世界の終わりにあなたと
世界の終わりにあなたと 深水湖水
初冬の愛媛県松山市。
地方紙の記者、高梨美沙は夕刻の松山空港に来ていた。
繁忙期を前にしてやっととれた休みだった。
朝早くに起きた美沙は洗濯などの用事を午前中に済ませ、午後からは大好きな旅客機を見にここにやってきたのだった。
今、美沙は送迎デッキに設置されたフェンスの前に立っている。
冬の日没は早い。暮れゆく陽の光に照らされた機体が離陸滑走を始めている。オレンジ色に染まったジェット機はあっという間に空港ビルの正面を通過、ドップラーシフトするエンジン音を残して夕空に向かって浮上していく。しばらくその姿を追っていたが、やがて点になって見えなくなった。
美沙は今日で二十五歳になった。地方紙の記者としては三年目だ。しかし同僚たちとの個人的な付き合いはなく、学生時代の友人ともとうの昔に切れている。唯一の家族である十二歳年上の姉、桂子は東京にいて、今朝、元気でいるかと電話をかけてきた。でも、それだけだ。
ため息を一つ吐くと美沙は屋上のフェンスから離れ、滑走路に背を向けた。帰ろうかな、そう思った。そのときだった。
空港全体にサイレンが鳴り響いた。美沙は振り返る。消防車両が出動していた。緊急着陸だ。南東方向、山側に視線を移す。見えた。旅客機がやってくる。
美沙は胸が苦しくなった。どうか無事に着陸できますように。誰もケガをしたり、命を落としたりしませんように。そんな思いと同時に、先輩記者に叩き込まれた本能が動き始める。
美沙はバッグから携帯端末を取り出した。着陸までにはまだ時間がある。それまでに本社へ一報を入れるのだ。
通話アプリを起動し、本社のアイコンをタップするとデスクはすぐに応答してきた。携帯端末で一部始終を撮影するように指示される。
通話が切れるのを待って、美沙は端末のカメラを起動させた。構える。
旅客機はかなり近づいてきていた。着陸脚が出ている。高度が下がってきた。よく見ると機体から白煙を引いている。どこかから出火しているのだろうか。どうか無事に……
機体が滑走路上空に進入してきた。音が聞こえるような勢いで着地する。速度が落ちない。空港ビルの前を通過、急停止。機体が白煙に包まれる。見物客から悲鳴が上がった。爆発音。炎が上がる。
美沙はフェンスにしがみついていた。身体の震えが止まらなかった。
*
美沙は車の助手席に座りながら車内を見回した。運転しているのは東京から里帰り中の姉、桂子で、後部座席には両親がいる。
車は高速道路を走っていた。みんな嬉しそうな表情をしている。美沙が第一志望の高校に合格したからだ。桂子などは鼻歌を歌いながらハンドルを握っている。美沙はその端正な横顔から目を離せない。
「どこにいこうか?」
鼻歌を中断した桂子が訊いてきた。すると後部座席の母が呆れたように言う。
「行き先も決めないでわたしたちを連れ出したの?」
美沙はそこに割り込む。
「いつものことじゃん」
そう、桂子はよく行き当たりばったりで行動してしまうのだ。美沙は何度もそれにつき合わされたおかげで慣れっこになっている。その美沙の指摘に桂子が反応する。
「わかったようなこと言うなあ」
「だってわかってるもん」
美沙は軽口をたたいた。すると突然、桂子が叫ぶ。
「ヤバい!」
美沙は桂子の視線を追って前方を見た。道路の上を脚立が転がりながら突っ込んでくる。
「きゃあっ!」
パニックになった美沙は桂子の腕をつかんでしまう。視界が暗転する。
痛みを感じて美沙は目覚めた。まぶたを開く。
薄暗い。ベッドの上だ。
脳内に痛みを感じる。本来なら痛みを感じる部位ではない。しかし――
幻肢痛というものがある。美沙が痛みを感じるのは脳の失われた部位だった。以前は痛みなどなかった。この変化は数日前からなのだ。一週間後には検査の予定がある。
またあの夢をみた。十年前の交通事故の。
あのとき、制御を失った車は擁壁に激突した。両親は車外に放り出されて即死、美沙と桂子も脳の一部に損傷を受けた。二人の脳内には今も電子回路が埋め込まれている。
美沙は両手をついてゆっくりと起き上がる。急にこみ上げてきた。口を押えてトイレに駆け込む。そのまま吐く。胃液しか出てこない。昨夜からなにも食べていないからだ。航空機事故を目撃したあのときから。
ふらふらとトイレから出た美沙は洗面台でうがいをし、鏡を見た。酷い顔をしている。目は落ちくぼみ、髪はばさりと広がっている。昨夜はシャワーを浴びてからすぐにベッドに倒れ込んだ。たぶん、そのせいだ。
洗面台で呆けていると電子音が聞こえてきた。携帯端末に着信しているのだ。慌ててベッドに戻り、端末を取り上げる。デスクからだ。アイコンをタップする。つながるなり今日は休めと言ってきた。デスクは美沙が過去の事故でトラウマを抱えていることを知っている。出社すると伝えてはみたが、かえって足手まといだと言われてしまい、引き下がるしかなかった。
