第30話:宿題大詰めとゲーム理論のベルトコンベア
夏休みも残りあと数日と迫った、八月末。
秀英学園の学生寮の談話室は、クーラーがガンガンに効いているにもかかわらず、地獄のような熱気と絶望感に包まれていた。
「終わらない……! 数学の問題集がまだ半分以上残ってるぅぅ!」
「だ、誰か俺に英語の和訳を教えてくれ……! もう単語を調べる気力すらない……っ!」
机に突っ伏して半泣きになっているのは、ゲーマーの星野と、ラグビー部の小鳥遊である。 二人は夏休みの間、部活とゲーム(と合宿)に明け暮れ、見事に宿題を放置し続けていたのだ。
「自業自得でしょ。なんで私が寮にまで来て、あなたたちの面倒を見なきゃいけないのよ……」
クラス委員長の鈴木栞が、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえている。
今日は「宿題レスキュー勉強会」と称して、寮生以外のメンバーも特別に談話室に集まっていた。
「まあまあ、鈴木さん。これもクラスメイトのよしみですわ!」
優雅に紅茶を啜っているのは、一年C組の白鳥くるみだ。
彼女は自分の宿題などとっくに終わらせているが、「力也様が勉強で困っているかもしれない」という名目で、一年B組の結城とC組の御子柴を巻き込んで寮まで押しかけてきたのである。
「ふん。中山力也、君も宿題が終わっていないクチだろう? 筋肉ばかり鍛えていては、いざという時に脳のシナプスが繋がらないぞ」
結城が銀縁眼鏡を光らせ、力也を見下ろす。
御子柴も腕を組み、「分からない問題があれば、この僕たちが教えてやってもいいが?」と知的なマウントを取ろうと待ち構えていた。
しかし、力也は自分のノートを前に、腕を組んで目を閉じていた。
『ふむ……。星野と小鳥遊の残タスクを可視化し、現在の処理能力で割ると、完全にタイムオーバーだ。
かといって、俺が自ら解答を教えれば、俺の「筋肉バカ」という完璧な設定に致命的な綻びが生じる。結城と御子柴も監視の目を光らせているしな』
力也の脳内スーパーコンピュータが、現在のリソースと制約条件から最適なアルゴリズムを導き出し始める。
『ならば……ゲーム理論における「ナッシュ均衡」と、経営工学における「ライン生産方式」の最適化問題を適用する!
個々のタスクを極限まで細分化し、各個人の得意分野にリソースを集中させることで、システム全体のボトルネックを解消する!』
カッ!!
力也が突然目を見開き、ガタッと立ち上がった。
「お前ら! その非効率な勉強法は、今すぐやめろ!!」
「えっ!?」
「り、力也くん?」
力也は分厚い胸板を張り、談話室のホワイトボードの前に立った。
「いいか! 勉強とはすなわち全身の筋トレだ!
だが、一人が一問ずつ最初から最後まで解くやり方は、スクワットとベンチプレスと懸垂を同時にやろうとするようなもの! 筋肉が混乱し、効率が最悪だ!」
「な、なんだって……!?」
力也はホワイトボードに、生徒たちの名前と矢印をものすごい勢いで書き殴っていく。
「今から俺たちは、一つの巨大な『筋肉の連動システム(ベルトコンベア)』となる!
まず! 御子柴と結城! お前たちは自慢の脳細胞という筋肉を使って、数学の『公式の選定』と『解法の道筋』だけをひたすら書き出せ! 計算はするな!」
「は、はぁ!? なぜ僕たちがそんな単純作業を……!」
「そして鈴木! お前は持ち前の真面目さ(体幹の強さ)を活かして、結城たちが出した解法に数値を代入し、電卓でひたすら計算しろ!」
「えっ、私電卓係!?」
「さらに星野と小鳥遊! お前たちの有り余る若き筋肉(指先のピンチ力)を使って、鈴木が弾き出した答えを、ただひたすらに自分のノートに書き写すんだ! 脳は使うな! 筋肉の反射神経だけで手を動かせ!」
力也の提案したシステムは、すなわち「思考」「計算」「筆記」というプロセスを完全に分離し、各人の得意な作業に特化させるという、究極のライン生産方式だった。
「な、なるほど……! 俺はただ写すだけでいいんですね力也くん!」
小鳥遊がパァッと顔を輝かせる。
「そうだ! そして白鳥! お前はチアリーディングの俊敏性を活かして、完成したプリントを次々と回収し、新しい問題をセットする『運搬の筋肉』となれ!」
「は、はいっ! 力也様がおっしゃるなら、わたくし喜んで運びますわ!」
「よし! これぞ名付けて『超回復・宿題マッスルコンベア』だ!! さあ野郎ども、筋肉の限界まで回せぇぇぇっ!!」
力也の号令とともに、談話室に異様な活気が生まれた。
***
シュババババッ!!
カタカタカタカタッ!!
カリカリカリカリッ!!
談話室には、凄まじいスピードで紙が移動し、計算が行われ、鉛筆が走る音だけが響き渡っていた。
「次! 数学の微積分の解法ルート、出力完了したぞ!」
「数値を代入しました! 答えは $144$ !」
「っしゃあ! 写すぜ写すぜえええっ!」
「はいっ、次のプリントですわよ!」
結城と御子柴が解法を作り、鈴木が計算し、星野と小鳥遊が書き写し、くるみが紙を運ぶ。
個人の作業負荷が極限まで減らされたことで、処理速度が爆発的に向上していた。
『……おかしい! なんだこの異常な作業効率は!』
ひたすら解法を書き出しながら、御子柴は内心で戦慄していた。
『個々の能力を分析し、最適な配置を行うことで、生産性を最大化するオペレーションズ・リサーチの完璧な応用……!
