第31話:夏祭りの攻防と計算外の路地裏
夏休み最後の週末。
地元で最も規模の大きい神社の夏祭りに、秀英学園のいつもの面々が集結していた。
参道にはズラリと屋台が並び、提灯の暖かな光が夜空を照らしている。
浴衣姿の男女がひしめき合う中、ひときわ異彩を放つ集団がいた。
「さあ野郎ども! 祭りの屋台飯は、チートデイにおける最高のカーボアップ(炭水化物補給)だ! たこ焼き、焼きそば、イカ焼き! 全てを筋肉のエネルギーに変換するぞ!」
力也が、はち切れんばかりの筋肉を紺色の甚平に包み、雄叫びを上げている。
甚平の隙間からは分厚い大胸筋が覗き、袖からは丸太のような太い腕が剥き出しになっていた。
「おおーっ! 力也くんの甚平姿、迫力ありすぎてヤクザの若頭みたいッス!」
「小鳥遊、それ褒めてないからな!?」
星野と小鳥遊がはしゃいでいる横で、インテリコンビの結城と御子柴が冷ややかな視線を送る。
「……ふん。祭りの屋台など、原価率と利益率の非対称性を利用した情弱ビジネスに過ぎない。あんな筋肉バカと一緒にしないでくれたまえ」
結城が甚平姿で眼鏡を押し上げると、隣の御子柴も頷いた。
「同感だ。それにしても……くるみはまだ来ないのか?」
御子柴がソワソワと周囲を見回していると。
「お待たせいたしましたわ、皆様! そして……力也様っ!!」
人混みを掻き分けて現れたのは、派手なピンク色の、フリルがふんだんにあしらわれた特注の浴衣を着た白鳥くるみだった。
彼女は迷うことなく力也へ一直線に向かうと、その太い右腕にギュッと自身の両腕を絡ませた。
「力也様の甚平姿、とっても猛々しくて素敵ですわ! さあ、わたくしと屋台を巡りましょう! もちろん、腕を組んでのツーショット撮影も必須ですわよ!」
「なっ……!?」
『!! 上腕二頭筋と上腕三頭筋が完全にホールドされた!
これでは歩行時の腕の振りが制限され、運動エネルギーの伝達効率が著しく低下する!
しかも、この密着度……布越しに伝わる体温と柔らかい感触が、俺の自律神経に深刻なバグを引き起こしかけている!』
力也の脳内スーパーコンピュータが、突如として発生した「密着トラップ」に激しいエラーを吐き出し始める。
顔を赤くして固まる力也を見た御子柴が、「く、くるみ! なぜその男に密着するんだ! 僕と一緒に金魚すくいの確率論について語り合おうじゃないか!」と血涙を流して叫ぶが、くるみは完全にスルーだ。
そんなカオスな状況の中。
「……随分と、楽しそうね」
背後から、静かで、氷のように冷ややかな声が響いた。
神崎凛である。
彼女が身に纏っていたのは、紺地に桔梗の花があしらわれた、シックで大人びた浴衣だった。
普段のストレートヘアは美しくうなじを見せるようにアップにまとめられており、艶やかな色気を放っている。
「り、凛……!」
力也が振り返った瞬間、その視線は凛の浴衣姿と白いうなじに完全に釘付けになった。
『な、なんだこれは……!? 布面積は合宿の時の水着より圧倒的に多いはずなのに!
「普段隠されている部分が露出している」というギャップ効果と、和装特有の歩幅の制限によるしなやかな動作が、俺の視神経に異常な刺激を与えてくる……!
け、計算が……美しさのパラメーターが処理しきれない……っ!』
力也が完全に目を奪われていると、凛は涼しげな瞳をスッと細め、くるみの絡みついている右腕をジロリと睨みつけた。
『……白鳥くるみ。お祭りのどさくさに紛れて、随分と大胆なマネをしてくれるじゃない。
……絶対に、引き剥がしてやる』
凛の胸の奥で、ドス黒い嫉妬の炎がチリチリと燃え上がる。
彼女はふわりと蠱惑的な笑みを浮かべると、行動を開始した。
***
「あ、星野くん、小鳥遊くん。あっちの角のたこ焼き屋さん、限定の『激辛ロシアンたこ焼き』をやってるみたいだよ? 大人気で、もうすぐ売り切れちゃうかも」
凛がわざとらしく指を差す。
「マジですか!? 行こうぜ小鳥遊!」
「ええっ、俺辛いの苦手なんだけど……引っ張るなよ星野ぉ!」
ゲーマーの星野と後輩気質の小鳥遊が、腕を引っ張り合いながら人混みへと消えていく。
その直後、クラス委員長の鈴木栞が、眼鏡の奥をギラリと光らせた。
「ひ、引っ張り合い……! 浴衣姿の男子二人が、一つのたこ焼きを巡って……っ! す、少し様子を見てこないと(※観察という名の妄想)!」
鈴木も激しい鼻息と共に二人を追って消えた。
「結城くん、御子柴くん」
凛は次に、インテリコンビへと視線を向けた。
「あっちの射的屋台のおじさん、さっきから『物理演算を使ったって俺の景品は落とせねえよ』って高校生を煽ってたわよ? 知性派のお二人なら、重心の計算で簡単に落とせるんじゃないかしら」
「なんだと!? 僕たちの知性を愚弄する気か!」
「行こう結城! ニュートン力学の恐ろしさを、あのテキ屋に骨の髄まで教えてやる!」
プライドを刺激された結城と御子柴も、血走った目で別の方向へと駆け出していった。
(※御子柴は完全にくるみの存在を忘れていた)。
『よし。これで邪魔なギャラリーは全員排除したわ』
凛は内心で冷酷に微笑むと、力也とくるみの方へ振り返った。
その瞬間、祭りのメインイベントである「御神輿」の行列が、ドンドンという太鼓の音と共に参道へとなだれ込んできた。
「わっしょい! わっしょい!」
急激に参道に人が押し寄せ、凄まじい人口密度となる。
「きゃあっ! な、なんですのこの人混みは! 潰されてしまいますわ!」
くるみが悲鳴を上げ、力也の腕から思わず手を離した。
『今だ!』
凛は、力也の空いた左手をガシッと掴んだ。
「力也くん! はぐれないように、走って!」
「お、おう! まったく、人混みという名の『負荷』が強すぎるぜ!」
力也の脳内スーパーコンピュータが、即座に流体力学の計算を開始する。
『この群衆を非圧縮性流体と仮定し、ナビエ・ストークス方程式を簡略化して適用する!
