第82話 〜残る光〜
アルマー渓谷の測量を終えて部屋へ戻ったあと、ルーソルは鏡の前に立っていた。
フィーラから血を譲り受けるのも、これで五度目になる。
最初の頃は、城へ戻る前には消えていた。
身体の軽さも、冴えすぎるほどの感覚も、時間が経てば元へ戻った。
けれど、回数を重ねるごとに残る時間が少しずつ延びている。
今日は、城へ戻ってからもう一時間以上経っていた。
それでもまだ、身体の奥にはあの感覚が残っている。
寒さへの耐性。
感覚の鋭敏さ。
高所でもぶれない平衡感覚。
それだけではない。
地形の線が、以前より速く頭の中で繋がる。
風向きと尾根の形が、ほとんど一つの情報として入ってくる。
地上からでは拾えない小さな起伏まで、紙の上へ落とせる。
便利だった。
正直に言えば、驚くほど。
アルマー渓谷の涸沢も、国境沿いの尾根も、隣接領との曖昧な境界も、この力がなければ、ここまで短い期間で形にはならなかっただろう。
ルーソルは鏡の中の自分を見た。
見た目は、ほとんど変わっていない。
髪も。
顔つきも。
ただ、灯りの加減によっては、瞳の奥が普段よりわずかに明るく見えることがあった。
そして最近、フィーラの姿をよく目で追うようになった。
声がすれば、自然とそちらを拾う。
少し離れていても、どこにいるのか気づくことがある。
会えば、妙に落ち着く。
それが血を受けている時だけなのかは、自分でもよく分からなかった。
ルーソルは鏡から視線を外した。
机の上には、今日持ち帰った測量図が広げられている。
渓谷。
尾根。
街道候補。
境界線。
その先には、これから造る国境門がある。
フィーラから借りた力で見えるものを、地図へ落とす。
道を通す。
境を定める。
人と物が動けるようにする。
それは全部、エルドウルフが目指している国の形へ繋がっていた。
ルーソルは椅子へ腰を下ろし、測量図を引き寄せる。
まだ力は残っている。
なら、消える前に使えばいい。
そう思って、紙へ線を引いた。
気になることがないわけではない。
力が切れたあとは、決まって強い疲労が残る。
身体が重くなり、眠気がくる。
冴えていた感覚も、時間とともに元へ戻っていく。
ただ、その時間は以前より長くなっていた。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ルーソルは測量図へ目を戻した。
アルマー渓谷。
国境。
これから造る門。
どれも、以前より確かな線になっている。
フィーラから与えられた力を、人の世界のために使う。
それは、最初に決めたことと何も変わらない。
エルドウルフは、まだ先へ進む。
なら、自分もついていく。
使えるものなら、使う。
今は、それでよかった。
◇◇◇
数時間前、アルマー渓谷上空。
ルーソルは地上へ視線を落とした。
しばらく黙って見ていたが、やがて眉を寄せる。
「……違うね」
「なにが?」
「ここだけ、周りと違う」
連なる山脈の中で、アルマー渓谷だけが不自然に持ち上がっている。
峰が続いているのではない。
巨大な地面そのものが、下から押し上げられたように隆起していた。
しかも、周囲の山とは岩の色も層の向きも違う。
上から見ると、それがよく分かる。
山脈の途中に、まるで別の土地を一つ置いたようだった。
「前から、こんな地形だとは思ってたけど」
ルーソルは観測板へ目を落とし、もう一度地上を見る。
「空から見ると、もっと変だね」
「へん?」
「うん」
少し考える。
「ここだけ、何かが起きたあとみたいだ」
フィーラは答えず、下を見た。
乾いた沢が、隆起した台地の中央を裂くように何筋も走っている。
途中で途切れるもの。
岩壁に塞がれているもの。
崩落した斜面の下へ消えるもの。
その中で、軍や荷車が通れるのは一筋だけだった。
門を置くなら、最初に考えていた場所ではない。
あそこでは狭すぎる。
運び上げた部材が詰まるうえ、組み上げるための場所も足りない。支柱を立てられる岩盤はあるが、その手前で荷車が曲がり切れなかった。
「……そこじゃないな」
「もっと手前?」
「いや。もう少し奥」
ルーソルは涸れ沢の先を目で追った。
「左右の壁が近くて、沢底はある程度広い。でも、広すぎない場所がいい」
フィーラはきょろ、と辺りを見回した。
「あの尾根と、おなじ高さでいい?」
「うん。それで合ってる。この前と同じ位置で止まってくれる?」
「できるよ」
答えに迷いはなかった。
移動の間は手を繋ぐ。
作業に入れば、フィーラが背後から肩に手を置く。
三度、四度と繰り返すうち、それが一番ぶれない形になっていた。
ルーソルは、もう一度地上へ視線を落とした。
石の標点。
沢の折れ。
尾根の肩。
古い道筋。
百の石標は、最初こそ多すぎると思った。
だが、こうして上から見ると意味がある。
地上で測った点。
山頂に打った目印。
空から見える沢の線。
それぞれ別に拾っていたものが、ようやく一枚の地図の上で繋がっていく。
門は完成品を運ぶわけじゃない。
