第20話:プール掃除と流体力学のポンプ修理
一学期末。
うだるような夏の陽射しが、秀英学園の屋外プールに容赦なく降り注いでいた。
今日は一年A組の体育の授業枠を使った、恒例のプール掃除の日である。
生徒たちは皆、体操着の半袖Tシャツにハーフパンツという身軽な格好で、デッキブラシを手にプールの底や壁をこすっていた。
そんな中、プールサイドのパラソルの陰から、熱を帯びた視線で一点を見つめる女子生徒がいた。
「ああ……! 見て、鈴木さん! 水に濡れたTシャツから透けて見える、力也様のあの大胸筋のカット! 太陽の光を反射して、まるでギリシャ彫刻のようですわ!」
一年C組の白鳥くるみである。
彼女はなぜかA組の授業であるはずのプール掃除に堂々と紛れ込み、クラス委員長の鈴木栞の腕にガッチリと抱きついていた。
「ちょっと、白鳥さん……暑いんだけど。ていうか、なんでC組のあなたがここにいるのよ」
鈴木が眉間を押さえながらため息をつく。
くるみは悪びれもせず、フフンと胸を張った。
「わたくしはチアリーディング部員ですもの! 『頑張る生徒を応援する』という名目のもと、正当な理由でここに立ち入っておりますのよ! さあ鈴木さん、どうすれば力也様にわたくしの魅力が伝わるか、一緒に作戦を練ってちょうだい!」
「……あなた、ちょっと前まで『男は知性こそすべて。筋肉なんて野蛮だわ』って言ってたじゃない」
「過去のわたくしは愚かでしたわ……。いざという時に頼りになるのは、小難しい理屈より圧倒的な上腕二頭筋! ああ、あのお力でまたわたくしを抱き止めてほしい……っ!」
頬を染め、両手を組んでうっとりとするくるみ。
鈴木は「また面倒なことになったわね……」と、頭痛の種が増えたことに深く息を吐いた。
***
一方、プールの排水溝付近では、ちょっとしたトラブルが起きていた。
「あわわわ……困った、どうしよう! 排水ポンプが動かなくなってしまったぞ!」
担任の太田先生が、大型のポンプ機材の前で半泣きになりながらオロオロしていた。
「太田先生、どうしたんですか?」
小鳥遊や他の男子生徒たちが集まってくる。
その中には、デッキブラシを軽々と肩に担いだ中山力也の姿もあった。
「中山くん! 実は、プールの底に溜まった泥水を吸い上げるポンプが、急に変な音を立てて水を吸わなくなってしまったんだ。業社を呼ぶと時間がかかるし、これじゃあ今日の掃除が終わらないよ……」
『ふむ……』
力也は目を細め、ポンプから発せられる異音と、ホース内の水の動きを観察した。
『モーターの駆動音は正常だ。だが、吸水管に激しい振動(キャビテーション現象)が発生している。
つまり、内部の圧力が局所的に低下し、水が気化して気泡が発生、それが弾ける衝撃でインペラ(羽根車)の回転が阻害されている状態か。
ベルヌーイの定理を用いて管内の流速と圧力を計算すれば……原因は明らかだ。
吸水側バルブの開度不足と、ホースの無駄な湾曲による流体抵抗の増加。これを最適化すれば一瞬で直る』
力也の脳内スーパーコンピュータは、わずか2秒で流体力学に基づいた完璧な解決策を弾き出した。
だが、それをそのまま口に出すわけにはいかない。
「はっはっは! 太田先生、心配ご無用! 俺に任せておけ!」
力也は大股でポンプに近づくと、その分厚い胸板をドンと叩いた。
「このポンプはな、長時間の労働で『筋肉痛』を起こしているだけだ!
俺の広背筋のパワーで、こいつの血流(水流)を改善する最高のマッサージを施してやる!」
「えっ? ポ、ポンプに筋肉痛……?」
太田先生がポカンとしている隙に、力也は素早い手つきでポンプのバルブに手をかけた。
『バルブの開度を正確に $45^\circ$ 調整。
さらに、ホースの湾曲角度を緩め、レイノルズ数を臨界値以下に抑えて乱流を層流へと変換する!』
「くらえ! 上腕三頭筋・流しそうめんプレスッ!!」
力也が謎の必殺技名を叫びながら、ホースの位置をズラし、バルブをガキンッ!と回した。
その瞬間。
ズゴゴゴゴゴゴッ!!
