第19話:御子柴&結城の挑戦状とチェス盤の死闘
放課後の秀英学園、一年A組の教室。
ホームルームが終わり、生徒たちが部活や帰宅の準備でざわめく中、中山力也は鞄の中に特大のプロテインシェイカーと分厚い「月刊ボディビルディング」を詰め込んでいた。
『さて、今日の放課後は大胸筋下部を徹底的に追い込むメニューだ。大胸筋の筋線維の走行角度に対して、ベンチプレスのデクライン角をマイナス $15^\circ$ に設定するのが最適解……』
力也が脳内で完璧なトレーニング計画を構築し、席を立とうとしたその時。
「待て、中山力也」
冷たく、そして明確な敵意を含んだ声が教室に響いた。
声の主は、学力特待生である一年B組の結城翔太。
そしてもう一人、彼に連れ立つようにして現れたのは、見慣れない男子生徒だった。
スマートな細身の体型に、知的さを漂わせる銀縁の眼鏡。一年C組の生徒会役員、御子柴蓮である。
「おや? 結城じゃないか。どうした、また脳のタンパク質が不足して俺の筋肉に教えを乞いに来たのか?」
力也が白い歯を見せて笑うと、結城はギリッと歯を食いしばった。
「ふざけるな……! 今日は僕だけじゃない。君のそのメッキを剥がすために、最強の助っ人を連れてきた!」
「初めまして、中山くん。僕は一年C組の御子柴蓮。生徒会役員を務めている」
御子柴は眼鏡をスッと押し上げ、鋭い視線で力也を射抜いた。
「君の噂は聞いているよ。筋肉、筋肉と騒ぎ立て、周囲を煙に巻く……だが、僕の目は誤魔化せない。君のその異常な身体能力の裏には、何か別の『カラクリ』があるはずだ」
『ほう? 結城に続いて、また面倒なインテリ気取りのお出ましだ。一年C組……ということは、まさか』
力也が推測を巡らせていると、御子柴はバンッ!と力也の机に何かを叩きつけた。
それは、木製の美しいチェス盤と、精巧に彫られた駒のセットだった。
「僕とチェスで勝負をしたまえ、中山くん。
盤上のゲームは知性のぶつかり合い。思考の論理性がすべてを暴き出す。
君がただの筋肉バカなら、僕に手も足も出ないはずだ!」
御子柴の宣戦布告に、教室の空気がピリッと張り詰める。
その直後だった。
「あら! 力也様、こんなところに!」
教室のドアから、縦ロールを揺らして白鳥くるみが飛び込んできた。
どうやら、力也の動向を常に監視しているらしい。
「く、くるみ……! 見ていてくれ、僕がこの男の化けの皮を剥がして、君の目を覚まさせてみせるから!」
御子柴が悲壮な決意を込めて叫ぶ。
彼は、くるみが力也という「野蛮な男」にたぶらかされていると信じて疑わず、知性の力で彼女を取り戻そうと必死だった。
しかし、くるみは御子柴を完全にスルーして力也のそばに駆け寄った。
「力也様! チェスなんていうチマチマした遊び、力也様の雄大な大胸筋には似合いませんわ!
こんなインテリ気取りの方たち、腕相撲で一瞬にして捻り潰してさしあげて!」
くるみは目をハートにして力也の太い腕を見つめている。
『なるほど、そういう構図か。御子柴は白鳥に惚れているが、白鳥は俺の筋肉に夢中。故に俺を敵視していると……。
青春のエネルギーとしては正しいが、ベクトルが最悪すぎる。
チェスだと? 俺のIQと計算能力をもってすれば、こいつからキングを奪うなど3分で終わるが……それをどうやって筋肉の文脈に変換するかが問題だ』
力也はわざとらしく腕を組み、チェス盤を見下ろした。
「はっはっは! チェスだと?
指先のピンチ力(つまむ力)を鍛えるための、あの小さなダンベルゲームのことか!
