第四話 あっちの私がうらやましい
昼休みの音楽室で、私はピアノの椅子を少し前へ動かした。
目の前には、今朝弾いた曲の楽譜がある。
電子ピアノとは、指の下の感じが少し違う。低い音を一つ鳴らすと、椅子に座った体まで、小さく響いた。
「じゃあ、最初から合わせてみようか」
先生の声で、窓際に集まっていたみんなが歌詞の紙を持ち直した。かえちゃんも、凛ちゃんもいる。
私は先生へ顔を向けた。
「少し、ゆっくりでもいいですか」
「いいよ。みんなも、ピアノをよく聴いてね」
先生が片手を上げた。私は息を吸い、かえちゃんのほうを見て、うなずいた。
最初の音を鳴らす。
右手に左手を重ねると、今朝と同じように音がつながり、その少しあとから、みんなの声が入ってくる。
私の指が、ほんの少し迷った。
ひとりで弾いていたときにはなかった声が、すぐそばまで来ている。緊張して、次に押す鍵盤が分からなくなりそうだった。
先生の手が、ゆっくり下がった。
そうだ、ゆっくり、落ち着いて弾けば、今朝も弾けた。
私はその動きを見て、一つ音を鳴らした。次の音も、慌てずに押す。歌声がそこへ重なった。
あ、ここで、一緒になるんだ。
音符ばかり見ていた目を少し上げると、かえちゃんが口を大きく開けて歌っていた。凛ちゃんは歌詞の紙を両手で持ち、体を小さく揺らしている。
次の段へ進む。
左手を置き直すと、低い音が続いた。右手も止まらなかった。私はそのまま、みんなの歌を聴きながら弾いた。
最後の言葉を、声とピアノで長く伸ばす。先生の手が閉じるのに合わせて、私は指を離した。
音楽室が、ふっと静かになった。
「合ったね」
かえちゃんが、歌詞の紙を下ろして笑った。
私もうなずいた。胸の中には、まだ最後の音が響いているようだった。
「ななみ、もう一回いい?」
凛ちゃんが楽譜をのぞき込んだ。
「私、二番の歌詞で、一番のほう歌っちゃった」
「私も」
後ろから声がして、クラスの皆の笑い声が聞こえる。
たのしいな。
楽譜の最初へ目を戻す。
「うん。もう一回」
今度は、歌い始める前のみんなの息まで聞こえた。
*
練習が終わると、かえちゃんがピアノのそばへ来た。
「最後、ぴったりだったね」
「うん」
私は楽譜を閉じながら、もう一度うなずいた。さっきから「うん」ばかり言っている。でも、ほかの言葉がなかなか出てこなかった。
「明日もここだって。先生が言ってた」
「明日も?」
「うん。同じ時間」
私は、閉じた楽譜を抱きしめる。
明日も弾ける。また、あの最後のところを、みんなと一緒に。
そう思ってから、今夜のことを思い出した。
「……そっか」
「ななみ?」
「ううん。教室、戻ろう」
音楽室の戸を出て振り返ると、鍵盤にはまだふたが開いていた。
明日、あそこに座るのは、こっちの私だ。
廊下ではかえちゃんが待っていた。私は楽譜を抱え直し、その隣へ急いだ。
*
家へ帰っても、私はピアノを弾いた。
今度は歌詞を思い浮かべながら弾いてみる。音楽室で先生が指揮をしていた速さを思い出すと、朝より少し弾きやすかった。
「ななちゃん、それ、ようちえんでもきいた」
はるくんが、赤い紙飛行機を持ってやって来た。
「知ってるの?」
「うん。さいごだけ」
私が終わりのところを弾くと、はるくんは知っている言葉だけ、少し大きな声で歌った。歌が先に終わってしまい、私は笑いながら最後の音を伸ばした。
「ここまでだよ」
「もういっかい」
今度ははるくんの声を待ってから、指を離した。
「できた」
はるくんがうれしそうに言う。その言い方が、今朝の自分と同じで、すこしおかしかった。