通話を切り、端末の時刻を確認するとすでに九時過ぎだった。美沙はベッドに座り込んだまま脱力してしまう。
どれくらいそうしていただろうか。テレビのリモコンを取り上げてなんとなく電源を入れる。ディスプレイが点灯した。ニュースが映し出される。昨日の事故だ。美沙はチャンネルを変えようとした。そこで身体が固まる。
テロップには航空機事故調査委員会とあった。松山に来ているらしい。他の面々が作業服に身を固めている中で、一人だけが黒のパンツスーツ姿だ。長い漆黒の髪と整った顔が画面に映る。姉の桂子だった。
桂子は東京湾岸に設置された高エネルギー素粒子物理学研究所に所属する物理学者だ。その桂子がどうして事故調にいるのか。疑問には感じたが、それを取材意欲が上回った。
チャンスだ。桂子に取材すれば他社を出し抜くことができるかもしれない。
美沙は大慌てで身支度を始めた。
*
着替えて化粧を済ませた美沙はベッドに腰かけ、携帯端末を取り上げる。まずアポイントを取らなければならない。通話アプリを起動する。桂子のアイコンをタップしようとした。
できない。
あのとき、事故が起きなければ両親は死なずにすんだ。
あのとき、わたしが姉の腕をつかまなければ事故は起きなかった。
呼吸が荒くなる。やらなければ。それがわたしの仕事なのだから。できていると示さなければ。
美沙は指の震えを抑えて桂子のアイコンをタップした。
一呼吸置いて呼び出し音が鳴り始める。
出ない。
八コール目、出ない。
もう切ろう、そう思ったとき、呼び出し音が途切れた。
「美沙?」
携帯端末からよくとおる声が響く。美沙は答えようとしたが声が出ない。喉がからからに乾いていた。桂子が訊いてくる。
「美沙?」
美沙は声を絞り出す。
「姉さん……」
「大丈夫?」
「う、うん……」
「取材なのね?」
「うん……」
「航空機事故の?」
「うん……」
「ごめん、今はなにも話せない」
当たり前だった。桂子がもし航空機事故調査委員会のメンバーなら、そう簡単に話を聞けるわけがないのだ。
「ごめん、姉さん。切るね」
美沙はいたたまれなくなって通話を切ろうとした。すると桂子が慌てたように言う。
「待って! 元気にしてる?」
「うん……」
「そう……」
桂子が沈黙した。なにかを逡巡しているようだ。
美沙はもういいと思った。だから言う。
「切るね」
指が切断アイコンにかかる。
「美沙」
桂子の呼びかけに指が止まる。
「ネットニュースを見ることはできる?」
ネットニュース? 桂子はなにを伝えるつもりなんだろう。疑問に感じながらも美沙は答える。
「……できるよ」
「科学ニュースのトップ画面を表示させて」
「うん……」
美沙は携帯端末のブラウザを立ち上げて桂子の言うとおりにした。
「表示させた」
「あなたのほうでは何番目かわからないけど、たぶんトップ画面内に宇宙のダークエネルギーについて書かれた記事があるはず」
美沙はニュースを探す。あった。三番目だ――宇宙のダークエネルギーは変動していることがわかった――この記事だろうか。
「三番目にあるけど?」
「そう」
「これがどうかしたの?」
「その記事をよく読んでおいて。いずれそこに書かれている知識が必要になる」
「どうして?」
「美沙」
「なに?」
「あなたは大学で理論物理を学んだ」
「うん……」
「その知識があれば理解できるわ」
「なにを?」
「これから起こることを」
美沙には桂子の言う意味がわからない。
「美沙」
「なに?」
「やりたいことはある?」
唐突な問いだった。美沙は戸惑う。
「やりたいこと?」
「あるなら二週間以内にやりなさい」
「どういう意味?」
「世界中の物理学者が追っている」
「なにを?」
「タイムリミット」
「タイムリミット?」
「美沙」
「なに?」
「元気で」
そこで通話は切れた。
*
十年前の事故の後、大学を出るまで美沙は叔母夫婦の家で世話になっていた。
事故からしばらく、美沙はふさぎ込んで与えられた部屋に閉じこもった。
「美沙ちゃん、今日も休むよね?」
ベッドで寝ているとドアの向こうで叔母の声がした。美沙はなにも答えない。
「ご飯、ここに置いておくね」
聞き耳を立てながら美沙は携帯端末で時刻を確認する。午前七時過ぎだ。玄関のドアが静かに開閉される振動が伝わってくる。叔父が仕事に出かけるのだろう。端末を置く。その途端、通知音が鳴った。びくりと身体が反応する。画面を確認するとメッセージが届いていた。姉の桂子からだ。内容が表示されている。
「今日、行くから」
美沙の身体が震えだす。
「死にたい……」
涙があふれた。
美沙の姉、桂子の回復は早かった。退院後、すぐに東京の勤め先に復帰し、月に二、三度は美沙が世話になっている叔母の家にやって来るようになった。そのたびに部屋の外から美沙に声をかけてくる。