いいだろう、俺の指先の筋肉がどれほどパンプアップしているか、お前たちに見せつけてやる!」
「っ……! その減らず口も今のうちだ。いざ、尋常に!」
***
教室の中央に机が寄せられ、即席の対局場が作られた。
野次馬となったクラスメイトたちが周囲を取り囲む中、白番の御子柴が自信満々にポーンを進めた。
「さあ、来るがいい。僕の洗練されたオープニングについてこれるかな?」
御子柴の指し手は王道の『ルイ・ロペス』。
確かな知性と、盤面を支配しようという理詰めのアプローチだ。
対する力也は黒番。
彼は駒を指先でつまみ、大仰な動作で盤面に置いた。
『まずはシシリアン・ディフェンス。
相手のセンター支配を崩し、非対称な局面へ持ち込む。この御子柴のレベルなら、15手先で完全に詰み(チェックメイト)の盤面を構築できる』
力也の頭脳は、スーパーコンピュータの如き速度で盤面の全パターンを解析し、最適解を導き出していく。
だが、口から飛び出す言葉は真逆だった。
「おおっと! 俺の黒のポーンが斜めにスライドだ!
これは筋肉でいうところの『大胸筋上部』の斜めへの収縮! 相手の陣地という名の『ベンチプレス』に強烈な負荷をかけるぜ!」
「なっ……何を訳の分からないことを!」
御子柴は眉をひそめながらも、次の手を打つ。
しかし、力也の駒の展開は、言葉のふざけ具合とは裏腹に、恐ろしいほどの鋭さと合理性を持っていた。
「ナイトを前線へ!
このL字型の動きこそ、まさに広背筋から大円筋にかけての滑らかな連動!
俺の背中の筋肉が、お前の陣地に覆い被さるように展開していく!」
「ば、バカな……! なんだそのふざけた理屈は!
だが……なぜ僕のビショップの効きが完全に塞がれているんだ!?」
御子柴の額に冷や汗が浮かぶ。
隣で見ている結城も、信じられないものを見るように目を見開いていた。
『おかしい……! この男の言っていることは完全に破綻している!
だというのに、盤上の駒たちは完璧な有機的繋がりを持ち、まるで一つの巨大な筋肉の塊のように御子柴のキングを包囲しつつある!』
結城の脳内でも処理落ちが始まっていた。
「行けーっ! 力也様! その調子で敵の脳細胞を筋肉で押し潰してしまいなさい!」
くるみがチアリーダーのようにピョンピョンと跳ねて応援している。
「くそっ……! だったら、このルークで反撃を……!」
御子柴が焦りから無理な攻めに出た瞬間、力也の目が鋭く光った。
『罠に飛び込んだな。これでチェックメイトまでの手数は残り3手。
クイーンをサクリファイス(生贄)にし、ナイトとビショップの連携で相手のキングを逃げ場のない状態に追い込む。
――さあ、これをどう筋肉で表現する!?』
力也はバッと立ち上がり、自分のクイーンを敵陣のど真ん中に叩きつけた!
「なっ……クイーンをタダで差し出すだと!? 気が狂ったか!」
御子柴が歓喜し、ルークで力也のクイーンを取る。
「はっはっは! 甘いぞインテリ君!
今のクイーンの犠牲は、筋肉の成長に不可欠な『超回復』のプロセスだ!
一度筋線維を徹底的に破壊することで、より強大な筋肉が再構築される!」
「な、なんだって……!?」
「そして! 超回復を果たした筋肉は、もはや誰にも止められない!
俺のナイトとビショップが、お前のキングを両側から挟み込む!
これはまさに……完璧なフォームで繰り出される『チェストフライ』!!
お前のキングは、俺の大胸筋の谷間に挟まれて身動きが取れないぜ!」
パチン!
