第28話:合宿3日目!サバイバルオリエンテーリングの疑念と開かれた扉
合宿3日目の午後。
白鳥家の別荘の裏手に広がる、広大なプライベート山林。
鬱蒼と生い茂る木々と、複雑に入り組んだ獣道が広がるその場所で、くるみ主催の「サバイバルオリエンテーリング大会」が開催されようとしていた。
ルールは簡単。山の中に設置されたチェックポイントを回り、最も早くゴールしたペアの勝利である。
「さあ皆様! 大自然の中で己の直感と体力を競う、熱き戦いの幕開けですわ!」
くるみがチアリーダー用のポンポンを振りながら宣言する。 ペア分けはくじ引き(※凛が何かしている可能性あり)の結果、以下のようになった。 【力也&凛ペア】 【御子柴&結城ペア】 【くるみ&鈴木ペア】 【小鳥遊&星野ペア】
「はっはっは! 山という巨大な傾斜は、下半身の筋肉をいじめ抜く最高のフィールドだ! 行くぞ凛!」
力也が巨大なスポーツリュック(中身はサバイバル用の水とプロテイン)を背負って雄叫びを上げる。
その横で、インテリコンビである御子柴と結城が、銀縁眼鏡を怪しく光らせていた。
「……ふん。中山力也め、山を筋肉で制覇できると思ったら大間違いだぞ」
御子柴が声を潜め、結城に耳打ちをする。
「結城。僕たちが事前にリサーチし、森の分岐点に仕掛けた『偽の道標』は完璧だな?」
「ああ。空間認識の錯覚を利用し、人間の心理的な方向感覚を狂わせるように配置してある。あの筋肉バカは間違いなく方位を見失い、日没まで森の中を彷徨うことになるだろう」
二人は邪悪な笑みを浮かべ、知性による完全勝利を確信していた。
***
ピーッ!というホイッスルの音と共に、各ペアが一斉に森へと散らばっていった。
「さて、第一チェックポイントは……北北西の大きな杉の木だな」
力也は地図を片手に、森の奥へと進んでいた。
隣には、涼しい顔で歩く凛の姿がある。
しばらく進むと、道が二手に分かれる分岐点に出た。
そこには、右の道を指し示すように「←第一チェックポイント」と書かれた木の札が立てられていた。
「おっ、こっちみたいだね」
凛が右の道へ進もうとした、その時。
「待て、凛」
力也がピタリと立ち止まり、鋭い視線で周囲の木々を見回した。
『……ふむ。太陽の南中高度と現在時刻から計算される方位角……それに加え、樹木の幹に生える苔の分布密度。北半球の中緯度地域において、湿度の高い北側にのみ苔が密集するという植生相の基本データと、この看板の指し示す方角が$90^\circ$近くズレている。
さらに、足元の土壌の踏み固められ方(硬度)。明らかに、左の道の方が古くから獣道として機能している。
……誰かが故意に設置したトラップだな。くだらん』
力也の脳内スーパーコンピュータは、自然界のあらゆる変数を計算し、わずか2秒で真実を導き出した。
「はっはっは! 筋肉のコンパスが、この看板は『偽物だ』と告げている!
大胸筋の筋線維は、常に真の北(磁北)を指し示すからな! 正解は左だ!」
力也が自信満々に左の道へと進み始めると、凛はクスクスと笑いながらその後を追った。
「ふふっ。相変わらず、優秀すぎる『コンパス』だこと」
「当然だ! 筋肉は決して嘘をつかない!」
力也は暑苦しく胸を張ったが、凛には彼が地磁気や植生から瞬時に方角を割り出したことがすっかりお見通しだった。
***
さらに森の奥深くへと進んでいく力也と凛。
足場は悪くなり、木の根や苔むした岩が道を塞いでいる。
「気をつけて歩けよ、凛。この辺りは不整地だからな。足首のスタビライザー筋群を意識して……」
力也が振り返りながら声をかけた、まさにその瞬間だった。
「あっ……」
凛の足先が、苔で滑りやすくなっていた太い木の根に引っかかった。
バランスを崩し、彼女の華奢な体が前方へと倒れ込む。
「凛!」
力也は反射的に手を伸ばし、倒れ込む凛の体をガシッと受け止めた。
しかし、庇いきれなかった凛の右足のふくらはぎが、岩肌に僅かに擦れ、薄く血が滲んでしまった。
「っ……」
凛が小さく顔をしかめる。
「見せてみろ」
その瞬間、力也の顔から「暑苦しい筋肉バカ」の仮面がスッと剥がれ落ちた。
彼の瞳は、極めて冷静で、冷徹なまでの専門家のそれに切り替わっていた。
『傷の深度は表皮の第2層(有棘層)まで。毛細血管からの滲出性出血のみ。腱や筋肉へのダメージは皆無だ。
だが、山中での土壌細菌(破傷風菌など)の感染リスクを考慮し、最速でデブリドマン(創傷清浄化)を行う必要がある』
力也はリュックから素早く飲料水(純水)のペットボトルを取り出すと、一切の躊躇なく凛の足に水をかけ、傷口の泥と汚れを洗い流した。
そして、清潔なガーゼを取り出し、湿潤療法の原理に基づいて傷口を的確に覆い、テーピングで流れるような手際で圧迫固定していく。
「……歩けるか? 痛むようなら、俺が背負うが」
低く、静かで、無駄のない声。
そこには「筋肉」という単語は一切含まれていなかった。
凛は、手当てをしてくれた力也の真剣な横顔をじっと見つめ、少しだけ頬を赤くして微笑んだ。
「……大丈夫。ありがとう、力也くん」
木漏れ日が差し込む静かな森の中。
二人の間には、誰にも入り込めない、確かな信頼と親密な空気が流れていた。
***
しかし、その光景を。
少し離れた斜面の上から、物陰に隠れてジッと見つめている二つの影があった。
白鳥くるみと、鈴木栞のペアである。
「キィィィィィッ!!」
くるみは持っていた地図をギリギリと力一杯握りしめ、ハンカチを噛みちぎらんばかりに悔しがっていた。
「見ましたこと鈴木さん!? 力也様が……わたくしの力也様が、あの女狐の足に触れて、あんなに優しく手当てをしていますのよ!!