そんな桂子に対して、美沙は返事もせず、ただ耳を塞いで耐えていた。
わたしが原因で事故は起きた。
わたしが姉の腕をつかんだせいで。
わたしが父と母を殺したのだ。
美沙の心は後悔で塗りつぶされていた。
そんな美沙だったが、事故の記憶が遠ざかるにつれ、外出できるようになっていった。
はじめのうちは近くのコンビニへ買い物にいく程度だったが、半年が経とうとする頃には最寄駅から電車に乗って出かけることができるまでに立ち直っていた。
ある日、美沙がスーパーから帰ってくると叔母の家の前に見知らぬバイクが停まっていた。ライダースーツを着た女性が立っている。こちらを向いた。フルフェイスのヘルメットを脱ぐ。
姉の桂子だった。
すらりとした長身と整った顔立ち。桂子は以前と変わらず美しかった。美沙は固まってしまう。
「美沙」
桂子から話しかけてきた。形の良い唇が動く。
「うちにこない?」
言葉が素通りする。
「部屋が空いているの。そこでやり直さない?」
桂子がなにを言っているのか、美沙にはわからない。いや、理解はできていたのだ。だから爆発が起きた。
「嫌だ……」
「美沙?」
「嫌だ……嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」
大きな声が出た。玄関のドアが開き、叔母が飛び出してくる。
「美沙ちゃん!」
美沙は叔母に支えられて居間のソファに落ち着いた。向かいには桂子が腰掛ける。
叔父がコーヒーを淹れてきた。誰も口をつけない。桂子が切り出す。
「わたしを嫌いなら仕方がない。でもそうじゃないでしょう?」
深い色の瞳が美沙を見つめている。
美沙にはなにも答えられなかった。
なぜ桂子はここまで自分にかまうのか。それはたぶん、桂子も事故のことを後悔していて、美沙の今の状態に責任を感じているのだ。美沙はそう思う。それだけに、桂子からの想いを断れない。かといって受け止めることもできない。
そんな美沙の迷いを感じてか、やがて桂子は美沙との間に距離を置くようになった。少なくとも美沙にはそう見えた。連絡をあまりとらなくなり、たまに話してもそっけなくなった。事故以前の、姉と妹の関係にはもう戻れないのだ。それが美沙にはさみしかった。
桂子との関係が疎遠になった原因ははっきりとしない。しかしただひとつ、思い当たることがある。
それはある日の朝、いつものように引きこもっている美沙を桂子が見舞いにやってきたときのことだった。
美沙はまだ眠っていた。何か言い争う声で目覚めた。最初に聴こえてきたのは叔母の声だった。
「もう苦しめないであげて」
そう聞こえた。次いで桂子の声がする。
「苦しめてなんかいない」
「いいえ、苦しめてる」
そして沈黙。しばらくしてすすり泣きが聞こえてきた。あれは姉の声だったような気がする。
それ以来、桂子は見舞いにこなくなった。
*
松山空港での航空機炎上事故から四日目、航空機事故調査委員会の帰京が伝えられた。美沙はそのニュースを報道部で見たが、画面に映し出される一団の中に姉の姿はなかった。
事故調帰京のニュースを見た日の夜、姉から読むように言われていた記事があったことを美沙は思い出した。
その記事はすでにニュースサイトのトップ画面から消えていたが、なんとか探し出すことができた。
携帯端末を持った美沙はベッドに腰かけ、記事を読み始めた。
今から二年前に鏡像粒子振動と名づけられた現象が発見された。通常粒子とその鏡像粒子が重力子の交換によって対となる現象のことである。
鏡像粒子振動では、対になった粒子が重力子を交換することで、通常粒子は鏡像粒子に、鏡像粒子は通常粒子に変化し、それが繰り返される。
この発見により、電磁気的に、広帯域で、極めて高精度に重力波を検出できるようになった。
その結果、重力波を使った観測はミクロな領域からマクロな領域にまで広がり、中でも宇宙の観測で大きな成果を上げた。
特に宇宙重力波背景放射については、予想と異なる帯域に、大きな振幅で、特徴的なスペクトル形状が観測された。
これが、ダークエネルギーの解釈にこれまでとは違った視点を提供し、新しい宇宙モデルが提唱されることとなった。
ダークエネルギーとは宇宙空間に存在する斥力のことである。これがあるために宇宙は加速膨張を続けている――
美沙はベッドに端末を置いた。息を吐く。目をつぶり、こめかみをマッサージする。
突然、美沙は誰かとつながったような感覚に襲われた。
「姉さん……」
この感覚は気のせいだとわかっている。でも感じるのだ。姉の桂子がわたしを見ている。
美沙は再び息を吐いた。端末を取り上げ、記事の続きを読み始めた。
