第27話:海の家の心理戦と過去の亡霊
合宿2日目の夜。
昼間の白熱したビーチバレーの疲れを癒やすため、一行は別荘から少し歩いたところにある、昔ながらの海の家へとやってきていた。
潮騒の音と、網の上で焼かれるイカやホタテの醤油の香ばしい匂いが漂っている。
「さあ野郎ども! 海の幸は良質なタンパク質とオメガ3脂肪酸の宝庫だ! 筋肉の超回復のために食って食って食いまくれ!」
力也がジョッキに入った烏龍茶を掲げて乾杯の音頭をとる。
「おおーっ! さすが力也くん、イカ焼きすらも筋肉の文脈で語るなんて!」
「俺、ホタテ2個目いっちゃいます!」
小鳥遊と星野が嬉々として網の上の海鮮に群がる。
『ふむ……。イカは100グラムあたり約18グラムの高タンパクでありながら、脂質はわずか1グラム強。さらにタウリンが豊富で、日焼けによる疲労回復にも極めて有効だ。まさに海が育んだ天然のプロテインバーと言える』
力也は脳内で完璧な栄養素の計算を終え、分厚い胸板を張って満足げに頷いた。
「力也様! わたくしがこの焼き立てのエビの殻を剥いて差し上げますわ! さあ、あーんして……」
白鳥くるみが、熱々のエビをふーふーと冷まし、力也の口元へ運ぼうと身を乗り出す。
しかし、そのエビが力也の口に入る直前。
スッ。
横から伸びてきた箸が、くるみのエビを空中で見事にキャッチ(強奪)した。
「あむっ。……うん、美味しい」
神崎凛だった。
彼女はくるみから奪い取ったエビを涼しい顔で咀嚼し、ペロリと唇を舐めた。
「な、ななな……なんですの貴女!! わたくしが力也様のために愛情を込めて剥いたエビを!」
「あら、ごめんなさい。力也くん、さっき『エビの殻に含まれるキチン質は消化に悪いから、今は食べないでおく』って言ってたから。彼の筋肉の管理者として、私が処理してあげただけよ?」
「そんなこと一言も言ってませんでしたわよ!!」
キーキーと怒るくるみと、涼しい顔で烏龍茶をすする凛。
(相変わらずの光景ね……)と、鈴木栞が呆れたようにため息をつき、御子柴と結城は「中山力也め……なぜあんなにモテるんだ……」と血涙を流してイカのゲソを噛みちぎっている。
そんな、いつも通りのカオスな夕食風景が続いていた、その時だった。
「……あれ? もしかして、中山?」
海の家の入り口付近から、不意に声が上がった。
地元の若者グループのようだが、その中の一人が、力也の顔を見て目を丸くしていた。
「やっぱり中山だ! 中山力也だろ!? お前、こんなところで何やってるんだよ!」
親しげに駆け寄ってくるその顔を見て、力也の脳内スーパーコンピュータが過去の記憶データバンクを高速検索する。
『……山田!? 俺の中学時代のクラスメイトだと!?
なぜこんな離れた海辺の町に……そうか、あいつの実家は確かこの県だった。夏休みで帰省中の地元のツレと遊びに来ていたのか!
最悪のタイミングでのエンカウントだ!』
力也の背筋に、氷のような冷や汗が流れた。
なぜなら、中学時代の力也は「筋肉バカ」の偽装を始める前――すなわち、手の付けられない『超絶天才児』として名を馳せていた時期だからだ。
「え、中山くんのお知り合いですか?」
小鳥遊が不思議そうに首を傾げる。
「ああ! 中学の同級生の山田だ。いやー、まさかこんなところで『ウチの中学の誇る超天才』に会えるとはな!」
山田は悪気ゼロの満面の笑みで、爆弾を投下した。
「ち、超天才……?」
その単語に、最も早く反応したのは御子柴と結城だった。
二人はガタッ!と勢いよく椅子から立ち上がった。
「君、今なんと言った!? この筋肉バカが、超天才だと!?」
「詳しく聞かせてくれ! 中学時代、この男は一体どんな生徒だったんだ!?」
結城たちが血走った目で山田に詰め寄る。
「えっ、あ、ああ……。中山は凄かったぜ? 2年の時に大学レベルの数学の難問を解き明かして、全国模試でもぶっちぎりの1位! ついたあだ名が『歩くスーパーコンピュータ』だからな!」
「なっ……!?」
「全国模試1位だと……っ!?」
小鳥遊や星野、鈴木までもが信じられないものを見るように力也に視線を向ける。
「歩くスーパーコンピュータ……? 力也様が……?」
くるみもポカンと口を開けている。
結城と御子柴は「やはり!」「僕たちの推測は正しかったんだ!」と歓喜に震えていた。
『マズいマズいマズいマズい!!
