第80話(2)神話異聞
食堂へ向かうには、自室のある二階から階段を下り、長い廊下を一つ抜ける。
ヴェルカ家の屋敷は、領都に構える貴族の邸宅としては十分に広い。
家族の居室のほかに、客室や執務室、使用人たちの区画もある。
それでも、クワルノー城で過ごす時間が長くなった今では、自室から食堂までの距離さえ妙に短く感じた。
食堂へ入ると、すでに夕食の支度が整っていた。
十人ほどがゆったり座れる長卓。
磨かれた天板の上には、銀の燭台が三つ並んでいる。
天井から下がる小ぶりのシャンデリアが二基。
夕暮れにはまだ少し早いが、室内はすでに灯りが入れられていた。
壁際には、食器を収めた濃い木目の飾り棚。
その上には銀器や陶器が並び、正面の壁には先々代のヴェルカ当主夫妻の肖像画が掛かっている。
派手さを競う部屋ではない。
だが、居心地の良い落ち着いた食堂だった。
長い卓の片側にいたアレクシアが、ゴディエの姿を見るなり立ち上がる。
淡い栗色の髪に、ヘーゼルの瞳。
目を引くような派手な美貌ではない。
だが、視線を向ければ自然ともう一度見てしまう。
整った目元と、よく通る声。
何より、そこにいるだけで場を収めるような気配があった。
夫がエルドウルフの腹心として政務に追われる間、アレクシアは当主代理としてヴェルカ家を切り盛りしている。
そのアレクシアが、まず夫の顔を見た。
次に、頭から足元までざっと確かめる。
「お帰りなさいませ、あなた」
「ああ」
「……お怪我は?」
「ない」
そこでようやく、アレクシアの表情が少し和らいだ。
向かいには、二人の息子がいた。
八歳のアルノーと、六歳のジル。
二人とも父親譲りの、蜂蜜色をくすませたような金茶の髪。
瞳は母親と同じヘーゼルだった。
二人とも利発で、よく喋り、よく笑う。
そして年相応に、元気だった。
父の姿を見た瞬間、揃って目を丸くする。
「父上!」
「はやい!」
その次には、もう椅子から身を乗り出していた。
「父上、今日ね!」
「僕も! 今日ね!」
「ジル、僕が先だよ」
「僕も話す!」
ゴディエは思わず口元を緩めた。
最近は、帰る頃には二人とも眠っている日が多かった。
朝食だけはなるべく一緒に取るようにしているが、それすら叶わない朝もある。
寝顔を見て、額に口づける。
それだけで一日が終わることも珍しくない。
アレクシアが二人を見て、それからゴディエへ視線を戻した。
「先ほどから、ずっとこの調子なのです」
「そうか」
「ですから、今日はクワルノー城が崩れたのかと思いました」
「崩れていない。王都も沈んでいない」
答えると、アレクシアの口元がわずかにゆるんだ。
「それは何よりです」
そう言って、自分の席へ戻る。
「では、座ってくださいな。今日の授業の話をしたくて、二人とも待ちきれないようですから」
「分かった」
ゴディエが席へ向かう。
「順番に話せ」
「はい!」
「僕から!」
「僕が先でしょ!」
騒がしくなり始めた食卓を前に、ゴディエはようやく腰を下ろした。
ベルトが軽く手を上げる。
壁際に控えていた二人のフットマンが動き、すぐにゴディエの前へ皿が置かれた。
鶏と根菜を煮込んだ澄んだスープ。
卓の中央には焼きたてのパン、白豆と玉葱の煮込み、香草を添えた仔牛肉、それに人参と蕪の温野菜が並んでいる。
豪奢な晩餐ではない。
家族で食べる、いつもの夕食だった。
「父上、今日ね、ミシェル先生が闘神の話をしてくれた!」
アルノーが待ちきれないように言った。
すぐにジルも身を乗り出す。
「シュバリエの前の国、二回も闘神さまに助けられたんだって!」
「ジル、それは僕が言おうと思ってたのに」
「だって、そこがすごかったんだもん」
ゴディエはスープの湯気を見ながら頷いた。
「ほう。そこまで進んだか」
「聖教会の歴史のお勉強ですって」
アレクシアが言う。
「今日はずいぶん盛り上がっておりましたよ。食堂まで聞こえてきましたもの」
「ミシェルは教えるのが上手いからな」
ゴディエはパンを取り、二つに割った。
「難しい話でも、子どもが聞きたくなるように話す」
「ミシェル先生のお兄様も、父上と同じお城にいるんだよね?」
アルノーが尋ねた。
「ああ。双子の兄のイザークだ。南館で、殿下付きの執事をしている」
ゴディエがスープへ匙を入れる。
「何をやらせても、そつなくこなす男だ」
「それでは、弟君も負けてはいられませんわね」
アレクシアがくすりと笑った。
「昔から、あの二人はそういうところがある。あれを兄に持てば、ミシェルも手は抜けんだろう」