――今回提唱された新しいモデルによれば、ダークエネルギーは当初、弱い引力であったが、今から百三十八億年ほど前に相転移を起こして強い引力となり、星や銀河の形成を促した。
その後、再び相転移を起こし、今のような斥力に転じた。
だが、それはおかしかった。現在、宇宙の年齢は百三十八億年と推定されている。新しいモデルによれば、それ以前から宇宙はあったことになる。
そこで記事はいきなり終わっていた。それ以上の情報は無く、続報もなかった。
美沙は拍子抜けした。尻切れトンボな終わり方だったからだ。
記事は宇宙論について書かれたものだ。それはわかった。なぜ疑問を投げたまま終わったのか、それもなんとなくわかったような気がした。
今の宇宙論に疑義を生じたが、その疑義そのものにも、まだ誰も確信を持てていないのだ。
記事は一般向けにかみ砕いた内容だったので、そこで紹介されていた新しい宇宙モデルについて美沙は詳しく知りたくなった。しかし記事に原論文へのリンクは無い。検索すると、該当する論文は現在読めない状態になっていた。その理由もわからない。
姉の桂子はなぜこんな記事を読むように言ったのか。美沙には理解できなかった。
*
松山空港での航空機炎上事故から一週間が経った。
美沙は当初のショック状態から回復していたが、デスクの判断で事故に関わる取材から外されていた。
仕方なかった。しかし、歯がゆくもあった。
この一週間、美沙はもっぱら他紙やニュース番組のチェックに取り組んでいた。
そこで美沙は気づいた。なにかがおかしい。世界各地で発電所や大型プラントの停止するトラブルが相次いでいる。船舶や航空機、鉄道の事故も増えているような気がした。なぜだろうか。
その疑問を口にすると先輩たちは言った。事件や事故は立て続けに起こる。そう言うものだと。
納得できなかった。でも、それは違うと指摘するには確信が無い。
そんな美沙だったが、もう一つ、のどに刺さった小骨のように気になっていることがあった。
あの記事だ。それが、各地で起きている事故に関係しているような気がするのだ。
確かめたい。強烈な欲求が美沙の中に湧き上がってきた。それは記者の本能なのかもしれない。
美沙は姉の桂子に連絡を取ろうと決めた。記事を読むように言った本心を問いただすのだ。
ある日の深夜、桂子が絶対に帰宅しているだろう時間帯に美沙は電話をかけた。携帯端末を操作する指先は相変わらず震えていたが、知りたいと言う欲求がそれを上回った。
連絡先をタップすると呼び出し音が鳴る。三回目のコールが終わった直後、桂子が応答した。
「はい」
「こんな時間にごめん」
「いいよ」
次になにを言うべきか美沙は迷う。その迷いには十年間に積みあがった距離があった。桂子が訊いてくる。
「美沙?」
「うん」
「あの記事のことを聞きたいのね?」
「うん」
「ごめん、今説明できることは無いの」
「姉さん、わたし、決めたの」
「なにを?」
美沙は自身で選んだ道を告げる。
「東京に行く」
「えっ?」
「来週の日曜日、午後一時過ぎに羽田に着く便を予約した」
「飛行機で……来るのね……?」
「うん」
「美沙……」
桂子の言葉がとまった。心の揺れが伝わってくるようだ。いや、そんなことは自分の勝手な想像に違いない。沈黙の後、桂子が言う。
「だめよ」
「えっ?」
「来ないで」
「どうして?」
「来ちゃだめ!」
強い言葉だった。
「どうしてだめなの?」
「その日はだめ。来るならもっと早くして。明日か、明後日か」
「そんな……無理よ」
「じゃあ来ないで」
やっぱりかと美沙は思う。
「会いたくないのね」
「そんなことない!」
桂子が即座に否定した。美沙は姉との間に断絶があることをあらためて感じた。
だが、こんなことで引き下がりはしない。今回はなんとしても会いに行く。美沙はきっぱりと告げる。
「来週、行くから」
端末から桂子のため息が聞こえた。きっと頭を抱えているのだろう。
「美沙」
「なに?」
「守ってほしいことがあるの」
「うん」
「携帯端末をいつも身につけるようにして。内ポケットのあるジャケットを着るとかして。バッグに入れたらだめよ」
奇妙な指示だった。美沙は問う。
「どうして?」
「約束して」
桂子が強く念を押してきた。美沙は渋々了承する。
「わかった」
「じゃあ切るね」
「うん」
「美沙」
「うん?」
「気をつけて」
「うん」
桂子からの応答が無いことを確認した美沙は、切断アイコンをタップして通話を切った。
*
快晴の日の午後。
美沙の乗った旅客機は羽田空港の滑走路に向かって降下していた。
もう間もなく着陸する。
美沙は両手を握りしめていた。手のひらにはぐっしょりと汗をかいている。
美沙の座席は翼近くの窓際だった。今日は天気も良く、眼下に広がる海や山の風景を楽しめるほどに晴れていたが、今の美沙にそんな余裕はなかった。事故の記憶がそうさせているのだ。ついこの間の航空機事故と、十年前の事故の記憶が。
