私は文字を、心の中でもう一度読んだ。
昨日、こっちで何があったんだろう。
*
朝ごはんのあと、リビングのピアノの布をめくった。
譜面台には、あの曲が開いてあった。私、の楽譜だ。
右手で最初の音を鳴らし、左手を置く。
あれ?
昨日は、ここで指が動いたのに。
もう一度やってみた。右手につられて、左手まで同じように動こうとする。
「ななちゃん、そろそろ歯、磨いちゃってね」
「はーい」
私は鍵盤から手を離した。
昨日の音は覚えている。かえちゃんが息を吸ったところも、最後に一緒に止まった感じも。
でも、指は昨日の指じゃなかった。
やっぱり、帰ってきちゃったんだなあ。
「昨日も、ピアノ、見てたね」
ママが、空いたお皿を重ねながら言った。
「昨日?」
「久しぶりに楽譜出したから、懐かしくなったの?」
「……うん。ちょっと」
ママはお皿を持ったまま、私のほうを見た。
「ピアノ、今日は休んでもいいのって。ななちゃんが聞くから、びっくりしちゃった」
心臓が、どきんとした。
「え?」
「今は習っていないんだし、弾きたいときに弾いたらいいんじゃないって、ママ言ったでしょう?毎日やらなきゃって、思ってた?」
私は首を振った。
「ううん」
「でも、昨日は、休んだらもっと弾けなくなるかなって、気にしてたでしょう。発表会もないんだよねって聞くから、またピアノやりたくなったのかなと思ったの」
「……そっか」
ママには、そう聞こえたんだ。
でも、あの一文を書いた私は、出たくて聞いたのかな。出なくてもいいと確かめたかったのかな。
毎日、やらなきゃ。
そう思っていたのは、こっちに来た私だったのかな。
「ななちゃーん。ひこうき、いれていい?」
はるくんが、紙飛行機を持ってきた。
「どこに?」
「あそこ。きのう、はこ、つくったでしょう」
ソファの横に、置いてあるお菓子の箱。ふたのところに、青い色鉛筆で飛行機が描いてある。
あ。私の字だ。
『はるくんのひこうじょう』って書いてある。
「……これ?」
「うん。ななちゃんのは、こっち」
はるくんが黄色い飛行機を取り出した。
「ななちゃん、へたっぴだったね。すぐ、おちちゃった」
「えー。へたっぴかあ。」
思わず笑った。
向こうの私も、何でもできるわけじゃないんだ。
「きょうもやろうね」
「うん。学校から帰ってからね」
はるくんは二つの飛行機を、箱の中に並べた。
昨日、私はピアノを弾いていた。
あっちの私は、ここで、はるくんと飛行機を飛ばしていた。
同じ時間に、ちがうことをしていたんだ。
*
学校へ行くと、かえちゃんが凛ちゃんに声をかけていた。
「今日も音楽室だって。ななみも行く?」
「……私も?」
「うん。昨日、用事がある子は来れなかったから、今日も合わせるんだって」
凛ちゃんが楽譜を持っていた。
そうだ。ここでピアノに座るのは、私じゃない。
「行く。歌詞カード、持ってくる」
昼休み、私はかえちゃんの隣に立った。
凛ちゃんが椅子を直す。昨日のあっちでは、私があそこに座ってたんだよね。
「最初、入るところ見ててね」
凛ちゃんに言われて、私はうなずいた。
音が鳴る。
私は息を吸って、歌い始めた。
弾くときと、聞こえ方が違う。
今度は私が、ピアノの音へ声を重ねている。
最後の言葉を伸ばして、音が止まるのを待った。
「合ったね」
かえちゃんが笑った。
「うん」
楽しかった。でも、やっぱり、あそこでも弾きたい。
そう思いながら、私は歌詞の紙を折りたたんだ。
*
家に帰ると、はるくんと飛行機を飛ばして遊んだ。
黄色い飛行機は、くるっと回って、私の足元に落ちた。
「ふふ。私、へたっぴだ」
「こっち、まがってるんだよ」
はるくんが翼を開いて、折り直してくれた。
もう一度飛ばすと、さっきより遠くまで行った。
「おお。先生、ありがとう」
「せんせいじゃないよ。はるくんだよ」
私たちは笑って、飛行機を拾いに行った。
ママが洗濯物を畳んでいるそばで、はるくんが一人で飛行機を折り始めた。
ピアノの電源を入れた。
「今日はなに弾くの?」
「うん。ちょっとだけ、送る会のやつ。」
左手から、ゆっくりやってみる。
昨日の楽譜にも「ゆっくり」ってあったっけ。
その隣の発表会の楽譜には、もっとたくさん、丸や線があった。
あれは、全部すぐ弾けたから付いていたんじゃないんだよね。
私は、左手の音をもう一度押した。
「ママ」
「ん?」
「ここ、ちょっと聴いててくれる?」
ママは畳んでいたタオルを置いた。
「うん。いいよ」
両手を置く。最初のところは合った。でも、次で止まる。
「あー。やっぱり」
「右手が先に行っちゃったね」
「もう一回、聴いてて」
言ってから、私はママを見た。
ママは、そのまま座って待っていた。
もう一度、最初の音を鳴らした。
*
その次の月曜日も、いつもの部屋で目が覚めた。
ピアノは、急に上手にならなかったけれど、毎日、少しずつ弾いて練習をした。
はるくんに呼ばれたらやめる日も、もうちょっとだけと頼む日もあった。
ころちゃんには会えなかった。
会えたら、あの一文のことをもう少し話したいな。あっちの私の話、聞きたいな。
でも、何を聞けばいいのかは、まだ分からなかった。
その週の土曜日、はるくんがテレビの横の写真を指さした。
「ママ。ぼく、あかちゃんだったとき、ちいさかった?」
「小さかったよ。写真、見る?」
ママがアルバムを出すと、はるくんは床へぺたんと座った。
私もはるくんの隣に座り、覗き込む。
「うわ。顔、まんまる」
「ななちゃんも!」
はるくんの指が、隣に写っている私を指す。
今のはるくんと、同じくらいの私。
赤ちゃんを抱いたママの横で、両手を背中に回して立っている。ちいさい。
「ななちゃんも、五歳だったのよ」
「ぼくとおんなじ!」
「そう。もう五年もたつのね」
ママがページをめくった。赤ちゃんのはるくん。眠っているはるくん。ミルクを飲むはるくん。
「ママ、ずっとはるくん抱っこしてるね」
私が言うと、ママは写真を見て笑った。
「そうね。下ろすと泣くことも多かったから。ななちゃんにも、待ってもらうことが多かったね」
ちょっと待ってね。
はるくん、ねんねだからね。
声が、頭の中によみがえった。
私はアルバムから手を離した。
「ななちゃん、これ見て。ぼく、くつした、ぬげてる」
「……ほんとだ」
笑おうとしたけれど、写真がよく見えなかった。
日曜日になっても、あの声が離れなかった。
布団に入ると、五歳の私が、ママのそばで足をばたばたさせている気がした。
もう少し、待てたらよかったのに。
あんなふうに、ママを困らせなければよかった。
チリン。
目を開ける前に、私は小さく呼んだ。
「ころちゃん?」
いつもありがとうございます。
物語も、そろそろ折り返し地点です。




