第21話:美術のモデルと黄金比のジェラシー
一学期も終わりに近づいた、ある日の午後。
秀英学園の特別棟にある美術室には、絵の具と鉛筆の独特な匂いが漂っていた。
今日は一年A組と、くるみのいる一年C組の合同美術授業である。
課題は「人物デッサン」。生徒たちはイーゼルや画板を広げ、木炭や鉛筆を手にスタンバイしていた。
「えー、それでは今日のモデルですが……誰かやってくれる人はいますか? 骨格がしっかりしていて、陰影がはっきりと出やすい人が望ましいのですが」
美術教師が教室を見渡すと、生徒たちの視線は自然と一人の男子生徒へと集まった。
「……おう。皆まで言うな」
ガタッ、と力也が席を立った。
体操着の半袖からこぼれ落ちんばかりの上腕二頭筋を誇示するように、彼はゆっくりと教室の中央に設置されたモデル台へと歩みを進めた。
「美術とは、すなわち肉体美の探求!
ミケランジェロもダ・ヴィンチも、極限まで鍛え抜かれた筋肉にこそ芸術の真髄を見出していたはずだ!
俺のこの大胸筋を、存分にキャンバスに描き込むがいい!」
力也がモデル台の上に立ち、バサッと体操着のシャツを脱ぎ捨ててタンクトップ一枚になると、教室中から「おおお……」というどよめきと、女子たちの黄色い歓声が上がった。
『ふん。美術のデッサンにおける最重要課題は、光源に対する立体の配置と、そこに生じる陰影のグラデーションだ。
窓からの自然光と、天井からの蛍光灯の角度を計算し……大胸筋と腹直筋に落ちる影の面積が、最も美しく見える黄金比($1 : 1.618$)になるよう姿勢を調整する。
さらに、筋肉のカットを際立たせるための等尺性収縮を全身の筋肉に適用すれば……』
力也の脳内スーパーコンピュータは、瞬時に解剖学の計算を完了させた。
「見よ! これが俺の『考える人・広背筋マシマシバージョン』だ!!」
力也がビシッとポーズを決めた瞬間。
窓から差し込む午後の光が、力也の計算し尽くされた筋肉の隆起に完璧なコントラストを描き出した。
まるで、古代ギリシャの彫刻がそのまま現代に蘇ったかのような、圧倒的な造形美。
「す、すげえ……! 力也くんの筋肉、影の入り方まで計算されてるみたいに完璧だぞ!」
小鳥遊が木炭を握りしめながら、感動の涙を流している。
「力也様ぁぁぁっ!!」
その時、最前列でカルトンを構えていた白鳥くるみが、たまらず立ち上がった。
「なんて……なんて芸術的な筋肉なのかしら!
あの計算し尽くされたかのような大胸筋のシンメトリー! 腹斜筋に落ちる影のグラデーション!
まさにルネサンスの再来ですわ!」
くるみは完全に理性を失い、デッサンの定位置から離れてモデル台の力也へとジリジリと近づいていく。
「ちょ、白鳥さん! モデルに近づきすぎよ! デッサンの構図が狂うでしょ!」
同じく最前列にいた鈴木栞が慌ててくるみのスカートを引っ張るが、くるみの瞳はハート型に固定されたままだ。
「離してちょうだい鈴木さん! わたくしは、力也様のあの美しい上腕三頭筋の陰影を、あと3センチの距離で観察しなければ気が済みませんの!」
「どんな理屈よそれ!!」
教室の前方が、くるみの熱狂によって騒然となっていく。
***
一方。
教室の中央付近から、そんな騒ぎを静かに見つめている少女がいた。
神崎凛である。
彼女の手元の画用紙には、力也のポーズが的確な比率で、かつ非常に繊細なタッチで描き出されつつあった。
『完璧な陰影のコントロール……。肩甲骨の寄せ方から足の重心の置き方まで、全部計算ずくだね。
……ダ・ヴィンチもびっくりだよ、力也くん』
凛は内心でクスッと笑い、鉛筆を走らせる。
しかし。凛の耳に、周囲の女子生徒たちのヒソヒソ声が入り込んできた。
「ねえ、中山くんって普段はバカっぽいけど、黙ってあんなポーズしてると……すっごくかっこよくない?」
「うん……それにあの筋肉、汗が光ってて色気あるよね……」
「私、ちょっとドキドキしてきちゃった……」
A組だけでなく、C組の女子生徒たちまでもが、頬を赤らめながら力也の肉体美に見とれていた。
さらに最前列では、くるみが鈴木の制止を振り切りそうになりながら、「力也様のその汗、わたくしが拭ってさしあげますわ!」と今にもモデル台に飛び乗りそうな勢いである。
ピタッ。
凛の手が止まった。
彼女の涼しげな瞳から、スッと温度が消え去る。
『……自分の完璧な計算の成果を披露できて、随分とご機嫌みたいだね。
でも……他の子にそんな熱い視線を向けられて、デレデレしてるのは……すごく、気に食わない』
凛の胸の奥で、チリチリとした黒い炎が静かに燃え上がった。