美沙は無意識に唇を噛む。
ドスンと機体が揺れた。着陸したのだ。
美沙はほっとして窓の外を見る。身体が凍り付いた。
エンジンから火が出ている。乗客が騒ぎだした。恐怖が美沙の心をわしづかみにする。今にもパニック発作が起きそうだ。呼吸が荒くなってくる。それでもなんとか係員の指示に従い、非常脱出口から機外に出ることができた。しかし、シューターを滑り降りたところで意識が途切れてしまう。目を覚ますと、そこはどこかの床の上だった。
美沙は身体を起こす。掛けられていた断熱シートがふわりと舞った。係員らしき女性が駆け寄ってくる。
「ご気分は? 救急車の到着が遅れています。もう少々ここでお待ちください」
そこで美沙は自分のおかれた状況を思い出す。事故にあったのだ。また。
そう思ったとたん、急にこみあげてきた。断熱シートの上にもどしてしまう。
「す、すいません……」
女性が背中をさすってくれる。
「いいんですよ」
そのとき、携帯端末の着信音が鳴った。音の方向を見ると、着ていたジャケットが右手側の床に置かれていて、着信音はそこから聞こえたようだった。身一つで炎上する旅客機から脱出したが、幸い内ポケット付きのジャケットを着ていたので携帯端末は無事だったのだ。他の荷物はもう駄目だろう。
美沙は女性に手伝ってもらい、ジャケットから端末を手に取った。確認すると桂子からのメッセージだった。無事なら第二ターミナル、南側のタクシー乗り場で待つ。その一文だけが記されていた。
「姉さん……」
美沙はすぐに返信しようとしたが、指が震えてうまくいかない。ようやく短い文章を入力する。無事です、了解しました。送信ボタンをタップする。
「ありがとうございます。お世話になりました」
美沙は床から立ち上がった。女性が止める。
「待ってください」
「もう大丈夫です」
何度か押し問答をした後、美沙は女性のもとを離れた。身体はまだ震えていたが、桂子からのメッセージが美沙の足を動かした。携帯端末で現在位置を把握し、待ち合わせ場所のタクシー乗り場へと向かう。たぶん姉はタクシーでやってくるのだろう。第二ターミナルに一般車両の車寄せは無いはずだ。
しかしと美沙は考える。姉には強引なところがある。自家用車でやってきて、係員を説き伏せているかもしれない。いや、それよりもお金をどうしよう。現金もカードもない。あるのは携帯端末だけだ。万能じゃない。そうこう考えているうちにタクシー乗り場まであと少しというところまでたどり着いた。立ち止まってあたりを見回す。
あちこちに人だかりができていた。みんな携帯端末を操作していて、電車が止まっているだとか、モノレールが止まっているだとか、そんな言葉が聞こえてくる。その人だかりの向こうには一台のバイクが停まっていて、ライダースーツにフルフェイスのヘルメット姿の女性がまたがったまま係員と話していた。ここに停車させてはいけないとか言われているのだろう。移動させられるに違いない。だが、美沙の予想に反して、係員は頷き、離れてゆく。ライダーがヘルメットを脱いだ。姉の桂子だった。エンジン音が止まる。桂子がバイクから降りた。背が高く、細い。タンデムシートにあったもう一つのヘルメットを持つと美沙のもとにやって来る。目の前に立った。抱きしめられる。
「美沙」
「姉さん……」
「怪我してない?」
「うん……」
「ごめん」
桂子がなにを謝っているのかわからない美沙は顔を上げて目で問う。
「なんでもない」
桂子はそれだけ言うと身体を離した。美沙の全身を確認するようにして言う。
「電話のとおりにしてくれたのね。内ポケットのあるジャケット。携帯端末を身につけてバイクに乗れる。ジャケットの前ボタンは閉じておいてね」
電話での指示はこのためだったのかと美沙は合点がいった。だが疑問にも感じた。なにを根拠にこの混乱を予想していたのだろうか。桂子が言う。
「すぐに出発するわ。これを被って」
美沙は差し出されたフルフェイスのヘルメットを受け取る。
「どこへ?」
「わたしの職場、高エネルギー素粒子物理学研究所」
桂子はそう答えるとヘルメットを被り、バイクにまたがった。
「乗って」
美沙もヘルメットを被る。タンデムシートにまたがり、桂子の腰に腕をまわす。耳元から声がする。
「大丈夫? ヘルメットには通話装置が内蔵されているから話せるよ」
「うん……」
「いくよ」
エンジンがかかる。バイクはゆっくりと発進した。本線に合流する。桂子が言う。
「加速するよ」
美沙は桂子にしがみついた。ヘルメットのシールドが桂子の背中にあたる。体温を感じることはできない。それが二人の間にある壁を象徴しているように美沙には感じられた。
*