ああ、わたくしも木の根っこで盛大に転んで、力也様に抱きとめられたかったですわ!!」
嫉妬でワナワナと震えるくるみ。
だが、隣で双眼鏡を構えていた鈴木の反応は、全く違っていた。
「……おかしいわ」
鈴木の眼鏡の奥の瞳が、鋭く光る。
「え?」
「あの手際……。ただの絆創膏を貼るだけの動作じゃないわ。
傷口の洗浄から圧迫固定までの流れるような手順、それにテーピングの完璧なテンションのかけ方……。明らかに、専門的な救急救命かスポーツ医学の知識を持った人間の動きよ。
……中山くん、ただの筋肉バカのはずなのに。どうしてあんな専門的な処置が、息をするように自然にできるの……?」
鈴木の頭の中に、今まで力也が起こしてきた数々の「異常な事象」がフラッシュバックする。 数学の図形問題、非公開なテストの点数。
『もしかして……彼には、とんでもない裏の顔があるんじゃ……』
鈴木が真理に近づきかけた、まさにその時だった。
「……ひっ! ひぃぃぃっ!」
少し離れた鬱蒼と茂る暗い茂みの中から、情けない悲鳴が聞こえてきた。
「なんだろう?」と鈴木とくるみが視線を向けると、そこには、道に迷って完全にパニックに陥っている小鳥遊と星野の姿があった。
「クマ!? 今ガサッて言ったよ星野ぉ!! 絶対クマだぁぁぁ!」
「ば、ばか大声出すな小鳥遊! クマがこっちに来るだろ!!」
日陰で薄暗い森の雰囲気に怯えきった二人は、男子高生らしからぬ涙目を浮かべている。
「俺をおいていかないでくれぇ星野ぉ!」
「離すな小鳥遊! 俺の袖をしっかり掴んでろ!!」
ガクガクと震えながら、小鳥遊と星野は互いの服の袖をギュッと強く握りしめ、恐怖のあまりゼロ距離で抱き合わんばかりに身を寄せ合っていた。
頼りないゲーマーの星野が、必死に小鳥遊を庇うように前に立ち、後輩キャラの小鳥遊が涙目で星野の背中にすがりついている。
その、あまりにも無防備で、互いを強く求め合う(ように見える)二人の姿が、鈴木の網膜に焼き付いた。
その瞬間。
『え……?』
鈴木の脳内で、先ほどまで構築されていた「中山力也の知性に対する論理的な疑念」が、強烈な爆発音と共に木端微塵に吹き飛んだ。
ドクンッ!!
鈴木の心臓が、未だかつてないほどの激しいビートを刻み始める。
『男子高生二人が……薄暗い森の中で……誰にも見られず、涙目で抱きしめ合って……互いの袖を、あんなに強く握りしめて……っ!?』
鈴木の頭の中で、決して開けてはいけない「新しい扉」が、ギギギ……と重々しい音を立てて開き始めた。
論理的思考を司る左脳が完全にシャットダウンし、代わりに未知の妄想を司る右脳が暴走を開始する。
『星野くんが攻め……? いや、普段は頼りない星野くんがいざという時に小鳥遊くんを庇うというシチュエーション……これは、アリだわ……!
っていうか、あの密着度! 袖を掴む指先の震え!
……尊い……ッ!!』
「す、鈴木さん? どうされましたの? 顔が茹でダコのように真っ赤ですわよ?」
くるみが不思議そうに覗き込むが、鈴木は眼鏡をスッと押し上げながら、ものすごい勢いで荒い鼻息を漏らした。
「……フンッ! フンッ!! 静かにして白鳥さん!!」
「ひっ!?」
「今、私の頭の中で……極めて神聖で、尊いパラダイムシフトが起きてるんだから!! ああ……メモ帳! 早くこのインスピレーションをメモに残さないと!!」
鈴木はリュックからノートとペンを引っ張り出し、凄まじい速度で何かを書き殴り始めた。
中山力也の正体など、もはや彼女の頭の片隅にも残っていなかった。
夏の山林で繰り広げられるオリエンテーリング。
インテリコンビの罠は力也の知性の前に粉砕され、くるみの嫉妬は空回りし、そして――真面目なクラス委員長の頭の中では、新しい性癖のビッグバンが巻き起こっていたのだった。