今すぐあのモデル台に駆け寄って、あの計算高い筋肉バカを自分の画板で隠してやりたい。
だが、今は授業中だ。デッサンのモデルを物理的に隠すなど、美術の授業を根底から破壊する行為であり、優等生である凛には不可能な手段だった。
『……腹立たしい』
凛は無表情のまま、手元の鉛筆をギリッと強く握りしめた。
力也のポーズが完璧であればあるほど、周囲の女子の熱狂は高まり、凛の独占欲は限界点を超えて膨張していく。
『あと20分……。授業が終わったら、絶対に後悔させてやる』
凛は冷ややかな目でモデル台の力也を睨みつけながら、ただ静かに、その時が来るのを待ち続けた。
***
「――はい、今日のデッサンはここまで。モデルの中山くん、お疲れ様でした」
教師の合図が響いた瞬間。
「よしっ! 俺の筋肉たちも、最高のパフォーマンスを発揮できたぜ!」
力也がふぅっと息を吐き、アイソメトリックスを解いてリラックスした姿勢に戻った。
その直後だった。
「力也様ぁぁぁっ!!」
待ちに待ったとばかりに、白鳥くるみが猛ダッシュでモデル台へと突撃してきた。
その手には、どこから取り出したのか高級そうなシルクのタオルが握られている。
「お疲れ様でした力也様! さあ、わたくしがその芸術的な筋肉に浮かぶ尊い汗を、このタオルで優しく拭って差し上げ――」
くるみがモデル台に片足をかけ、力也に擦り寄ろうとした、まさにその時。
スッ。
くるみと力也の間に、流れるような動作で一人の少女が滑り込んだ。
神崎凛である。
「……え?」
くるみが呆気にとられる中、凛は手にしたスポーツドリンクのボトルを、力也の胸元へトンッと押し当てた。
「お疲れ様、力也くん。はい、これ」
「お、おう。サンキュー、凛」
「な、ななな……神崎さん!? 貴女、またしてもわたくしの邪魔を……!」
くるみが顔を真っ赤にして抗議するが、凛は涼しい顔で振り返った。
「邪魔なんてしてないわ。私はただ、彼の筋肉の『管理者』として、最適なタイミングで水分と電解質を補給しに来ただけよ。
……白鳥さんのような素人が不用意に触れたら、せっかくの美しい筋肉のパンプアップが台無しになっちゃうでしょ?」
「す、素人ですって!? わたくしの愛は、そんな生半可な知識を超越しておりますのよ!」
「愛だけで筋肉が育つなら、力也くんも苦労しないわ。ね?」
凛が蠱惑的な笑みを浮かべて力也を見上げる。
「え、あ、いや、それはその……」
計算外の事態に、力也の脳内スーパーコンピュータは処理落ちを起こしかけていた。
デッサン中は静かだった凛が、授業が終わった瞬間にこれほどの殺気……いや、独占欲を放って接近してくるとは予測していなかったのだ。
「ねえ、力也くん」
凛はくるみを完全に無視し、力也の耳元へと顔を近づけた。
周囲の女子たちが「きゃっ」と小さく悲鳴を上げる。
「授業中、随分と気持ちよさそうだったね」
「っ……!」
「完璧な計算で自分の筋肉を見せびらかして……他の女の子たちにチヤホヤされて。
……私、すっごくイライラしたんだけど」
甘く、それでいて絶対零度の冷たさを孕んだ囁き。
凛の微かなシャンプーの香りが力也の鼻腔をくすぐると同時に、背筋に強烈な悪寒が走る。
「り、凛、これは違うぞ。俺はただ、美術への貢献として純粋に筋肉のポテンシャルを……」
「言い訳は聞かない。……罰として、今日の放課後は私に付き合ってもらうから。
それと……」
凛は力也のタンクトップの裾をクイッと引っ張り、さらに顔を近づけた。
「君の筋肉がどうやって作られてるのか、その裏側の『計算高い頭脳』まで知ってるのは……私だけでいいの。他の子には絶対に見せないで。……わかった?」
「あ、ああ……」
力也は完全に圧倒され、コクコクと頷くことしかできなかった。
完璧に制御されていたはずの心拍数が、今度は凛の至近距離からのプレッシャーによって激しく跳ね上がっている。
「ちょっと! 神崎さん! 何を力也様とコソコソ話していますの!
力也様、そんな女狐は放っておいて、わたくしと筋肉について語り合いましょう!」
「白鳥さん、だから落ち着きなさいってば! 中山くんも困ってるじゃない!」
くるみが地団駄を踏み、鈴木がそれを必死に羽交い締めにしている。
さらに周囲では、A組とC組の女子たちが「神崎さんって中山くんと付き合ってるの!?」「でも白鳥さんもすごい熱烈……!」とヒソヒソと噂話を始めていた。
「ふふっ」
凛は、周囲の喧騒と真っ赤になって固まる力也を見て、満足げに微笑んだ。
美術室の中心で、力也は自身の完璧な黄金比の計算が、一人の少女の強烈なジェラシーの前に完全に粉砕されたことを悟り、ただ天を仰ぐしかなかった。




