第18話:手作り弁当と正妻の牽制
第18話:手作り弁当と正妻の牽制
秀英学園の昼休み。
四時限目の終了を告げるチャイムが鳴り終わるか終わらないかのタイミングで、一年A組の教室は和やかな空気に包まれた。
生徒たちが思い思いに弁当箱を広げ始める中、中山力也は自分の席で静かに目を閉じ、深呼吸をしていた。
『さて。本日の昼食におけるタンパク質、炭水化物、脂質のPFCバランスの最適解は……午前中の消費カロリーと午後の体育の授業強度から逆算し、タンパク質35g、炭水化物60g、脂質12g。完璧だ』
脳内で構築された緻密な栄養学の数式。
力也は目を見開き、自身の筋肉のために最適化された特製タッパーを開けようと手を伸ばした。
その時だった。
ガラッ!!
A組の教室のドアが、勢いよく、かつ優雅に引き開けられた。
「ごきげんよう、皆様! A組の皆様は今日も知的でいらっしゃいますわね!」
現れたのは、一年C組の白鳥くるみ。
縦ロールに巻かれた艶やかな髪を揺らしながら、彼女は教室中の視線を一身に集めて堂々と足を踏み入れた。
その手には、彼女の華奢な体には不釣り合いなほど巨大な、三段重ねの豪奢な重箱が抱えられている。
「えっ、白鳥さん? どうしてA組に……」
クラス委員長の鈴木栞が戸惑いの声を上げるが、くるみの耳には届いていない。
彼女の熱を帯びた視線は、教室の後方でタッパーに手をかけていた力也にただ一点、注がれていた。
「力也様っ!」
くるみは一直線に力也の席まで歩み寄ると、重箱をドスッと机の上に置いた。
「お、おう? 昨日の嬢ちゃんじゃないか。どうした、道にでも迷ったか?」
力也が筋肉質な笑みを浮かべると、くるみは頬を真っ赤に染め、もじもじと身をよじらせた。
「も、もうっ、いけずな方ですわ! 昨日はあんなに逞しい大胸筋で私をお救いになったのに! ……今日は、力也様のためにわたくし、腕によりをかけてお弁当を作ってまいりましたの!」
「なんだと?」
くるみが嬉々として重箱の蓋を開ける。
瞬間、教室中に異様な匂いが漂った。
一段目:最高級和牛の赤身肉(推定800グラム)の塊焼き。
二段目:プロテインパウダーを練り込んだ、漆黒のプロテイン・ハンバーグ。
三段目:ご飯の代わりに敷き詰められた、味付け無しの大量の茹で鶏胸肉とブロッコリー。
「さあ、召し上がって! 力也様の雄々しい筋肉をさらに育むための、特製・超高タンパク質お弁当ですわ!」
くるみは目をキラキラと輝かせている。
しかし、それを見た力也の内心では、非常事態を告げるサイレンが鳴り響いていた。
『な……なんだこの狂気の生化学兵器は!?』
力也の脳内スーパーコンピュータが、瞬時に重箱の中身を解析する。
『推定総カロリー、優に6000kcal超え! タンパク質の含有量はおよそ400g!
人間の肝臓が一度に代謝できるアンモニアの量を遥かに逸脱している!
これを完食すれば、急激なアミノ酸濃度の変化により浸透圧バランスが崩壊し、腎臓と肝臓に致命的なダメージを負う。間違いなく急性タンパク質中毒で病院送りだ!』
冷や汗が力也の背中を伝う。
「ど、どうされました? 力也様。嬉しすぎて声も出ませんの?」
「あ、ああ……そうだな。俺の上腕二頭筋も、この素晴らしいタンパク質の塊を見て歓喜のあまり震えているぜ……!」
力也は顔に引きつった笑顔を貼り付けながら、必死に言い訳のロジックを探した。
『筋肉バカというキャラクターの整合性を保ちつつ、この致死量の弁当を回避する最適解は何か!?
「今は減量期だ」と嘘をつくか? いや、俺の体脂肪率の変化は日々小鳥遊に語っている手前、ここで矛盾が生じる!