あの筋肉バカ、ただ叫んでいるだけに見えて、実は恐ろしいほどの経営工学的センスを持っているのではないか!?』
隣で計算式を作っている結城も、同じように冷や汗を流していた。
『くそっ……! 完全に理にかなっている! 僕たちの優秀な頭脳を「思考」という最も付加価値の高いプロセスにのみ集中させることで、落ちこぼれ二人の宿題を驚異的な速度で消化している……!
論理が……筋肉という名の暴力的なシステムに支配されていく……っ!』
インテリコンビは、力也の構築したシステムの完璧さに屈服させられながら、ただひたすらに手を動かし続けるしかなかった。
ちなみに、そのシステムの中心で、肝心の力也は何をしていたかというと。
「ふむ……大胸筋上部のパンプアップが甘いな」
彼は腕立て伏せの姿勢で、一人黙々と筋トレをしていた。
「ちょっと中山くん! 自分だけシステムに参加してないじゃない!」
鈴木が電卓を叩きながらツッコミを入れると、力也は顔を上げて爽やかに笑った。
「はっはっは! 俺はシステム全体の熱量を維持するための『心臓』だからな! 俺の筋肉の躍動を見れば、お前たちの作業効率も $120\%$ に跳ね上がるはずだ!」
「どんな理屈よそれ!!」
そんなカオスな空間の中、少し離れたソファで静かに本を読んでいる少女がいた。
神崎凛である。
彼女は、見事なまでに機能している「宿題ベルトコンベア」と、その中心で筋トレをしている力也を交互に見つめ、クスッと微かに笑い声を漏らした。
『……自分の正体を隠すために、周りの人間を歯車にして最適化問題を解いちゃうなんて。
本当に、どこまでも計算高い筋肉バカなんだから』
凛の涼しげな瞳には、あきれ半分、そして強い優越感と親愛の情が浮かんでいた。
***
それからわずか二時間後。
「お、終わったぁぁぁぁっ!!」
「マジかよ!? 夏休み後半分の宿題が、全部終わっちまった!!」
星野と小鳥遊が、完成したプリントの山の前で歓喜の涙を流して抱き合った。
(そのゼロ距離で抱き合う姿を見て、鈴木が「っ……! 尊い……!」とひっそり鼻息を荒くしてノートに何かを書き込んでいたが、誰も気づかなかった)。
「信じられない……。僕たちが協力したとはいえ、これほどの分量をこの短時間で……」
「中山力也……恐るべき男だ……」
御子柴と結城は、疲労困憊で机に突っ伏し、完全に燃え尽きていた。
「さぁすが力也様ですわぁっ!!」
くるみが、興奮冷めやらぬ様子で力也に駆け寄った。
「力也様のその……ええと、筋肉の導きによる素晴らしい作戦のおかげで、すべて解決ですわ!
やっぱり力也様の脳みそ……じゃなくて、大胸筋は世界一ですわ! さあ、汗をかいたでしょう、わたくしが拭って――」
くるみが、力也の顔にタオルを伸ばそうとした、その瞬間。
スッ。
流れるような足取りで、凛が力也とくるみの間に割り込んだ。
その手には、冷えた特大のプロテインシェイカーが握られている。
「……お疲れ様、力也くん。はい、これ」
「お、おう。サンキュー、凛」
凛はプロテインを力也に渡すと、ゆっくりと振り返り、くるみを見据えた。
「ちょっと、神崎さん! またしてもわたくしの邪魔を……!」
「邪魔なんてしてないわ。私はただ、彼の筋肉の『管理者』として、最適なタイミングで栄養補給をしているだけ」
凛は涼しげな瞳を細め、蛊惑的な、それでいて絶対零度の威圧感を放つ笑みを浮かべた。
「今日のベルトコンベア作戦……確かにすごかったけど。
力也くんのその『頭脳』……じゃなくて、この素晴らしい『筋肉』のポテンシャルを一番理解して、管理できるのは……私だけだから」
「なっ……!?」
「素人の白鳥さんが、あんまり勝手に触らないでくれる? ……計算が、狂っちゃうから」
それは、力也の「隠された知性」を知っている共犯者だからこそ言える、絶対的な優位性を含んだ正妻マウントだった。
「キィィィィィッ!! またしても……またしてもその余裕ぶった態度!!
絶対に負けませんわよ、神崎さん!!」
くるみは悔しさに身をよじり、鈴木に「鈴木さぁぁん!」と泣きつきに走っていった。
「……おい、凛。あまり白鳥を煽るなよ。また面倒なことになる」
力也が冷や汗を流しながら小声で注意すると、凛はプロテインを飲む力也の太い腕に、そっと指先を這わせた。
「……だって。力也くんが他の子にすごいところ見せびらかすから、いけないんでしょ?」
「っ……!」
「私の前以外で、あんまりその優秀な頭脳……使っちゃダメだからね。共犯者くん」
耳元で囁かれた甘い脅迫に、力也は「……俺の心拍数の最適化問題だけは、いつまで経っても解けそうにないな」と、誰にも聞こえない声で独りごちるしかなかった。




