第三話 二度目の月曜日
ぶらんこは、二人乗りにしたら、傾いた。
「あれえ」
火曜日の放課後、私の部屋の床には、空き箱と色紙が広がっている。かえちゃんが小さな紙の椅子を指で押すと、ぶらんこは右へ寄ったまま揺れた。
「こっちのひも、長いんじゃない?」
私は結び目をほどこうとした。けれど、短く切ったひもは、爪を入れてもなかなか緩まない。
「……かえちゃん、ここ、押さえててくれる?」
「いいよ」
かえちゃんが椅子を押さえ、私は両手でひもをつまむ。しばらくすると、小さな輪がほどけた。
「あ、取れた」
結び直して赤い屋根の家の隣に置くと、今度はまっすぐになった。
「できたね」
かえちゃんの声にうなずいて、私はぶらんこの真ん中をそっと押した。二人で乗れる椅子が、ゆっくり揺れた。
*
その次の月曜日は、何も起こらなかった。
朝、私は目を開けると、机の上を確かめた。白い貝殻も、二人で作った家も、昨日と同じところにある。鈴の音は聞こえず、台所から、朝ごはんよとママの声がした。
学校ではかえちゃんと笑って、算数の問題を一つ間違えて、帰り道には給食の話をした。夜、布団に入っても部屋の景色はにじまなかった。
あの一日だけだったのかなあ。
白猫さんにはもう、会えないのかなあ。
天井に七色の文字はもうなかったけれど、書いてあった言葉は覚えていた。
*
その週の水曜日、音楽の先生が六年生を送る会の歌詞を配った。
「先生、私、その曲弾けます」
凛ちゃんが手を挙げた。先生が椅子を譲ると、凛ちゃんは姿勢を正し、鍵盤に両手を置く。
最初の音が音楽室に広がり、私は歌詞の紙から顔を上げた。知っている曲だ。右手の明るい音に、左手の低い音が重なっていく。
途中で、凛ちゃんの左手が止まった。
「あ、ここ、なんだったっけ」
先生が楽譜を指さす。凛ちゃんはうなずき、少し前から弾き直した。その音を聴きながら、私は膝の上でそっと親指を動かした。
私の家にも電子ピアノがある。三年生のときにやめてからは、布をかぶったままだ。
最後の音が響くと、教室に拍手が起きた。私も手をたたき、席へ戻ってきた凛ちゃんに声をかけた。
「左手も、あんなに動くんだね」
「最初、右手につられちゃってさ。そこばっかり練習したの」
凛ちゃんは笑って、自分の指を曲げたり伸ばしたりした。
「ななみも、前、習ってたよね」
隣のかえちゃんが言った。
「うん。この曲も、少しだけ。右手で」
「そうなんだ」
私はもう一度ピアノを見た。自分が弾いていたときには、メロディーだけだった。そこへもう一つの音が重なると、こんなふうに聞こえるんだ。
家へ帰ったら、弾いてみようかな。
*
その日の夕方、私はリビングの電子ピアノの前に立つ。布の上には、はるくんの赤と青の紙飛行機が並んでいる。二つをソファに移して布をめくり、電源を入れた。
白い鍵盤を一つ押すと、懐かしい音がした。
凛ちゃんが弾いていた曲を右手で探してみる。最初のところは思い出せるけれど、その先はなかなか思い出せない。
「ななちゃん、ピアノ?」
洗濯物を抱えたママが、リビングをのぞいた。
「今日、この曲を凛ちゃんが弾いてたの」
私が覚えているところをもう一度弾くと、ママは「ああ」とうなずいた。
「前に練習してたね。楽譜、出そうか」
「うん」
ママが棚から出してくれた楽譜には、大きな花丸がいくつも付いていた。弾けるようになると嬉しくて、同じ曲を何度も弾いた。ママも、はるくんも聴いてくれた。
目当ての曲は、最後のほうにあった。そのページには花丸はなく、左手の音符のそばに、鉛筆で「片手ずつ」と書いてある。
私は譜面台に楽譜を置き、左手の音を一つずつ確かめた。別々なら指を動かせるのに、両手を合わせると、弾けていた右手まで止まってしまう。
私、そういえば両手で弾くのが苦手だった。