俺の高校生活の平穏を根底から破壊する致命的なエラーが発生した!
このままでは、俺の「筋肉バカ」という完璧なアイデンティティが崩壊し、再びあの孤独で退屈な「天才」としての生き方を強いられる!
どうする!? どのようにしてこの状況を打開する!?』
力也の脳細胞が、フル稼働で解決策を模索する。
『……心理学の応用しかない!
人間の記憶は極めて曖昧であり、強い外的刺激と権威性によって容易に改ざん・上書きが可能だ。
認知バイアスを利用し、山田の脳内にある俺の記憶を「筋肉の文脈」へと強制的に書き換える!』
力也はゆっくりと立ち上がると、山田の肩にドスッと重い手を置いた。
「はっはっは! 山田! 久しぶりだな!」
「お、おう、中山……って、お前、中学の時よりデカくなってないか……?」
山田は、目の前にそびえ立つ力也の巨大な大胸筋と、ギリシャ彫刻のような威圧感に圧倒され、少し後ずさった。
力也はさらに一歩踏み込み、山田の視界を自分の肉体で完全に塞ぐ。
「おいおい、山田。お前、何か勘違いしてないか?」
力也は極めて低い、それでいて絶対的な自信に満ちた声――相手の潜在意識に直接語りかけるトーン(催眠誘導の技法)を用いた。
「大学レベルの数学? 全国模試1位? 違うだろう。
俺が計算していたのは『筋肉の合成に必要なアミノ酸の化学式』だ!
そして、俺が1位を取ったのは……『全国中学生・ボディビルディング選手権』だ!!」
「えっ……? ぼ、ボディビル……?」
「思い出せ、山田!
俺は休み時間のたびに、教科書ではなく『月刊ボディビルディング』を読み漁っていただろう!?
黒板に書いていたのは、数式ではなく『ベンチプレスの軌道計算式』だ!
俺のこの、はち切れんばかりの大胸筋と広背筋を見てみろ!! これが、ガリ勉の天才の身体に見えるか!?」
力也はポージングを決めながら、山田に次々と「筋肉の情報」を畳み掛けた。
強烈な視覚情報(筋肉)と、断定的な聴覚情報。
それらが山田の脳内でコンフリクト(認知不協和)を引き起こす。
「え……あ……あれ……?」
山田の目が泳ぎ始めた。
(確かに、こんなゴリゴリのマッチョが数学の天才なわけが……。俺の記憶が……間違っているのか……?)
『よし! 記憶のアンカリングが外れかかっている! あと一押しで完全に上書きできる……!』
力也が心の中でガッツポーズをした、その時だった。
「待て! 誤魔化されるな山田くん!」
御子柴が鋭い声を上げた。
「全国中学生ボディビル選手権なんて大会は存在しない!
