第32話:夏の終わりの花火と縮まる距離
ドーンッ……!
腹の底に響くような重低音と共に、神社の裏手から見上げる夜空に、色鮮やかな大輪の花火が咲き誇った。
喧騒から切り離されたような、薄暗い路地裏。
参道にひしめき合う人々の熱気も、屋台の匂いも、ここまでは届かない。
ただ、空を染める花火の光だけが、等間隔に二人の横顔を照らし出していた。
『……炎色反応。ストロンチウムが赤、バリウムが緑、銅が青。
黒色火薬の燃焼による急激な体積膨張とエネルギーの解放が、夜空というキャンバスに完璧な球形の光を描き出す。
実に美しい、計算し尽くされた化学反応の芸術だ』
力也の脳内スーパーコンピュータは、夜空の光景を的確な化学式と物理法則に変換していく。
しかし。
『……だが。隣にいるこの少女の「美しさ」と、それによって引き起こされる俺の心拍数の乱れだけは、どんな数式を用いても解き明かすことができない』
力也は、夜空を見上げている神崎凛の横顔を、じっと見つめていた。
紺地に桔梗の花があしらわれた、シックな浴衣。
アップにまとめられた黒髪から伸びる、白く細いうなじ。
花火の光に照らされるたびに、彼女の涼しげな瞳がキラキラと宝石のように輝いている。
少し前まで力也の胸に額を押し当てていた彼女は、今は一歩だけ距離を取り、静かに夜空を見上げていた。
「……綺麗だね」
凛がポツリと呟く。
「……ああ。大胸筋の奥底まで響く、素晴らしい爆発力だ」
力也がいつものように「筋肉」のフィルターを通して答えると、凛はクスッと吹き出し、呆れたように力也へ視線を向けた。
「ふふっ。こんな時まで筋肉の話? ……さっき『計算なんてしなくていい』って言ったのに」
「い、いや、これは俺のアイデンティティというか、条件反射みたいなもので……」
力也が頭を掻きながら苦笑する。
花火の音が、二人の間の僅かな沈黙を埋めていく。
力也は、胸の奥でずっとくすぶっていた「ある思い」を、今なら素直に口に出せるような気がした。
周囲には誰もいない。
「完璧な筋肉バカ」を演じる必要のない、共犯者との二人きりの空間。
「……凛」
力也は、普段の暑苦しい大声を潜め、低く、落ち着いた――本来の彼のトーンで呼びかけた。
「ん?」
「……この夏は。色々、カバーしてくれて助かった」
「え……?」
不意に投げかけられた素直な感謝の言葉に、凛は少しだけ目を丸くした。
「合宿の時の山田の件もそうだし、宿題のベルトコンベアの時も……他にも、俺が計算に夢中になってボロを出しそうになった時、お前がいつも絶妙なタイミングで誤魔化してくれただろ。
お前がいなかったら、俺の『ただの筋肉バカ』っていう設定は、とうの昔に崩壊してたかもしれない。……ありがとな」
力也は照れくさそうに視線をそらしながら、正直な気持ちを伝えた。
『……俺は天才だ。一人でどんな問題でも解決できると思っていた。
だが、この夏休みの間、俺の完璧な論理の死角を補い、時には俺をからかいながらも、確実に俺の居場所を守ってくれていたのは……間違いなく、彼女だ』
力也の言葉を聞いた凛は、一瞬だけ瞬きを繰り返し。
やがて、その涼しげな瞳を、ふにゃりと柔らかく細めた。
『……ずるい。そういう時だけ、そんなズルい声で、素直にお礼なんて言うんだから』
凛の胸の奥で、先ほどまでのドス黒い嫉妬とは違う、甘くて温かいものがじんわりと広がっていく。
彼女は、背中に回していた両手を前で組み直すと、ゆっくりと力也へ近づいた。
「……別に。私はただ、力也くんが他の子に『本当の姿』を見せるのが、気に食わなかっただけよ」
凛はそう言いながら、力也の足元まで歩み寄る。
「それに、感謝するなら……言葉だけじゃ足りないかも」
「え?」
スッ。
凛は、下駄を履いた足で少しだけ背伸びをした。
そして、力也の甚平の襟元にそっと両手を添えると、自分の顔を、力也の顔のすぐ目の前まで――頬が触れるか触れないかという、ギリギリの距離まで近づけた。
「っ……!!」
力也の視界が、凛の艶やかな瞳と、ほんのりと赤い唇で完全に埋め尽くされる。
石鹸と、微かな甘い香水の匂いが、力也の理性を激しく揺さぶる。
『ち、近い……! 近すぎる!
視差の計算すら不可能なゼロ距離! このままでは俺の自律神経が完全にショートする!』
顔を真っ赤にしてフリーズする力也の耳元へ、凛は熱を帯びた吐息と共に、極上の甘い声を落とした。
「……私だけが知ってる、力也くんの秘密。
『共犯者の特権』……二学期も、存分に振りかざさせてもらうから。
……覚悟しててね、天才くん」
それは、ただの牽制ではない。
「これからもずっと、あなたの隣で一番の理解者(支配者)でいる」という、彼女なりの絶対的な独占宣言だった。
「……あ、ああ……」
力也はもはや、筋肉の言い訳すら思い浮かばず、ただコクコクと頷くことしかできなかった。
***
「力也様ぁぁぁーーっ!! どこへ行かれましたのぉぉっ!!」
不意に、遠くの参道の方から、白鳥くるみの金切り声が聞こえてきた。
どうやら、はぐれた力也を血眼になって探し回っているらしい。
「あっちの路地裏はどうだ!? 中山のことだ、屋台の鉄骨の強度でも調べに行っているのかもしれないぞ!」
「御子柴くん、それはさすがにないんじゃ……」
御子柴と結城の声まで聞こえてくる。
その騒がしい声に、凛はクスッと笑い、名残惜しそうに力也から体を離した。
「……お迎えが来ちゃったみたいね。戻ろっか、力也くん」
「お、おう……そうだな」
力也は、未だにバクバクと激しく鳴り続ける心臓を悟られないよう、必死に深呼吸をして「筋肉のスイッチ」を入れ直した。
「よし! この屋台飯のカロリーを、すべて大胸筋の超回復に回すための有酸素運動だ! 行くぞ凛!」
力也がわざとらしく豪快に笑い、路地裏の出口へと歩き出す。
その後ろ姿を見つめながら、凛はふわりと、小悪魔のような笑みを浮かべた。
『……計算高いのに、恋愛に関しては本当にポンコツ。
でも、そういうところも含めて……私の特等席は、誰にも譲らないから』
夜空には、フィナーレを飾る連続花火が打ち上がり、夏の夜を昼間のように明るく照らしていた。
波乱に満ちた秀英学園の夏休み。
知性と筋肉の偽装工作、そしてヒロインたちの熱いマウント合戦は、二人の距離を確実に、そして決定的に縮めたまま、幕を閉じようとしていた。
次回更新は未定です。




