第83話 〜届かない光〜
ラクトゥでのサリムとの会談と、その夜のハンサン密議から一週間が過ぎた。
前日にフーガも戻り、エルドウルフの執務室には五人の腹心が揃っていた。
午前最後の小会議も、終わりに近づいている。
窓から差す強い夏の日差しを、薄いカーテンが遮っていた。開いた窓から風が通るたび、卓上の書類の端が揺れる。
部屋の中央に置かれた長卓の奥に、エルドウルフが座っていた。その近くにはアンリとルーソル、向かい側にはフーガ。エランとゴディエの前には、確認を終えた書類が重ねられている。
扉脇にはアストロフが控えていた。
エルドウルフが手元の書類を閉じる。
その動きの途中で、わずかに呼吸が止まった。
フーガが眉を寄せる。
「まだ痛むのか」
「何が」
「肋だ。医師は何と言っていた」
エルドウルフは脇腹へ触れかけた手を、何事もなかったように卓へ戻した。
「一本、傷めているらしい」
「やっぱりか」
アンリが呆れたように息を吐いた。
「姫さまに治してもらえばいいじゃないか」
「いや」
エルドウルフは淡々と答えた。
「俺を治すことはできないそうだ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「……できない?」
アンリの声から、軽さが消える。
ゴディエはエルドウルフを見ていたが、やがて目を伏せた。
「……命の受け渡しが、不可逆だからだな」
口にしてしまえば、筋は通っていた。
それで納得できる話ではなかった。
「どういうことだ?」
「エルドウルフから姫さまへ渡ったマナは、エルドウルフへは戻せない。もし戻せるなら、姫さまは受け取ったマナでこいつを治し、こいつはまた姫さまへマナを与えられる」
エランの表情が変わった。
「二人の間だけで、命が循環してしまうのですね」
「ああ」
エルドウルフは事もなげに頷いた。
「俺がいる限り、フィーラは幾人でも治し、何人でも死者まで戻せることになる。二人だけで、世界の命を補えてしまう」
短く息を吐く。
「そんな理が成り立つはずがない。考えれば分かるだろ」
「分かるか!」
フーガが勢いよく立ち上がった。
背後へ押しやった椅子を蹴り飛ばし、長卓を回り込む。
木の脚が床を激しく擦り、背後で倒れる。
アストロフの手が、佩剣の柄へかかった。
「フーガ殿」
低い声が警告する。
だが、フーガは止まらず、エルドウルフへ詰め寄った。
「そんな重要な事実、早く言えよ!」
アストロフが壁際を離れる。
その前に、アンリが立ち上がった。
伸びた腕を横から取り、勢いに沿って向きを変える。
フーガの手は、エルドウルフの襟を掴む寸前で空を切った。
アンリは、よろめいたフーガの肩を押さえた。
「怪我が治るまで待て」
「治ったらいいんだな」
「そうは言ってない」
フーガが腕を振りほどこうとする。
アンリはその動きに合わせて立つ位置を変え、エルドウルフとの間を空けなかった。
アストロフは主君の斜め前で足を止めた。
剣は抜かず、フーガを見据えている。
エランは書類を揃えかけ、手を止めた。
「エルドウルフを実際に殴れば、さすがに監獄ですよ」
「一発で済ませる」
「回数の問題ではありません」
誰も笑わなかった。
エルドウルフは座ったまま、卓の端から一枚の紙を取り、アンリの前へ滑らせた。
「アンリ。今朝、紋章官から届いた」
アンリは紙を一瞥し、エルドウルフの顔へ視線を戻した。
「……今、その話をするのか」
「後は任せたぞ」
アンリは何か言いかけ、結局、息を吐いた。
「……おう。預かる」
エルドウルフは立ち上がった。
「待て。話は終わってないぞ」
フーガがまた前へ出ようとする。
アンリが肩を押さえる手に、力を込めた。
「ルーソル、行くぞ」
ルーソルはすぐには答えなかった。
立ち上がる時に脇腹を庇ったエルドウルフを、見ていた。
「ああ」
書類を取り、隣へ並ぶ。
商会との打ち合わせは、別室で予定されていた。
エルドウルフは振り返らず、ルーソルとともに執務室を出ていく。
アストロフも二人のあとに続いた。
扉が閉じる。
アンリは、それを確かめてから手を離した。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……あいつは、初めから姫さまに治してもらうつもりなんてなかった」
ゴディエが、閉じた扉を見たまま言う。
「ええ。私たちだけが、勝手に期待していたのですね」
エランは揃えかけた書類を、卓へ置いた。
フィーラがいれば、最悪の傷も取り返せるのではないか。
誰も口にはしなかった。
だが、あの力を目にしてから、心のどこかでそう思っていた。
エルドウルフだけは、違った。
神が降りる前も、降りた後も。
彼は変わらず、自分の命を一つの駒として盤の上へ置いている。
「次も、あいつは一人で行く」
アンリが低く言った。
「自分が一番早いと判断すればな」
ゴディエは扉から目を戻した。
「次は、俺たちを使うほうが早いところまで、先に持っていく」
「止めるためではありません。あの子が一人で危険を引き受ける以外の選択を、現実のものにするためです」
エランの言葉に、フーガは短く息を吐いた。
「……分かってる」
蹴り倒した椅子を起こし、乱暴に腰を下ろす。
やがて、ゴディエが卓に残された紙を引き寄せた。
「……紋章は」
薄青の方眼紙には、正確な線で新しいエンブレムが描かれている。
有翼の白い獅子が二頭。
交差した剣と戦斧。
若い蔦。
そしてスクロールに記された『クワルノー』の文字。
「……ほう。悪くない」
「……ずいぶん王道だな」
フーガは腕を組んだまま言った。
目は図案へ向いているが、声にはまだ苛立ちが残っている。
エランも図案を覗き込んだ。
「分かりやすくていい。神獣、武、繁栄。エルドウルフらしいですね」
「旗にも城壁にも使うことになるんだ。変に凝られても困る」
アンリは紙の向きを整えた。
「原図は俺が預かる。紋章官に正確な写しを作らせよう」
「一枚は、うちへ届けてください。ジュリアたちが、姫さまの刺繍を手伝うことになっています」
エランが言った。
「ああ。写しができ次第、届けさせる」
話がまとまっても、フーガの眉間から皺は消えなかった。
もう一度、エルドウルフが出ていった扉を見る。
「……怪我が治ったら、だからな」
「何の確認ですか」
「独り言だ」
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