後席の美沙が心配になるほどの速度で、桂子の駆るバイクは渋滞気味の道路を北上してゆく。桂子が言う。
「臨海トンネルで事故が起きている。一番の近道なんだけど」
美沙は尋ねる。
「どうするの?」
「迂回する」
「迂回?」
「このまま国道三五七号線をお台場まで北上して有明まで行く。青海も通れないようだから」
「有明?」
「そう。そこから南北線に入って南下すると中央防波堤よ。研究所はそこにある」
東京に住んでいない美沙には桂子の説明が頭に入ってこない。バイクは相変わらず疾走してゆく。美沙は徐々にタンデムシートに慣れ始めた。
サイレンが聞こえる。あちらこちらに黒煙が見える。それが道路をいくら進んでも続く。いったいなにが起きているのか。桂子が訊いてくる。
「知りたい?」
まるで自分の心を読んだかのような問いかけに美沙は戸惑う。桂子が言う。
「陽子崩壊」
意外な言葉に美沙は訊き返す。
「え?」
桂子がもう一度言う。
「陽子崩壊が起きている」
美沙には状況がのみ込めない。陽子崩壊がサイレンや煙とどう関係するのか。桂子が再び言う。
「陽子崩壊で物質が消失しつつあるの」
「消失……」
「消失は正解じゃないかな。質量が大きくて精密なものから壊れてゆく」
美沙にはまだ納得がいかなかった。陽子の寿命は十の三十四乗年と推定されている。だから陽子の崩壊する確率は極めて小さい。仮に、陽子崩壊が起きても、街中でサイレンが鳴ったり黒煙があがったりはしないはずなのだ。
美沙は大学時代に学んだ。陽子崩壊は極めてゆっくりと進行する。だから崩壊による影響が蓄積され、マクロな世界を壊し始めるのはずっと先のはずだった。なぜなら、陽子の推定寿命、十の三十四乗年に対して、宇宙の年齢は百三十八億年でしかないからだ。短すぎる。そんなふうに考えを巡らせていると桂子が言う。
「宇宙の年齢は百三十八億年じゃなかったの――」
話しながらも桂子はバイクを駆っている。なめらかな運転で次々と車を抜き去ってゆく。
「――もっとはるかに長い。少なくとも十の三十乗年は越えている」
そこで美沙は思い当たった。
「それって……」
「そう、あの記事よ。詳しいことは研究所で話すわ。無事着けたらね」
その言葉に美沙は黙った。今、なにが起きようとしているのか考えを巡らせることができない。視界から飛び込んでくる情報が、美沙の思考を圧倒していた。
*
三五七号線を走行し始めて十数分が経過した。桂子が言う。
「有明橋が通れない。のぞみ橋へ迂回する」
目の前は交差点だ。信号は青。ブレーキ音がした。速度が落ちる。車体が傾き左折する。交差点を抜けた。そのとき、バイクがなにかを乗り越えバウンドした。桂子の腰に回していた美沙の手が離れる。急ブレーキがかかる。美沙は桂子の背中に押し付けられた。バイクが停まる。
「美沙、大丈夫? ちょっと面倒なことになるかも」
美沙は桂子の背中越しに前を見る。数十メートル先にショッピングセンターらしき建物があった。そこに人が群がっている。人波をかき分けて店内に入ろうとする者たち。両手に商品を抱えて去ろうとする者たち。そこから商品を奪う者もいる。桂子が言う。
「政府から発表があったのね」
暴徒のうちの数人がこちらを向いた。
「見つかった」
襲われる。美沙は恐怖に駆られた。
「つかまって!」
美沙は桂子にしがみつく。エンジンが唸る。急発進。暴徒の脇をすり抜ける。喚き声が追いかけてきた。だが、その距離は開いていった。
ビル街を抜けたバイクは埋立地へと渡る橋にさしかかった。見通しのきく場所に出たことで美沙の気持ちは落ち着いてゆく。
「どうしてわかったのかな……」
余裕のできた美沙は独り言のようにつぶやいた。桂子が訊き返してくる。
「なにが?」
美沙はどきりとした。
「どうしてわたしの――」
言いかけると桂子がかぶせるように訊き返す。
「考えていることがわかるのか?」
美沙は桂子の背中で首を縦に振る。すると桂子は言う。
「わたしも、あなたも、脳に電子回路が埋め込まれている。この電子回路にはバイタルサインをモニターする機能があってネットにも接続できる」
「それでわかるの?」
「あなたの状態や居場所を知ることは出来る。思考は読めないよ。それはわたしが勘で言っているだけ。お腹空いたでしょう? どう? 当たってる?」
美沙は思わず笑ってしまった。そう、これが桂子だ。この酷い状況でも場違いなほど余裕がある。美沙はつぶやく。
「変わってない」
「えっ?」
「姉さんは変わってない」
美沙は桂子の腰を抱く腕に力を込めた。
*
美沙と桂子の乗るバイクは高エネルギー素粒子物理学研究所に到着した。
研究所は埋め立て地に盛り土をした高台に建てられている。
スロープを登ったバイクは誰にとがめられることも無く研究所の敷地内に入り、正面玄関の車寄せに停車した。エンジンが止まる。桂子が言う。
「降りて」