ポンプが息を吹き返し、勢いよくプールの泥水を吸い上げ始めた。
排水口から勢いよく水が吐き出されていく。
「おおおおおっ!!」
「すげえ! 力也くんがポンプの筋肉をほぐしたら直ったぞ!」
小鳥遊をはじめとする男子たちが、力也を囲んで歓声を上げる。
「な、なんて見事な筋肉なんだ……ありがとう、中山くん!」
太田先生も涙ぐんで力也の手を握った。
遠くからそれを見ていた鈴木は、またしてもアイデンティティの崩壊を感じていた。
「……バルブの調整とホースの角度変更。絶対に流体力学の理詰めで直したわよね、あれ。なんで『筋肉痛』って言葉で丸め込めるのよ……」
だが、隣にいるくるみは違った。
「きゃあぁぁぁっ!! さすが力也様! 機械の不調すら筋肉でねじ伏せるなんて、なんて猛々しいのかしら!!」
くるみは完全に目をハートにして、持参した高級タオルの包みを抱え、力也のもとへ駆け出そうとした。
「力也様! 今、わたくしがその熱い汗を拭って差し上げ――」
くるみが一歩を踏み出した、その直後だった。
***
バシャアアアアッ!!
「うおっ!?」
力也の顔面に、横から突然、強烈な水柱が直撃した。
不意打ちを食らった力也は、たまらず後ろにのけぞる。
「ぷはっ! な、なんだ!?」
力也が顔の水を拭って視線を向けると、そこにはプールの注水用ホースを両手でしっかりと構えた、神崎凛の姿があった。
「あはっ。ごめんね、力也くん。手が滑っちゃった」
凛は口では謝りながらも、その涼しげな瞳には明確ないたずらっぽい光を宿していた。
彼女の濡れた黒髪が太陽の光を反射し、体操着が少し水に透けて、普段の冷静沈着な優等生とは違う無防備な魅力を放っている。
「凛……お前な。手が滑った軌道にしては、俺の顔面への命中精度が高すぎないか?」
『放水角度と水圧を完璧に計算した上での、見事なパラボラ(放物線)軌道だったぞ……!』
力也が内心でツッコミを入れると、凛はホースの口を指で少し潰し、水圧を上げて再び力也に狙いを定めた。
「だって、力也くんの筋肉がオーバーヒートしてるみたいだったから。少しは『頭』も冷やしたら? ……筋肉バカくん」
凛の言葉は、周囲にはただの冗談に聞こえる。
だが、力也にははっきりと伝わっていた。
それは、「他の女の子の前で、無駄にかっこいいところを見せつけないで」という、共犯者からの強烈な牽制だった。
「ほら、もっと冷やしてあげる!」
バシャバシャバシャッ!
「おわっ! やめろ凛! 俺の筋肉が水冷式エンジンになっちまうだろうが!」
「ふふっ、逃げないでよ!」
力也が笑いながら逃げ回り、凛がホースから水を放ちながら追いかける。
時には力也が手で水をすくって凛に反撃し、凛が「きゃっ」と声を上げて笑う。
二人の間には、他の誰も入り込むことができない、完全に出来上がった「二人だけの世界」があった。
「な……な……っ!!」
それを見ていたくるみは、持っていた高級タオルをワナワナと震わせた。
「あの女狐……! 力也様との神聖な語らいの時間を、あんな水遊びで妨害するなんて!!
それに、なによあの『私たち、普段からこういう距離感でじゃれ合ってます』みたいな圧倒的な正妻の余裕は!!」
「白鳥さん、タオル引きちぎれそうよ……」
鈴木が冷静にツッコミを入れるが、くるみの耳には届かない。
「キーッ!! 許せませんわ神崎さん! 次こそは、絶対にわたくしが力也様の隣のポジションを奪い取ってみせますからね!!」
くるみは地団駄を踏み、悔し涙を流しながらプールサイドを駆け去っていった。
***
「……ふぅ。とりあえず、アイツは追っ払えたみたいだな」
力也が小さく息を吐くと、ホースの水を止めた凛が、トコトコと力也のそばに歩み寄ってきた。
体操着が濡れ、ほんのりと上気した凛の顔が至近距離にある。
「ありがとう、凛。あのまま白鳥に絡まれてたら、また変なボロを出すところだった」
力也が小声で礼を言うと、凛はふいっと視線をそらした。
「……別に。私はただ、暑かったから水遊びがしたかっただけ」
「そうか? 流体力学の計算を完璧にこなした俺の活躍を、独り占めしたかったわけじゃないのか?」
力也が意地悪くニヤリと笑うと、凛はピクッと肩を震わせた。
「っ……ばか。自意識過剰だよ」
凛は顔を真っ赤にして、持っていたホースの口を突然力也の胸板に押し当てた。
「わっ! ちょ、冷たっ!」
「……力也くんのポンプ(心臓)も、私が水で冷やして止めてあげようか?」
上目遣いで睨んでくる凛の瞳の奥には、確かな独占欲の炎がチリチリと燃えていた。
『これは……完全に地雷を踏んだな。俺の頭脳も、このヒロインの複雑な乙女心の前ではまったく機能しないらしい』
力也は「すんません、俺の筋肉が調子に乗りました」と両手を上げて降参し、夏の青空の下、ただ苦笑いするしかなかった。