ではどうする!? このままでは俺の消化器官が――!』
力也が絶体絶命のピンチに陥った、まさにその時だった。
***
「ちょっと待って、白鳥さん」
静かで、ひんやりとした声が教室に響いた。
声の主は、神崎凛。
彼女は手にしていた自分の弁当箱をコトリと机に置くと、涼やかな足取りで力也とくるみの間にスッと入り込んだ。
「あら。貴女は……神崎さん、でしたっけ? 何かご用かしら?」
くるみが露骨に不快そうな顔をして凛を睨みつける。
しかし、凛は全く動じることなく、無表情のまま重箱の中身を覗き込んだ。
「立派なお弁当だけど……力也くんは、それは食べられないわ」
「はぁ!? どうしてですの! 力也様の筋肉が喜ぶものばかりを集めましたのよ!」
「だからよ」
凛はふっと、冷たくも美しい笑みを浮かべた。
「これだけの量のタンパク質を、炭水化物によるインスリンの分泌なしに一度に大量摂取すれば、体内で糖新生が起きるわ。
過剰な窒素はアンモニアとなり、肝臓と腎臓に極度の負担をかける。
結果として、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を促し……力也くんが大切に育てた『筋肉の分解』を引き起こしてしまうのよ」
凛の口から滑らかに紡がれる、医学的・生化学的根拠に基づいた完璧な理論。
『!!』
力也は内心で目を見開いた。
『す、素晴らしい……!
過剰摂取による代謝の限界とコルチゾール分泌のメカニズムを、あえて「筋肉が分解される」という、筋肉バカにとって最大のタブー(脅威)に結びつけて論破した!
これなら、俺が弁当を拒否してもキャラクターに全く矛盾が生じない!』
「な、なんですって……? 筋肉が、分解……?」
くるみは信じられないものを見るように、自分の重箱と凛の顔を交互に見比べた。
インスリンだの糖新生だの、難しい単語の羅列はくるみには完全には理解できなかったが、「筋肉が減る」という結論だけは強烈に突き刺さった。
「そ、そんな……わたくしは、ただ力也様のお力になりたくて……」
ショックで言葉を失うくるみに対し、凛はさらにダメ押しの一撃を放った。
彼女は力也の肩にスッと手を置くと、くるみへ向かって蠱惑的に微笑みかけた。
「それにね。彼の筋肉の栄養管理スケジュールは、すべて『私』がしてるから。
素人の勝手な差し入れは、計算が狂うからやめてもらえる?」
静かな声。
しかし、そこには有無を言わさぬ「正妻」としての圧倒的なマウントと、絶対的な独占欲が込められていた。
「なっ……!!」
くるみの顔が、みるみるうちに怒りで真っ赤に染め上がっていく。
彼女のプライドが、凛の余裕に満ちた態度によって粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
「キーッ!! なんですの、その偉そうな態度は!
たかが同じクラスなだけで、力也様のすべてを理解したような顔をして……この女狐!!」
くるみは重箱を乱暴に抱え直すと、ギリッと歯を食いしばった。
「今日は引いてさしあげますわ!
でも、次は絶対に、力也様の筋肉も細胞もすべてを虜にする完璧なお弁当を作ってまいりますからね!
覚悟なさって、神崎さん!」
捨て台詞を吐き、くるみは嵐のように教室を去っていった。
遠くの廊下から、「鈴木さぁぁぁん! 悔しいですわぁぁぁ!」という泣きつくような声が聞こえてくる。
***
教室に再び静寂が戻った。
周囲のクラスメイトたちは、「なんだ今の修羅場は……」と呆然としている。
「……助かった。ありがとう、凛」
力也が小声で礼を言うと、凛は肩から手を離し、くるりと力也の方へ向き直った。
凛の涼しげな瞳が、力也の目をじっと見据える。
その瞳の奥には、先ほどまでの冷徹な論理とは違う、チリチリと燃えるような小さな炎が揺らめいていた。
凛は、周囲に聞こえないよう、力也の耳元へ顔を近づけた。
「……完璧な生化学の計算も、女の子の強引なアプローチの前じゃ役に立たなかったみたいだね、天才くん?」
「っ……。いや、あれは計算外というか……」
「ふーん?」
凛は一歩退き、少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「別に助けたわけじゃないわ。ただ……私が苦労して計算してるのに、変なもの食べて体調崩されたら困るだけ。
……それと」
凛は力也の胸板を、人差し指でツンと突いた。
「他の子の手作り弁当なんて、絶対に食べさせないから。……バカ力也」
それは、先ほどの「正妻の牽制」が、決して単なる演技ではなかったことを証明する、甘く危険な囁きだった。
力也は、未だかつてないほどに上昇し続ける自身の心拍数を、どうにか数式で落ち着かせようと必死に足掻く羽目になった。