進行方向への圧力勾配が最も低いルート(人の隙間)を瞬時に割り出し、レイノルズ数を臨界値以下に抑えて乱流を回避する!』
「行くぞ凛! 俺の広背筋が、人混みを切り裂くモーセの杖となる!」
力也は凛の手を引いたまま、驚異的なステップと体捌きで、密集する人混みのわずかな隙間を縫うように進み始めた。
「ちょ、お待ちになって力也様ぁぁぁっ!! わたくしも連れて行ってぇぇぇっ!!」
後方からくるみの叫び声が聞こえたが、押し寄せる御神輿の波に完全に飲み込まれ、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
***
「……ふぅ。ここまで来れば、もう大丈夫だな」
喧騒から離れ、力也が立ち止まったのは、神社の裏手にある薄暗い路地裏だった。
遠くで鳴るお囃子の音が、くぐもって聞こえるほど静かな場所。
提灯の明かりも届かず、月明かりだけが二人を照らしている。
「あ、ああ……悪い、凛。俺の流体力学の計算が甘かった。もっと広い広場に出るつもりだったんだが、なぜかこんな袋小路に……」
力也が冷や汗を流しながら頭を掻く。
しかし、その左手は、まだ凛の細く白い手をしっかりと握ったままだった。
「……ううん。力也くんの計算は、完璧だったわよ」
凛は、握られた手を解くことなく、ゆっくりと力也の方へ顔を向けた。
「え?」
「ただ、私が……力也くんが右へ曲がろうとする瞬間に、ほんの少しだけ左へベクトル(力)を加えて、軌道を修正しただけ」
「なっ……!?」
力也は目を見開いた。
自分の流体力学に基づく完璧なルート取り。それが、隣にいる少女の微細な力の介入(摂動)によって、意図的にこの「二人きりの薄暗い路地裏」へと誘導されていたというのか。
「お前……わざと、白鳥たちを引き離したのか?」
「……だって」
凛は、力也に繋がれた手を両手で包み込むように引き寄せ、彼との距離をゼロに等しいほどに縮めた。
微かに香る、石鹸と甘い香水の匂い。
見上げられた涼しげな瞳の奥には、いつもの余裕ぶった態度はなく、純粋で、強烈な独占欲だけがチリチリと燃え盛っていた。
「……あんなにベタベタくっつかれて。力也くんも、満更でもなさそうに顔赤くしてるし」
「ち、違う! あれは筋肉の可動域を制限されたことによる血圧の上昇で……!」
「嘘つき。……計算高い天才のくせに、そういうところは本当にポンコツなんだから」
凛は拗ねたように呟くと、力也の甚平の胸元に、コツンと自分の額を押し当てた。
「っ……!!」
布越しに伝わる、凛の体温と息遣い。
力也の脳内スーパーコンピュータは、この状況下における適切な対応策を完全に喪失し、ただ激しい警告音(心拍音)を鳴らし続けることしかできなかった。
「……今日は、もう計算なんてしなくていいから」
凛は胸に額を当てたまま、力也の甚平をキュッと強く握りしめた。
「他の子のことなんか、一切見ないで。
今夜は……私の浴衣姿だけ、脳細胞に焼き付けてよね。……共犯者くん」
甘く、それでいて逃げ場を完全に塞ぐような、決定的な言葉。
「……あ、ああ……善処する」
力也は顔から火が出るほど赤くなりながら、ただ絞り出すようにそう答えるのが精一杯だった。
夜空に、ドーン!と大きな音を立てて、夏祭り最初の打ち上げ花火が咲く。
遠くの参道から、「キィィィィィッ!! またしてもあの女狐に出し抜かれましたわ!! 力也様ぁぁぁっ!!」というくるみの怒声が微かに聞こえた気がしたが……。
今の力也にとって、それはもはや、計算の範疇外の些細なノイズでしかなかった。