それに、君ははっきりと『大学レベルの数学』と言った! この男は言葉巧みに君の記憶を誘導しているんだ!」
結城も加勢する。
「そうだ! 思い出すんだ山田くん! そいつは、筋肉の皮を被った悪魔的な頭脳の持ち主なんだぞ!」
「えっ? そ、そう言われると……やっぱり中山は頭が……」
インテリコンビの的確なツッコミにより、山田の記憶が再び正気を取り戻しかける。
力也の脳内スーパーコンピュータが『計画崩壊率98%』という絶望的な数値を弾き出した。
『万事休すか……!』
力也が冷や汗を流して覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。
***
スッ……。
力也の太い腕に、柔らかく、それでいて確かな力強さを持った手が絡みついた。
「……ねえ、山田くん、だっけ?」
鈴を転がすような、冷ややかで美しい声。
神崎凛だった。
彼女は力也の腕にピタリと抱きつくように密着し、その蠱惑的な瞳で山田を真っ直ぐに見つめた。
「り、凛……?」
凛は力也の顔を見上げてふふっと微笑むと、山田に向かって滑らかに言葉を紡ぎ出した。
「力也くん、昔から本当に『筋肉』と『プロテイン』のことしか頭になかったから。
……私、力也くんとは随分長い付き合いだけど、この人が数学の勉強してるのなんて、一度も見たことないわ」
「なっ……!?」
「神崎さん!?」
周囲の全員が息を呑んだ。
『り、凛……お前、俺とは高校からの付き合いなのに、あたかも「幼馴染」かのように過去を捏造したのか!?
俺の強引なマインドコントロールの隙間を埋めるための、完璧な偽証!』
「そうよね? 力也くん」
凛は力也の腕にさらに身を寄せ、微かに胸の膨らみを押し当てながら、極めて自然な『彼女感』を醸し出した。
「中学の頃から、授業中にプロテインシェイカー振って怒られてたじゃない。
山田くんが言ってる『スーパーコンピュータ』って……力也くんが『カロリー計算だけは異常に早かった』から、みんながからかって付けたあだ名でしょ?」
「あ……」
山田の脳内で、凛の語る「リアリティのある偽の記憶」が、力也の強烈な筋肉のイメージと完全に合致した。
『そうか……美しい幼馴染(?)の言うことだ、間違いない……!
中山のやつ、カロリー計算のために大学レベルの数式を使ってたんだ!
だからあんなに筋肉が……!』
山田の顔から、すべての疑念が消え去った。
「そ、そうか! わりぃ中山、俺の勘違いだったみたいだ!
お前、昔から筋肉バカのプロテイン星人だったもんな! はっはっは!」
「……ああ。分かってくれればいいんだ、山田。俺の筋肉によろしくな!」
力也が豪快に笑い返すと、山田は「じゃあな!」と自分のグループの席へと戻っていった。
***
嵐のような危機が去った。
「ば、バカな……! 完璧な証言者がいたのに、カロリー計算のオチにすり替えられただと……!?」
「くそっ……! またしても証拠を逃した……!」
結城と御子柴は、頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
小鳥遊たちは「なんだ、力也くんが頭いいなんてやっぱり冗談かー」と笑って食事に戻っている。
「ちょっと! 神崎さん!」
そこへ、我に返ったくるみが猛烈な勢いで噛み付いてきた。
「今の『長い付き合い』ってどういうことですの!? 貴女、力也様とは高校からの同級生じゃありませんの!?」
「あら?」
凛は、力也の腕に絡みついたまま、涼しい顔でくるみを振り返った。
「ただの言葉の綾よ。……でも、力也くんの『過去』も『今』も、一番よく分かってるのは私だから。
白鳥さんみたいなポッと出の女の子に、彼の何が分かるのかしら?」
「キィィィィッ!! 言いましたわねこの女狐!!
鈴木さん! わたくしもう我慢なりませんわ! ここで決着をつけてやります!」
「ちょ、白鳥さん暴れないで! お店に迷惑だから!」
鈴木が必死にくるみを羽交い締めにしている横で、力也はふぅと深い安堵の息を吐いた。
「……助かった。マジで心臓が止まるかと思ったぜ、凛」
力也が小声で礼を言うと、凛は腕を離し、力也の顔を真っ直ぐに見上げた。
「……貸し、一つだからね」
凛の瞳の奥には、共犯者としての冷ややかな愉悦と、隠しきれない独占欲がチリチリと燃えている。
「私の前以外で、その『天才な頭脳』の痕跡を残すなんて許さない。
……もし次にボロを出したら、私が直接、力也くんの秘密を全部バラしてあげるから。覚悟しておいてね?」
耳元で囁かれた、背筋が凍るような、それでいてひどく甘い脅迫。
力也は、過去の亡霊よりも遥かに恐ろしくて可愛い目の前の小悪魔に、ただ冷や汗を流しながら「……善処する」と答えることしかできなかった。