給仕を手伝っていたマルグリッドが、感心したように息をつく。
「まあ。さすがゲラン家ですこと」
その横で、ジルが温野菜の皿から人参だけを器用に避けている。
「ジル」
アレクシアの声が飛んだ。
小さな手が止まる。
「……はい」
「人参」
「あとで食べるよ」
「今でも食べられます」
ジルは助けを求めるように父を見る。
「父上」
「俺を見るな」
「父上も人参、好きじゃないでしょ?」
「好き嫌いの話ではない」
「では、お食べになりますよね?」
アレクシアが穏やかに言った。
ゴディエは無言で人参を一つ口へ運んだ。
アルノーが笑い、ジルが観念したように自分の人参へ匙を伸ばす。
「闘神さまって、昔の絵にも残ってるんだって!」
人参を食べ終えた途端、ジルはもう次の話へ移っていた。
「闘神さま、青空と同じ髪の色なんだって」
アルノーが言った。
「白い羽なんだよね」
ジルも続く。
「すごく綺麗な女神さまだって、ミシェル先生が言ってた」
ゴディエは、何も言わなかった。
青い髪。
白い羽。
そこまでは、間違っていない。
だが、彼の知るその少女は――。
「ミシェル先生がね、古い聖堂には壁掛けとか刺繍にも描かれてるって言ってた」
ジルがまた匙を持ち上げる。
「食事中に振らないの」
アレクシアに言われ、素直に手を下ろした。
その間に、フットマンが空になったスープ皿を下げる。
次に運ばれてきた仔牛肉から、香草と焼けた脂の匂いが立った。
アルノーがそこで、母の顔を見る。
「母上の刺繍の会でも、神さまを縫ったりするの?」
「神さまを?」
アレクシアが少し考える。
「あまりありませんわね。花や鳥、それに季節の模様が多いかしら」
「じゃあ、何のお話をするの?」
「いろいろですよ」
アレクシアは笑った。
「最近なら、フィーラ様のお話がよく出ます」
「フィーラ様?」
「殿下のご保護下にある姫君ですよ」
アレクシアは答える。
「母上も、フィーラ様に会ったことがあるの?」
ジルが尋ねる。
「ええ。ストラス邸の刺繍の会で、ご一緒することがあるのです。ストラス夫人が場を開いてくださっておりますから」
マルグリッドが新しい皿を置きながら笑った。
「フィーラ様が、今日は誰と何をした、誰が何を言ったと、城でのことをたくさんお話しくださるのです」
「それで、フィーラ様のお話をしていたはずが、いつの間にか腹心の皆さまのお話になってしまうのですわね」
「最後には、どなたが最初に花嫁をお迎えになるのか、ですものね」
「そこへ行き着きますのよね」
アレクシアも笑った。
マルグリッドがパン籠を持って卓を回る。
「フーガ様もアンリ様も、もうよいお年ですし」
「アンリ様は……」
そこで少し考えた。
「騎士団の方々からの人気が、少し違う方向に強すぎますわね」
「人気というより信仰だな」
ゴディエが言った。
アレクシアが笑う。
「分かりますわ。アンリ様のお名前を出すと、騎士の皆様だけ急に目つきが変わりますもの」
「それに比べると、フーガ様はずいぶん華やかですのに」
「遊んでいそうには見えるな」
「でしょう?」
マルグリッドがすぐ乗る。
「でも、不思議なくらい本命のお話は出ませんのよね」
「本人が隠すのが上手いのか、本当にないのか」
ゴディエは仔牛肉を切り分けながら言った。
「そこは俺も知らん」
「まあ。では、やはり今一番人気なのはルーソルディア様ですわね!」
「ルーソル様、そんなに人気なの?」
アルノーが聞いた。
「大人気ですとも」
マルグリッドは嬉しそうにパン籠を持ち上げた。
「お若くて、お優しくて、気が利いて、お顔立ちも美しくて。しかもロワール家ですもの」
「人気だな」
ゴディエも頷く。
「人当たりがいい。あの三人の中では、一番近づきやすいんだろう」
「王都では、ルーソルディア様がお出ましになると分かった舞踏会は、若いご令嬢方の出席が目に見えて増えるそうですわ」
アレクシアが付け加える。
「それで、仕立屋も大変なのでしょう?」
「ええ」
マルグリッドが楽しそうに頷いた。
「少し大きな舞踏会になりますと、リノンの人気のブティックは予約が取れなくなるとか。皆様、少しでも素敵なお姿でお会いしたいのでしょうね」
「ルーソル様が来るだけで?」
ジルが目を丸くする。
「来るだけで、です」
マルグリッドはきっぱり言った。
「大変だな」
ゴディエは仔牛肉を切り分けた。
「何がでございます?」
「男が一人、舞踏会へ顔を出すだけで、街のブティックが埋まるんだろう」