美沙はバイクから降りてヘルメットを脱ぐ。桂子に手渡す。
玄関のドアを透かしてロビーが見えている。人の気配が無い。美沙は訊く。
「受け付けは……」
「もうそんなものはないの。所長がみんなを家に帰したから」
「どうして?」
「世界が終わるからよ」
「世界が……終わる……」
桂子が放ったただならぬ言葉に美沙の足が止まる。桂子が促す。
「いくよ」
桂子が施設の中に入っていく。美沙は慌ててその背中を追った。
前を行く桂子を追いかけて広くて明るい廊下を進んでゆくと、巨大な鉄扉に遭遇した。桂子がウェストポーチからカードを取り出し、傍らに設置されているセンサーにかざす。重い金属音が響いた。解錠されたらしい。モーター音とともに扉がスライドしてゆく。半分程開いて止まった。桂子が美沙に促す。
「入って」
美沙は足を踏み入れる。そこは天井の高い窓の無い部屋だった。中央には白い大きな筐体があり、その周辺に何台かのコンソールが見える。
「量子コンピューターよ」
美沙に続いて部屋に入った桂子が言った。
「扉は開けておく。閉じ込められるのは御免だから」
美沙は訊く。
「どうするの?」
「待つ」
「なにを?」
「世界が終わるのを」
地鳴りが聞こえてきた。研究所が揺れる。桂子が美沙の肩を抱く。
「地震よ。かなり強い。でもしばらくは大丈夫。ここは免震構造だから。多少の津波にも耐えられる」
警報が鳴った。
「放射線警報よ。高エネルギーの宇宙線を検知したのかも。地磁気が消失しつつあるのかもしれない」
照明が瞬く。
「大丈夫、自家発電があるから」
桂子の言葉は力強い。しかし美沙は不安になってきた。桂子が言う。
「この建物は強化された人工地盤の上に建てられている。そう簡単には倒壊しない」
突然、天井から人工音声が告げる。
「量子コンピューターが起動しました」
「!」
桂子が美沙から離れ、コンソールの一つに取りついた。キーボードを操作している。
「演算装置がフル稼働している。陽子崩壊の影響かも。美沙、あれを見て」
桂子が部屋で一番大きなディスプレイを指さす。そこにはワイヤーフレームで描かれた立方体が無数にあって、それぞれが三次元的に裏返ってゆく様が映し出されていた。
「なに……これ?」
「相転移よ」
「相転移?」
「ダークエネルギーの相転移が起きている。それを量子コンピューターがシミュレーションしている」
「ダークエネルギーって、あの記事の?」
「そうよ。相転移はこれまで何度も起きていた。だから宇宙の真の年齢がわからなかった。そして今、相転移はまた発生し、今度は陽子の寿命を書き換えている。陽子崩壊が幾何級数的に拡大を続けている」
美沙は悟った。陽子の崩壊は物質の崩壊だったからだ。
「だから……だから世界の終わりなのね……」
「ハイパーカミオカンデが四週間前から陽子崩壊をとらえ始めた。最初は一日当たり数個程度だった。今は数えきれない」
桂子がそこまで言ったとき、美沙の中で記者としての本能と、かつて学んだ理論物理学の知識が立ち上がってきた。美沙は問う。
「陽子崩壊では対消滅反応が起きるわ。強い放射線が出る。そんなものが数えきれないくらい起きたらわたしたちはとっくに死んでいる」
そんな美沙の問いにも桂子は丁寧に答える。
「まだそこまでの陽子崩壊は起きていない。マクロなスケールで見ると陽子崩壊の発生数はまだまだわずかでしかない。だから、それで物体が爆発したり、砂のように崩れたりはしない。でも、そのわずかな陽子崩壊による質量欠損でも、精密な装置なら故障する」
桂子の説明に、美沙の中である疑問が氷解した。
「そうか……そうなのね。陽子崩壊の発生数は質量に比例する。だから質量が大きく精密なものほど影響を受けやすい。工場、発電所、船舶、鉄道、そして航空機……」
「そうよ」
桂子が美沙の考えを肯定した。続けて言う。
「人間程度の質量の物体に影響が出るまでには時間がある。でもね、この宇宙は持って数日よ。わたしたちが生存できるのはあと数時間かもしれない」
美沙は思い当たる。
「それが……タイムリミットなのね……」
「あなたが松山空港で事故を目撃した時、すでにその計算はされていた。物理学者総出で。あなたと会えるのは今日が最後のチャンスだった。わたしたちは賭けに勝った」
確かに勝ったかもしれない。だが……
「わたしたち……これからどうなるの?」
「あなたはどうしたい?」
桂子のこれまでの説明が事実なら、自分たちに選択肢などない。なのに桂子は問うてくる。
「どうしたい?」
美沙には答えることができなかった。
*
不意に注視していたディスプレイが消えた。ブラックアウト。
天井から人工音声が言う。
「量子コンピューターがシャットダウンされました」
冷却ファンの音が室内に響く。
美沙は心の中で桂子の問いを反芻していた。
どうしたい?