台所からママが顔を出した。
「たのしそうね。今日はその曲が気に入っているのね」
「昼休みに、みんなと合わせたの」
「そう。どうだった?」
「最後まで、合ったよ。歌と、一緒に」
「よかったね」
ママは笑ってから、電子ピアノの横に重ねてある、もう一冊の楽譜を指した。
「発表会のほうは、昨日の続き、あとでやる?」
私はそちらを見た。朝、自分の部屋で見たものとは違う表紙だった。
発表会。
写真の中の自分が座っていた、大きなピアノを思い出す。
「……あとで、見てみる」
ママが台所へ戻ると、私はその楽譜を開いた。角の折れたページには、鉛筆の丸や短い線がたくさん付いていた。一つのまとまりを囲んで、「ここから」と書いてある。
右手の音を少し拾ってみたけれど、知らない曲だった。どんな速さで、どんなふうにつながるのか、楽譜を見ただけでは浮かばない。
こっちの私は、こんな難しい曲も練習しているんだ。
ページの端を押さえながら、もう一度、音符を目で追った。次の発表会では、この曲を弾くのだろうか。
「ななちゃん、さっきの」
はるくんが椅子のそばへ戻ってきた。
「歌う?」
「うん」
はるくんと一緒に、練習を続けた。
*
晩ごはんのあと、私は明日の時間割をそろえた。
算数の教科書を入れ、国語のノートを重ねる。いつものようにランドセルを閉じかけて、机の上の楽譜に目が止まった。
明日も、音楽室。
楽譜の表紙を、指で一度なぞる。
一応、入れておこう。学校にも、あるけれど。
お風呂から上がって、歯を磨いている間にも、昼休みの歌が頭の中に流れてきて、嬉しくなった。
部屋へ戻ると、机の写真立てが目に入る。
ピアノの前で、こちらを向いている私。隣にいるはるくんも、ママもパパも笑っている。
私は写真立てを持ち上げた。
私も、この中にいたかったな。
廊下から、ママとはるくんの声が聞こえた。はるくんがまだ眠くないと言って、ママが何か答える。
その声が、途中でぷつりと途切れた。
写真の中の家族の顔が、少しにじんだ。机も、ランドセルも、輪郭がぼんやりしていく。
あ、ころちゃんがくるかも。
私は写真立てを元の場所へ戻した。
チリン。
ベッドの端に、ころちゃんが座っていた。尻尾の先が七色にはっきり光っていた。
帰る時間だ。
私は机の前に立ったまま、ころちゃんを見た。
「ころちゃん。今日ね、弾けたんだよ」
『うん』
「両手で、最後まで。学校でも、みんなが歌ってくれて」
話しているうちに、声が少し弾んだ。
「私が弾くと、みんなの声が入ってくるの。最後も、一緒に止まれたんだよ。もう一回って言ってもらって、また弾いたの」
ころちゃんの尻尾の先が、ゆっくり揺れた。
私はベッドのそばへ行き、隣に腰を下ろした。
「明日も、合わせるんだって」
ひざの上で、両手を重ねる。
「だから……明日までじゃ、だめ?」
ころちゃんが私を見上げた。
「昼休みが終わるまででいいの。そしたら帰るから」
『明日の昼休みも、弾きたいんだね』
「うん。今日、できたから。明日は、もう少し上手に合わせられるかもしれないし」
言いながら、私はひざの上の指を動かした。
ころちゃんはすぐには答えなかった。私はその小さな顔を見つめた。
『でも、ここで過ごせるのは、今夜までなんだ』
指が止まった。
「ころちゃんが連れてきてくれたんでしょう? もう一日だけ、なんとかならない?」
『わたしにも、一日を延ばすことはできないよ』
私は、机の写真へ目を向けた。ぼやけていて、さっきまで見えていた顔がよく分からない。