「ルーソル様ですから」
間を置かずに返される。
「……そうか」
ゴディエは切り分けた肉を口へ運んだ。
「本人は、たぶん何も考えていないぞ」
「そこも人気の理由なのでは?」
アレクシアが笑う。
「じゃあ殿下は?」
ジルが素朴に尋ねた。
アレクシアとマルグリッドが、ほんの一瞬だけ顔を見合わせる。
「殿下は……」
アレクシアがナプキンで口元を押さえた。
「美しすぎますし、近寄りがたいのです」
「ええ」
マルグリッドが即座に頷く。
「お声をかけようと思った途端、皆様、何をお話しするつもりだったかお忘れになるのですわ」
「忘れちゃうの?」
ジルが首を傾げる。
「お妃になりたいと願う前に、皆様まず、近づくことまで考えられなくなるのです」
アレクシアが真面目な顔で言った。
「それじゃあ殿下は、舞踏会では誰と踊ってるの?」
アルノーが尋ねた。
「従姉のストラス夫人か、ネレア様くらいですわね」
「……それだけ?」
「それだけです。そもそも、殿下が踊られること自体、珍しいのです」
「ですが、踊っていただけなくてもよろしいのです」
マルグリッドが、待っていたように口を挟んだ。
「殿下は、舞踏会では観賞用でございますから」
「マルグリッド」
「美術品と同じです。近くへ寄れずとも、眺めているだけで心が満たされます」
ゴディエは思わず吹き出しかけ、咳払いでごまかした。
息子たちは、何がおかしいのか分からないまま、つられて笑った。
笑いがひとしきり落ち着いたところで、アルノーが話を戻した。
「それでね。闘神さまは、この国を二回助けてくれたんでしょう? 本当に人の世界へ降りてきたの?」
ゴディエは、ちぎりかけていたパンを皿へ戻した。
「そう伝えられている」
「伝えられてる?」
「昔のことだからな。今残っているのは、当時の記録と、それを後の人間がまとめたものだ」
少し考えてから続ける。
「ただ、二度の戦で、人の力だけでは説明しにくいことが起きた。それを当時の人々が闘神の御業だと考えたのは確かだろう」
「だから、シュバリエでは闘神さまが特別なの?」
「それも理由の一つだ」
「王家と聖教会が、闘神を特別にお祀りする理由でもありますわね」
アレクシアが穏やかに言った。
「きっと、二度も救ってくださったのでしょう」
ジルが嬉しそうに頷く。
アレクシアはパンを小さくちぎった。
「でも――」
何でもないことのように続ける。
「二度とも、本当にこちらを救おうとなさったのかしら」
「え?」
アルノーとジルが揃って母を見る。
「一度は、そうだったのかもしれません。でも、もう一度は」
アレクシアは少し考えた。
「相手の国が、闘神様のお怒りを買っただけ、ということもありませんか?」
「シュバリエを助けたんじゃなくて?」
「結果として、こちらが助かったってこと?」
アレクシアは頷いた。
「敵を退けてくださった。それをこちら側から見れば、“闘神様が国を救ってくださった”というお話になりますもの」
「ミシェル先生、そんなこと言ってなかった」
ジルが少し不満そうに言う。
「ミシェル先生は、まず伝わっている歴史を教えてくださったのでしょう」
アレクシアは笑った。
「でも、物事は見る場所が変われば、少し違って見えるものですよ」
そして夫へ視線を向ける。
「ねえ、あなた」
ゴディエはすぐには答えなかった。
妻は、ただ歴史の見方を話しただけだ。
それなのに、妙に引っかかった。
ゴディエは、この話をただの神話として聞いているわけではない。
フィーラが。
あの少女が、闘神フェギスノーラその人だと知っている。
ハンサンで神力を振るい、ミッドガロンの軍勢を退けたことも知っている。
それでも。
夕食のあと、南館のサロンで顔を合わせることは多い。
文字を覚えるために絵本を読み、小説を読み、分からない言葉があれば尋ねてくる。
街の子どもたちに読み書きを教えたいのだと、どんな本を選べばいいのか、どう教えればいいのかと相談してきたのもフィーラだった。
刺繍の会では真面目に針を持ち、ときには指を刺しながら、それでも少しずつ上達しているのだと、アレクシアから聞いている。
青い髪。
白い羽。
聖堂に描かれた闘神と、同じ特徴を持つ少女。
国を救ったと伝えられる神。
そのどちらも、同じ存在なのだ。
事実だと知っている。
それでもゴディエには、まだどうしても一つの姿にはならなかった。
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