世界が終わろうとしている今、自分はどうしたいのか。
美沙の心の中を様々な思いが去来する。その中で最も大きなものは、やはり十年前のあの事故のことだった。両親を奪い、自身と姉も大けがを負うに至ったあの事故のこと。美沙は目を伏せる。思いが溢れ出る。
「許して……」
「美沙?」
「わたしのせいでお父さんもお母さんも死んだ……」
「あなたのせいじゃない」
「わたしのせいよ……わたしが姉さんの……」
「腕をつかんだから?」
美沙は顔をあげる。
「そうよ!」
その声は叫びだった。桂子がなだめるように言う。
「それは違うわ。どのみち脚立はぶつかっていた。あなたのせいじゃ――」
「綺麗ごとを言わないで!」
美沙は桂子の言葉を遮った。その美沙に向けて桂子がこぼす。
「どうしたらわかってもらえるの……」
姉の困惑が伝わってくるようだった。それが美沙を苛立たせる。
「わかるわけないじゃない!」
美沙はかぶりを振る。両手を握りしめ、目を閉じてうつむく。
「美沙……」
それっきり、二人の間を沈黙が支配した。
時折揺れる床も、間欠的に鳴り響く警報音も、その沈黙を破ることはできなかった。それらの振動や音は、美沙には届かなかったからだ。
だが、そんな沈黙の中でも、美沙に届いたものがある。それはすすり泣きの声だった。
この声を、わたしは一度だけ聞いたことがある。美沙は目を開き、顔を上げる。
目の前に姉の姿があった。両頬を涙が伝っている。
苦しんでいる。美沙にはそう見えた。そんな桂子の口から言葉が漏れる。
「どうして……どうしてなの……許してほしいのは……わたしの方なのに!」
最後は叫びになった。肩を震わせて桂子は続ける。
「わたしが連れ出さなければ事故は起きなかった。だから……ずっと、ずっと許されたいと思ってた。なのに……」
予想外の姉の姿だった。驚いた美沙は記憶をたどる。
気の向くままに美沙を振り回した事故前の姉。
塞いでいた美沙を強引に見舞う事故後の姉。
そして疎遠になった姉。
陽気な姉。強い姉。遠い姉。
でも、弱い姉は今まで見たことがなかった。
美沙は気づく。
許されたいからこそ、塞いでいる美沙に対して強引になったのだ。
許されないからこそ、美沙から遠く離れたのだ。
あの陽気だった姉が。
そうだったのか。姉さんも許されたかったのか。それがわからなかった。世界が終わる、今の今になるまで。
美沙は桂子を抱きしめた。こんなことは初めてだった。でも、今はそうしたいと思った。桂子も抱きしめ返してくる。美沙は言う。
「外の……空気でも吸わない?」
二人は研究所の外に出た。陽が暮れつつあった。あちこちでサイレンが鳴っている。対岸の羽田空港には黒煙が見えた。そんな風景だったが、開けた視界が美沙の心を落ち着かせてゆく。
「美沙」
「なに?」
「……怖いよね?」
「うん……」
でも怖くない。
「ごめん……」
「あやまらないで」
もう一人じゃないから。
「美沙」
「なに?」
「ずっと美沙を見てた」
「え?」
「わたしたちに埋め込まれている電子回路で」
「あれで?」
「美沙のバイタルをずっと見てた」
そうか、そうだったのか。美沙が感じていた誰かとつながったようなあの感覚、あれは思い込みじゃなかったのだ。確かに今、わたしと姉さんはつながっている。美沙はそう感じる。桂子はさらに言う。
「頭痛を感じるでしょう?」
「うん」
「わたしもよ」
「なぜなの?」
「電子回路が陽子崩壊に反応しているのかも」
「ほんとう?」
「勘よ」
「勘ね」
美沙の緊張がゆるんだ。桂子が言う。
「美沙」
「なに?」
「バイクで走らない?」
「いいよ」
美沙と桂子は正面玄関の車寄せまで戻ってきた。バイクは何事も無くそこにあった。桂子がバイクからヘルメットを取り上げて美沙に渡す。美沙はそれを被り、タンデムシートに座る。前に座る桂子がエンジンをかける。
「東京ゲートブリッジに行くわ。あそこからならきれいな夕陽が見えると思う。見たい?」
「見たい」
「じゃあいくよ」
「うん」
エンジンが唸る。急加速。研究所の門を出る。車体が傾き、減速せずに臨海道路入り口へのカーブを曲がる。ここに来たときよりも運転が派手だ。美沙はエンジン音に負けじと叫ぶ。
「怖い!」
「大丈夫!」
本線に合流した。誰もいない。無人の大型トレーラーがそこかしこに停まっている。燃えているものもあった。そんな中を、バイクは疾走してゆく。美沙は必死にしがみつく。桂子が訊いてくる。
「怖い?」
「大丈夫!」
道路の継目を通るたびにバイクが跳ねる。肝心の夕陽は後ろ側で見えない。桂子が言う。
「夕日は反対側で見えない!」
美沙は爽快な気分だった。だからそう答える。
「でも気持ちいい!」
そのまましばらく走ると高度が上がってゆく。東京ゲートブリッジだ。視点が高い。湾岸を一望できる。幾つものサイレンが聞こえ、あちこちに煙が見える。
美沙は桂子の背中にもたれかかる。桂子が訊いてくる。
「どうしたの?」
「なんでもない」
バイクが加速する。桂子が走行音を圧倒するように叫ぶ。
「この間からずっと考えていたことがあるの!」
美沙も大声で返す。
「なに?」
「世界の終わりにあなたといたかった!」
陽が落ちた。薄暮の空にオーロラが輝いている。
二人の乗るバイクは、世界の終わりを疾駆して行った。
了