支柱、横梁、落とす板、金具。全部ばらして川で近くまで運び、そこから荷車で上げ、最後は現場で組み上げる。
現地では、エルドウルフの力も使う。
だからこそ、どこを削り、どこを残し、どこまで荷車を入れるか、最初から一つも間違えられない。
そのための地図だった。
ルーソルは紙の上に引いた線を見下ろした。
ここまでは取れた。
だが、まだ足りない。
涸沢の奥が曖昧だった。
曲がり方は見える。けれど、どこで細くなり、どこで荷車が詰まるのか、その決め手だけが拾いきれない。
「……もう少しだね」
ぼそりと漏らした、その時だった。
風が変わり、指先の感覚が鈍る。
高度が少し上がって、空気が冷えているのだ。
ルーソルは指先を擦り合わせた。
吐く息が白い。
背後から、フィーラの声がした。
「ルーソル、寒そう」
「少しね」
「じゃあ、あげる」
わずかに得意げな声だった。
そのやりとりも、これで五度目になる。
最初の頃にあった戸惑いは、もうほとんどなかった。
肩に置かれていた手が離れる。
フィーラが前へ回り込むと、ルーソルも自然に観測板を片手で胸へ押さえた。
額が近づく。
いつの間にか、その距離にも慣れていた。
ルーソルは目を閉じる。
呼吸が重なる。
次の瞬間、温かいものが口の中へ流れ込んできた。
甘い。
何度受け取っても、何に似ているのか分からない。
血の味ではない。蜜でも、果実でも、砂糖でもない。
口に触れた瞬間、味は消える。
代わりに、冷えた身体の中で、何かが正しい場所へ戻るような感覚だけが残った。
谷の曲がり。
乾いた沢の落ち口。
崩れやすい壁。
荷車が一列で通れる幅。
支柱を立てるべき岩盤。
さっきまで曖昧だった線が、一つずつ定まっていく。
「……ああ」
「見える?」
フィーラが覗き込んでくる。
期待を隠さない目だった。
ルーソルは少し黙ってから、苦笑に近い息を漏らす。
「うん。見える」
「ほんと?」
「かなりね」
観測板を持ち直し、地上へ視線を戻す。
紙の上へ、一気に線を落とす。
涸沢は、想定より深く、二度曲がっていた。
ハンサンからの報告だけでは真っ直ぐに処理されていた線が、ようやく嘘をつかない形になる。
さらに一本。
荷車を通せる幅。
支柱を立てる岩盤。
組み立てのために残すべき平地。
必要な場所だけが、紙の上に静かに定まっていく。
「……助かってるよ、フィーラさま」
その一言で、フィーラの顔がぱっと明るくなった。
「役に立った?」
「役に立った。今日は特にね」
「すごい?」
「そうだね。さっきの高さ、ほとんど動いてなかった。あれはすごいよ」
「えらい?」
「はは、えらい。とても」
フィーラは満足そうに頷いた。
本当にただ、役に立てて嬉しいだけなのだと分かる顔だった。
ルーソルはもう一度、観測板へ目を落とした。
この力がなければ、アルマーの涸沢はここまで正確に拾えなかった。
エルドウルフが力を使う場所も、荷車を通す線も、支柱を立てる岩盤も、まだ曖昧なままだったはずだ。
必要なのだ。
そのことに迷いはない。
ルーソルは指先を握って、開いた。
まだ、よく見える。
「……便利すぎるね」
ぼそりと漏らす。
「うん?」
フィーラがすぐ拾う。
ルーソルは観測板から目を離さず、小さく肩を竦めた。
「ううん、こっちの話」
「でも、見えたでしょ?」
「うん。よく見えた」
「じゃあ、よかった」
あっさりした返事だった。
少しも疑わない。少しも疑われていない。
ルーソルは一瞬だけ空を仰いだ。
こういうところが、この人は本当にずるい。
悪気もなく、ためらいもなく、必要なものをそのまま差し出してくる。
「……また、頼むかも」
フィーラが、少し不思議そうに瞬きをした。
「まえも、そう言ったよ?」
ルーソルは一瞬黙って、それから笑った。
「そうだったね」
「なんかいでも、いいよ」
前と同じ答えだった。
「うん。ありがとう」
フィーラは満足そうに頷く。
「だって、わたし、役に立つもん」
そう言って、えへんと小さく胸を張った。
ルーソルはとうとう吹き出した。
「そうだね。本当に助かった」
「できた?」
「これで使える」
「ちゃんと谷?」
「ちゃんと、って。ははは。見てみる?」
フィーラは後ろから紙を覗き込み、満足そうに頷いた。
「きれい」
「地図にそういう感想を言う人、あまりいないな」
「でも、きれいだよ?」
「……まあ、そうかもしれない」
ルーソルは紙を押さえたまま、もう一度だけ谷を見下ろした。
これで、どこを削り、どこを残し、どこに門を立てればいいかが決まる。
限りある神力を、無駄なく、一番必要な場所に落とせる。
兵を余計に死なせないために。
戦を起こさせないために。
そのために使うと、もう決めている。
「帰ろうか、フィーラさま」
「うん」
フィーラはまた横に移り、手を繋いだ。
高度が安定する。
風が変わる。
アルマー渓谷は、紙の上でようやく一つの形になった。
そのために借りた光は、まだルーソルの中に残っていた。
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