力也のナイトが、盤面を制圧する決定的な位置に置かれた。
「あ……」
御子柴は呆然と盤面を見つめた。
自分のキングは、完全に逃げ場を失っていた。
力也の言う「チェストフライの陣形」は、チェスにおける最も華麗で残酷な詰みの一つ、『スマザード・メイト(窒息詰み)』を完璧に成立させていたのだ。
「……チェックメイト。俺の筋肉の勝利だ」
力也がドヤ顔で言い放つと、教室中から「おおおおっ!!」というどよめきが上がった。
「ば、バカな……僕が、ただの筋肉のゴリ押しに負けるなんて……!」
「あり得ない……! クイーンのサクリファイスからナイトの挟撃まで、あの筋肉バカが計算してやったというのか!?」
御子柴と結城は、あまりのショックに床に膝をつき、真っ白に燃え尽きていた。
***
「きゃあぁぁぁっ!! 力也様、すっごおおおいっ!!」
くるみが歓喜の金切り声を上げ、両手を広げて力也の胸板に向かってダイブしようとした。
「あの忌まわしいチェス盤ごとインテリどもを粉砕するなんて! 力也様のその熱い大胸筋で、私を思い切り抱きしめてぇぇぇっ!!」
目を閉じ、恍惚とした表情で飛び込んでくるくるみ。
力也が『しまった、この勢いだと接触は避けられない!』と身構えた、そのコンマ1秒の隙間だった。
スッ……。
力也の目の前に、静かに、そして滑らかに水が流れるような動きで、一人の少女が入り込んだ。
「……え?」
ドンッ!
くるみが抱きついたのは、力也の分厚い胸板ではなく、ひんやりとしたセーラー服の背中だった。
「お疲れ様、力也くん」
凛だった。
彼女はくるみに背を向けたまま、力也の顔の前に、冷えたスポーツドリンクのボトルをスッと差し出していた。
「あ、ああ……ありがとう、凛」
「今日は随分と……頭の『筋肉』を酷使したみたいだね。ほら、ちゃんと糖分と電解質を補給しないと、筋肉が分解されちゃうよ?」
凛の言葉は、表向きは力也の筋肉キャラを気遣うものだが、その瞳の奥には「あのクイーンのサクリファイス、完全に計算ずくだったよね?」という共犯者としての愉悦の色が浮かんでいる。
「な、ななな……なんですの、貴女!!
わたくしと力也様の感動的な抱擁を、どうして貴女が遮りますの!?」
くるみが顔を真っ赤にして抗議する。
凛はスポーツドリンクを力也の手に握らせると、ゆっくりと振り返り、くるみを見下ろした。
「ごめんなさい、白鳥さん。
でも、力也くんは今、極限の『筋肉の思考』を終えたばかりでデリケートな状態なの。
素人の不用意な接触は、彼の筋肉のパンプアップを阻害するから……私がブロックさせてもらったわ」
「ブ、ブロックですって……!?」
「ええ。力也くんの体のケアは、私の担当だから」
凛はそう言って、力也の太い腕にそっと自分の細い腕を絡ませた。
それは、他の誰にも入り込む隙を与えない、完璧で圧倒的な「正妻」としてのマウントだった。
「キィィィィィッ!! またしても……またしてもこの女狐!!
覚えてらっしゃい! 次こそは、絶対に力也様をわたくしの虜にしてみせますわ!!」
くるみは悔しさのあまりハンカチをギリギリと噛みちぎらんばかりに引き裂き、涙目で教室を飛び出していった。
床では、御子柴と結城が未だに「筋肉……チェストフライ……」と虚ろな目で呟き続けている。
***
騒動が去り、野次馬も散り散りになった教室。
力也はふぅと安堵の息を吐き、手の中のスポーツドリンクを見つめた。
「助かったぜ、凛。危なく白鳥のダイブをモロに食らうところだった」
「別に。私はただ、スポドリを渡しに来ただけよ」
凛は腕を離し、少しだけそっぽを向いた。
「でも……」
凛は再び力也の方へ顔を向け、少しだけ背伸びをして、力也の耳元へ顔を近づけた。
甘いシャンプーの香りが力也の鼻腔をくすぐる。
「……クイーンを囮にして相手の陣形を崩す『スマザード・メイト』。
あんなにエレガントで残酷な詰みを、『大胸筋の谷間』なんて下品な言葉でごまかすなんて……力也くんって、本当に性格悪いよね」
「っ……!」
「他の子の前で、あんまりその『優秀な脳みそ』、見せつけないでよ。……脳筋くん」
耳元で囁かれた、冷たくも熱を帯びた声。
凛はそのまま悪戯っぽく微笑むと、力也を残して軽やかな足取りで教室を後にした。
力也は一人、教室に立ち尽くしていた。
盤上では完璧な計算で敵を圧倒したはずの彼の心臓は今、凛の一手によって完全にチェックメイトされ、制御不能なほどの早鐘を打っていた。




