第17話:白鳥くるみの襲来と共犯者の朝
台風一過の青空が、昨夜の嵐が嘘のように澄み渡っていた。
吹き荒れた風が嘘のように穏やかな朝。
だが、水たまりが散見される通学路において、歩行には細心の注意を払う必要がある。
『現在の気温、湿度、そして路面の摩擦係数……水たまりの分布密度から導き出される、靴底への泥跳ねリスクを最小化する最適解は……ここだ』
中山力也は、脳内で複雑な最適化問題のアルゴリズムを回しながら、アスファルトの上を軽快に歩いていた。
その足取りは、一見すると無造作だが、流体力学と確率論に基づいた完璧なルート取りである。
「おはようございます、力也くん! 今日も上腕二頭筋の調子が最高ですね!」
後ろから元気な声をかけてきたのは、すっかり力也の「筋肉理論」の信者となっている小鳥遊健太だ。
力也は瞬時に脳内の数式をシャットダウンし、眩しい笑顔を振り向かせた。
「おう、小鳥遊! 台風が去った後の高気圧は、大胸筋のパンプアップに最適だからな! 気圧の変化を筋肉で感じ取れ!」
「はいっ! なんだか俺も、広背筋が風のエネルギーを吸収している気がしてきました!」
『……プラシーボ効果もここまで来ると立派な才能だな、小鳥遊』
力也が内心で苦笑していると、ふと、隣を歩く気配が少しだけ冷ややかなものに変わった。
「おはよう、力也くん、小鳥遊くん。朝から随分と……『物理的』に元気みたいだね」
艶やかな黒髪を揺らしながら、神崎凛が静かに並んで歩き始めた。
涼しげな目元には、微かに面白がるような光が宿っている。
力也はピクリと眉を動かした。
『今の『物理的』というアクセント……俺がさっきまで足元の摩擦係数を計算していたことを見抜いているのか? 相変わらず恐ろしい観察眼だ』
力也は悟られないよう、さらに暑苦しいポーズをとった。
「おお、凛! お前も朝食にはしっかり鶏胸肉を食べてきたか? 筋肉の分解を防ぐには朝のタンパク質が必須だぞ!」
「ふふっ。私は普通にトーストとサラダよ。でも、力也くんが『脳の消費カロリー』まで計算してプロテインを飲んでることは、よく知ってるけどね」
凛の言葉に、力也は一瞬だけ息を呑む。
彼女は「共犯者」として、力也の隠された知性を知る唯一の存在だ。
こうして時折、絶妙なラインで牽制してくるのが彼女の小悪魔的な日常だった。
***
秀英学園の正門前。
そこには、校舎へと続く少し長めの石段がある。
昨夜の台風の影響で、石段の隅には濡れた落ち葉がへばりついていた。
一年C組の白鳥くるみは、優雅な足取りでその石段を登っていた。
裕福な家庭に育ち、常に気品を重んじる彼女の信条は一つ。
『殿方に必要なのは、野蛮な腕力ではなく、洗練された知性と教養……。この学園には、私にふさわしいインテリジェンスに溢れた方がいるはずですわ』
そんなことを考えながら、くるみが石段の中腹に差し掛かったその時。
彼女の履いていたローファーの踵が、見事に濡れた落ち葉のトラップを捉えてしまった。
「あっ……!」
ツルリと滑る足元。
バランスを崩し、くるみの体がふわりと宙に浮く。
背後には硬い石段。
落ちればただでは済まない。
『お、お父様……お母様……ごきげんよう……』
くるみが目を閉じ、覚悟を決めたその瞬間だった。
***
『前方斜め上、仰角 $45^\circ$ の位置にて、質量およそ $48\mathrm{kg}$ の物体が自由落下を開始。
初速度 $v_0 = 0$。
重力加速度 $g = 9.8\mathrm{m/s^2}$。
着地までの猶予時間は推定 $0.8$ 秒。
――間に合う!』
力也の脳細胞が、スーパーコンピュータのごとき速度で物理演算を完了させた。
彼は地面を強く蹴り上げると、周囲の生徒が瞬きをする間もなく石段を駆け上がった。
『運動エネルギーを殺すためには、接触時間を長くし、衝撃力を分散させる必要がある。最適なクッションは――ここだ!』
「危ないっ!!」
力也は叫びながら、落下してくるくるみの背中へ滑り込むように入り、その分厚い胸板で彼女をふわりと受け止めた。
ドンッ!
鈍い音が響いたが、力也の完璧な体捌きと、鍛え抜かれた大胸筋の弾力により、くるみへの衝撃は皆無だった。
「……え?」
くるみは恐る恐る目を開けた。
痛みはない。
それどころか、背中に伝わるのは、信じられないほどの安心感と、熱を帯びた逞しい壁の感触。
「怪我はないか? 嬢ちゃん」
頭上から降ってきたのは、深く、そして力強い声。
見上げると、そこには彫刻のように整った顔立ちの男子生徒が、自分を腕の中に抱きとめていた。
「あ、貴方は……」
「はっはっは! 驚かせてすまないな。君の落下軌道を見た瞬間、俺の大胸筋が『助けろ』と囁いたんだ! 筋肉の導きに感謝するんだな!」
白い歯を見せて笑う力也。
その瞬間、白鳥くるみの中で、今まで築き上げてきた価値観の城が、音を立てて崩れ去っていった。
『な、なんて頼もしいの……? 知性? 教養? いいえ、違うわ! いざという時に私を守ってくれるのは、この圧倒的な大胸筋……!』
くるみの頬が、一瞬にして林檎のように赤く染まる。
彼女の瞳には、もはや力也の逞しい姿しか映っていなかった。
「おおおおおっ! 力也くん! か、かっこよすぎます! まさに筋肉の騎士!」
石段の下で、小鳥遊が感動のあまりボロボロと涙を流している。
「はっはっは! 小鳥遊、人助けも立派なトレーニングだ! さあ、行くぞ!」
力也はくるみを優しく立たせると、そのまま颯爽と校舎へ向かって歩き出そうとした。
しかし。
グイッ。
力也のシャツの袖が、強く後ろへ引っ張られた。
「……ん?」
振り返ると、そこには極めて静かな、それでいて絶対零度のオーラを放つ神崎凛が立っていた。
「随分と……派手な人助けだね、力也くん」
凛の唇は弧を描いて微笑んでいるが、その目は全く笑っていない。
『ヒィッ!? な、なんだこのプレッシャーは!』
力也は内心で盛大に冷や汗をかいた。
凛は、力也の袖を掴んだまま、つま先立ちになって彼の耳元へと顔を近づけた。
そして、周囲には聞こえない、二人だけの秘密の声で囁く。
「落下速度と衝撃吸収率を完璧に計算したくせに……わざわざ『そこ』で受け止める必要、あったのかな?」
「っ!」
「他の女の子に、あんまり筋肉見せつけないでよね。……バカ力也」
チクリと刺すような、それでいてどこか甘さを孕んだ嫉妬の声。
袖を引く凛の手の力は、少しだけ強くなっていた。
『ごまかしきれてない! というか、完全に拗ねてる!?』
力也の脳内スーパーコンピュータが、今度は「神崎凛の機嫌を直すための最適解」を導き出そうと、オーバーヒート寸前で煙を上げ始めた。
一方、石段に取り残された白鳥くるみは、去っていく力也の背中と、その隣に並ぶ凛の姿を、熱を帯びた視線で睨みつけていた。
『あの隣にいる女狐……絶対に、力也様から引き離してみせますわ……!』
台風一過の爽やかな朝。
力也の平穏な偽装生活に、新たな波乱の幕開けが告げられていた。