「……私、やめなければよかった」
ころちゃんは、私の隣に座っていた。
「あの曲、ずっと弾けなかったの。練習したのに、先生のところに行くと、また止まっちゃって。もう一回やろうって言われるのも、嫌になって」
私はひざに置いた手を握った。
「でも、好きじゃないって言ったのは、うそだったんだと思う。今日、すごく楽しかったもん」
『そっか』
「こっちの私は、やめなかったんだね」
写真の横には、知らない楽譜が並んでいる。その一冊ずつを、この部屋の私は弾いてきたのだろう。
私は、その間、何をしていたんだろう。
友達と遊んだ日も、はるくんと絵本を読んだ日もあった。でも今は、何を思い出しても、昼休みの音楽室へ気持ちが戻ってしまった。
「私、こっちの私がよかった」
声に出すと、胸の奥がきゅっとした。
「ここにいたら、明日も弾けるんでしょう。かえちゃんも、ママも、はるくんもいるし。私だけ、ピアノが弾ける私になれるのに」
ころちゃんは、私の握った手へ鼻を近づけた。指の間に、柔らかな毛が触れた。
『ここのななみちゃんも、今夜、自分のおうちへ帰ってくるよ』
私は顔を上げた。
『ななみちゃんたちは、一日ずつ、入れかわっているんだ』
明日の音楽室には、こっちの私がいる。今日、自分の代わりに、ピアノに布のかかった家で過ごした私だ。
「……分かってる」
小さく答えた。でも、喉のところが詰まって、次の言葉はうまく出なかった。
ころちゃんは私の手から顔を離し、隣で待っていた。
私はひとつ息を吐いた。
「分かってるけど、帰りたくない」
『うん』
「分かってるのに。なんで、帰りたくならないんだろう」
ころちゃんの背に手を置き、暖かい背中を何度か撫でた。ころちゃんは急かさず、撫でられるがままにしていた。
*
しばらくして、私は机のほうを見た。
「一文、書くんだよね」
『うん。ここのななみちゃんに、伝えたいことはある?』
ありがとう、と書こうかと思った。
この手のおかげで弾けた。みんなと歌えた。それは、ありがとうと思っている。
私は、ひざの上の自分の手を見た。
「……いいなあって、書いてもいい?」
『ななみちゃんが、伝えたいことを書いていいんだよ』
ころちゃんがふわりと浮き上がった。私の手元へ、七色に光る尻尾の先が近づく。
やさしく握ると、
指の先で、尻尾がペンになった。空中へ少し動かすと、七色の細い線が現れる。
私は一文字ずつ、文字を描く。手が右へ進むたびに、ころちゃんも体を浮かせたまま、そちらへ動いた。
〈ピアノを続けたあなたが、うらやましい。〉
最後の丸を書いても、私はしばらくペンを離せなかった。
明日の朝、ここの私は、これを読むんだ。
楽譜にいくつも花丸をもらった手を持つこっちの私。
自分のことを、うらやましいと思った私がいたことを知る。
どんな顔をするだろう。
私が指を緩めると、ペンの先は柔らかな尻尾へ戻り、ころちゃんは枕のそばへ降りた。
七色の一文が、空中に残っている。
私は横になると、枕に頭を置いた。
ころちゃんがそばへ来る。
「ころちゃん」
『なあに』
「今日の最後のところ、ほんとに、ぴったりだったんだよ」
『うん』
ころちゃんの肉球が、額にそっと触れた。
布団の中で、両手の指を小さく動かした。
昼休みのかえちゃんたちの声が、脳裏に響き渡る。
明日も弾きたかった。
その気持ちを残したまま、私はもう一度、最後の音まで思い浮かべた。
やがて指が動かなくなり、七色の光もまぶたの向こうへ遠のいていった。
いつもお読みいただきありがとうございます。