学校から帰ると、片手ずつ何度も練習していた。両手の音が少しつながった日は、次こそ丸をもらえると思った。
でも、レッスンではなかなか成功しなくて、悔しい思いを何度もした。
先生と一緒にゆっくり弾くと進めるのに、一人になるとできなくなる。「もう一度、一緒にやって」と頼みたかったけれど、何度も教わったところだったし、もう一度と頼むのはなんだか恥ずかしくて、できなかったんだ。
やめたいとママに話したときも、「難しい」とは言わなかった。
「もう、ピアノ好きじゃない」
楽譜を見つめる。
本当に、ピアノが好きじゃなくなったのかな。
「ななちゃん、ひこうきは?」
はるくんの声に、私は振り返った。
「ソファにあるよ。ごめんね、動かしちゃった」
「ピアノ、ひくの?」
「ちょっとだけね」
はるくんが赤い紙飛行機を持って、そばに座った。私は、右手で弾けるところをゆっくり弾いた。
*
週末にも、私は同じページを開いた。片手ずつなら音を拾えたけれど、両手ではまだ、なめらかにつなぐことは難しい。
休憩しようと部屋へ戻り、机の上のぶらんこを指で揺らした。かえちゃんに押さえてもらった結び目は、ほどけずに椅子を支えている。
あのときも、先生にもう一度教えてほしいと言ってみればよかったのかな。
今からまた練習することはできる。でも、やめていなかったら、今ごろ何が弾けたのかな。
日曜日の夜になっても、そのことが頭から離れなかった。
布団に入って目を閉じると、音楽室のピアノの音が浮かんだ。
あのとき、好きじゃないなんて言わなければよかった。難しいって言って、続けていたら。
遠くで、鈴が鳴った。
私が目を開けると、机も天井も布団もなかった。どこまでも白いところに、私は座っていた。
チリン。
「……白猫さん?」
『ななみちゃん』
少し離れたところで、白猫さんが尻尾を揺らしていた。私が立ち上がると、白猫さんもこちらへ歩き出す。
「また、会えた。この前のね、かえちゃんと、仲直りできたよ」
『うん』
「自分で、言えた」
『そうだね』
白猫さんは、甘えるように私の足元に擦り寄ってきた。
「ねえ、白猫さん。名前、教えてよ」
私は白猫さんの隣にしゃがんで、背中をやさしく撫でた。
『んー、名前ねえ』
白猫さんは、迷うようにゆっくりと尻尾を揺らした。
「決まってないの?」
『ななみちゃんは、なんて呼びたい?』
私は少し考えた。
「……ころちゃん」
『ころちゃん?』
「うん。呼んでみたら、そんな感じがしたの。どうかな?」
ころちゃんは、私の顔をじっと見た。それから、ゆっくり目を細くした。
『うん。それがいい』
ころちゃんの喉から、ぐるぐると小さな音がした。
「気に入ってくれた?」
私も少し笑って、ころちゃんの顎を撫でた。指を動かしていたら、昨日のピアノを思い出した。
「ねえ、ころちゃん。また、あのとき違うことを言えばよかったって、考えちゃった」
ころちゃんが顔を上げた。私は続けて尋ねた。
「もう一度、行けるの?」
『行く?』
「前に会えなかった私に、お礼も言いたい」
ころちゃんは、ゆっくり首を振った。
『今度は、また別のななみちゃんのところだよ』
「……別の?」
私は顔を上げた。ケンカをしなかった私だけじゃないってこと?
『どんなところかは、行ってみてから』
ころちゃんが立ち上がると、私も歩き出したころちゃんを追いかけた。
チリン、チリン。
七色に光る尻尾の先が、白い向こうへ揺れていく。
*
目が覚めると、私は枕から頭を上げ、部屋を見渡す。
机の上に小さな写真立てがある。あれ?そこは、昨日まで、赤い屋根の家があった場所。
写真には、グランドピアノの前に座っている私が写っていて、はるくんと、ママとパパも隣に立っている。
……これ、発表会? こんな写真、撮ったことがない。
え。どういうこと?
私は布団から飛び出すと、こっちの私の机を確認する。
見覚えのない楽譜が何冊も並んでいる。一冊抜き取って開くと、細かい音符がページいっぱいに並んでいた。
表紙の裏には、見慣れた字で「双葉七海」と書いてある。
ここで暮らしている私が、書いたんだ。
廊下の向こうではるくんがママを呼んでいた。私は楽譜を戻し、リビングへ向かう。
電子ピアノには布がかかっていなかった。譜面台には楽譜が開かれ、その横に削った鉛筆が一本置いてある。
「ななちゃん、おはよう。今日は早く練習するの?」
私が近づくと、台所からママの声がした。
「……練習?」
「昨日、寝る前にも弾いてたでしょう。朝ごはん、もうできるから、あとにする?」
昨日の夜、布団の中で、やめなければよかったと思っていた時?
その間、こっちの私はピアノを弾いていたんだ。
私は椅子に座り、開かれたページを見た。送る会で歌う曲だった。音符の並びも、左手のそばにある「片手ずつ」の文字も、自分の楽譜と同じだ。
一つだけ違ったのは、大きな花丸が付いていたこと。
その横には、あとから書き足したような「ゆっくり」の文字もある。
こっちの私は、あのあとも練習したんだ。
私は右手で、覚えている最初の音を押した。次の音へ進みながら左手を置くと、指が鍵盤の上にすっと収まった。
低い音が、右手のメロディーに重なった。
「あれ……?」
両手が一緒に動いている。昨日、何度やっても止まったところを、音がつながっていく。
嬉しくて少し速く弾こうとしたら、違う鍵盤を押してしまった。私は手を止め、自分の指を見た。今の動きを練習した覚えはない。次の音を頭で探すと、かえって分からなくなる。
楽譜の「ゆっくり」が目に入った。私はもう一度、最初から弾いてみた。
急がず、知っているメロディーを心の中で歌うと、左手もついてきた。いつも止まっていたところを過ぎても、指は次の音へ動いていく。
音の離れたところでは少しもたついた。速さを落とすと、また両手がそろった。楽譜を目で追ううちに、最後の段にたどり着いた。
最後の音を押して、私はしばらく指を置いたままにした。
「……弾けた」
最初から、最後まで。右手だけじゃなく、両手で。
へへ。だめだ、にやにやしちゃう。練習した日のことは何も思い出せないのに、指の動きだけが残っているようだった。
こっちの私の手が、覚えているのかな。何度も、この鍵盤で練習したから。
「ななちゃーん、ごはんよ」
「はーい」
もう一度、鍵盤を見た。あとでまた弾こう。
朝ごはんの席へ向かう足が軽くなった。
*
迎えに来たかえちゃんがいつもどおりに笑っていて、少し安心した。
喧嘩してないね、よかった。
ランドセルを握る指が、さっきの曲に合わせて動きそうになる。
「今日の昼休み、音楽室に集まるんだよね。送る会の歌、伴奏と合わせるからって。ななみ、頑張ってね」
「伴奏って……」
私が顔を向けると、かえちゃんは少し身を寄せた。
「ななみ、弾く前に合図してね。歌い始めるところ、ちゃんと合わせたいから」
思わず、自分の両手を見た。
あの椅子に座るのが、私。みんなの歌に合わせて、最初の音を鳴らすのが。
胸がどきんとした。今朝はゆっくり、自分の速さで弾いた。みんなの歌と一緒でも、指は動くだろうか。
私は曲の始まりを、小さく口ずさんでみた。かえちゃんも隣で歌い始める。少し先へ進みかけた私は、かえちゃんの声を聴いて速さを緩めた。
二人の声がそろった。
昼休みには、この歌声に、自分のピアノの音が重なる。
私はかえちゃんの横顔を見た。こんなふうに頼まれることが、こっちの私には、いつものことなのかもしれない。
「最初、ゆっくりでもいい?」
「うん。私も歌詞、まだ間違えちゃうし」
かえちゃんが笑った。私も笑って、続きを歌う。
早く、みんなの声と合わせてみたい。朝、鍵盤に置いた指の感触が、まだ残っていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
とても嬉しく思います。




