第79話(1) 城下奇譚
ゴディエが帰宅した時、まだ陽は高かった。
昨日、エルドウルフは朝からラクトゥへ向かい、夜になって帰ってきた。
戻った直後に夜半まで会議。
そして今日も、朝からその続きだった。
アルマー渓谷に門を作る――その方針自体は、以前から決まっている。
鉄の落とし門。
高さ二十メートル。
設計を起こし、職人を集め、資材を確保する。
あれだけのものを谷へ運ぶとなれば、運搬路の整備も必要になる。
春から、ニカ領ラクトゥとの交渉に向けた段取りを進めていた。
まずは商会を通す。
そこから紹介を取り、段階を踏んで領主へ話を上げる。
時間はかかる。
だが、それが一番確実だった。
だから、そのための道筋を作っていた。
エルドウルフがラクトゥへ行くと聞いた時も、ゴディエはその件だとは思っていなかった。
フーガが進めている、ハンサンの重鎮と軍部との密談。
そこへ自分も出る。
聞いていたのは、それだけだ。
――それをあいつは!
密談のついでに、本丸へ乗り込んだ。
サリム・ド・ニカ本人と会い、門の話までまとめて帰ってきた。
それだけではなかった。
サリムから、商売を教わることになったという。
商会も一つ預かる。
在庫も馬も船も、こちらで買い取る。
必要な金と書類を用意するよう、ジョフロアへ指示まで出した。
昨夜、その話を聞いた時は、さすがに言葉が出なかった。
クワルノーの人口は増え続けている。
それに合わせて、商人も店も増えた。
だが、人が増えれば、それだけで街が豊かになるわけではない。
物流も、倉庫も、商人同士の取り決めも、金の流れも。このままでは、街の膨らみに仕組みが追いつかなくなる。
それはゴディエも、以前から危惧していた。
いずれ、商いを知る者の手を借りる必要がある。
そう思っていた。
だが、まさかサリム・ド・ニカ本人から教えを受ける話までつけてくるとは思わなかった。
しかも、たった一日で。
あの男は、王太子派でも親王家でもない。
王家に媚びる必要もなく、ラクトゥを自分の力で回してきた領主だ。
そこから門を引き出し、商売の教授を取りつけ、商会まで借りて帰ってきた。
とんでもないことだ。
……だからこそ、余計に頭が痛い。
どうして、こういう成果を持ち帰る時に限って、自分の身を危険に晒すのか。
もう少し普通にできないのか、あいつは。
だが昨夜のエルドウルフは、いつもと少し違っていた。
会議での判断は速かった。
迷いもなく、報告を聞けばすぐ次の指示を出す。
それなのに、呼吸だけが浅い。
右耳の縁と、その下の首筋には切り傷があった。
血を拭った跡が残り、耳の傷からはまだ血が滲んでいた。
襟元にも、小さな染みができている。
立ち上がる時には動きが鈍る。
脇腹を庇うような仕草も、一度だけ見えた。
聞こうとすると、その前に次の議題へ移る。
戦場から戻った時とも違った。
戦場にいる時の方が、まだ余裕がある。
昨夜は、身体よりも何か別のものを無理に押さえ込んでいるように見えた。
今朝には、昨夜よりいくらか落ち着いていた。
顔色はまだよくない。
深く息を吸えば、眉がわずかに動く。
それでも、報告を聞く余裕はある。
誰かの言葉を遮ることもなく、必要な判断を一つずつ下していた。
何かがあったのは間違いない。
アンリが、ぽつりと言っていた。
姫さまが泣いていた、と。
理由は聞かなかった。
聞くべきでもない。
二人の間で何かが起きたのだろう。
だから昨夜は言えなかった。
――命を無駄にするな、と。
月に一度は休め。
その制度をエルドウルフが決めたのは、三日前だ。
明日がたまたま自分の番になっただけだった。
それでも。
こんな時に、自分が休むのかとは思う。
◇◇
「まあ、旦那様」
屋敷の前で馬を降りたゴディエを見て、侍女マルグリッドが目を丸くした。
先に出ていた執事長のベルトが、いつもの落ち着いた様子で一礼する。
「お帰りなさいませ。本日はずいぶんとお早いお戻りで」
「何かお怪我でも?」
マルグリッドが横から顔を覗き込んだ。
「ない」
ゴディエは手綱を従僕へ渡した。
「では、とうとう城が燃えました?」
「燃えていない」
今度は鞄をベルトへ預ける。
「王都も沈んでいない」
「では、なぜ?」
「殿下に、もう帰れという顔をされた」
会議がひと区切りついても、ゴディエは次の書類へ手を伸ばした。明日は休みの順番だ。今日のうちに、できるだけ片づけておくつもりだった。
だが、エルドウルフの鋭い一瞥に手が止まる。すぐさまエランが書類を引き取り、残りの仕事を自分の側へ寄せた。
反論しかけたものの、会議室の空気がそれを許さなかった。結局、仕事を残したまま席を立つことになった。
ゴディエは玄関をくぐりながら外套の留め具を外した。
「明日は休め、ともな」
「旦那様が、お休みを?」
ベルトが外套を受け取る。
「そうだ」
「一日?」
「一日だ」
「丸一日ですの?」
「……そう言っている」
マルグリッドが両手を胸元で合わせた。
「まあ。殿下がお休みをくださったのですね!」
「俺だけじゃない」
廊下を歩きながら、ゴディエは答えた。
「月に一度は休め、と。今後は制度にするそうだ。順番に休ませる」
ベルトが静かに頷く。
「ようやく人の世に追いつかれましたな」
「誰がだ」
「旦那様方が、です」
「そこは殿下ではないのか」
「殿下も含めてでございます」
即答された。
ゴディエは何も言わず、二階の自室へ向かう。
その後ろを、なぜかマルグリッドまでついてきた。
「ですが、お優しいですわねえ」
「誰が」
「殿下です」
「制度だと言っただろう」
「それでも、ご自分はあれほどお忙しいのに、周りには休めと仰るのでしょう?」
「全員が倒れたら仕事にならないからだ」
「まあ。そこまでお考えになって」
「……美談にするな」
自室の前まで来たところで、ベルトが扉を開いた。
「マルグリッド」
「はい?」
「旦那様はお召し替えになります」
「存じております」
「では」
「こちらでお待ちしております」
ゴディエはため息をついて部屋へ入った。
上着を脱ぎ、靴を替える。
用意された湯で手と顔を清め、足も洗った。
新しい靴下へ履き替え、室内着に袖を通す。
フットマンに襟元を整えられながら、ゴディエは扉の向こうから聞こえてくるマルグリッドの声を聞いていた。
「でも本当に、街も変わりましたものねえ」
まだ喋っている。
ゴディエは目を閉じた。
部屋を出ると、案の定マルグリッドは廊下にいた。
「……まだいたのか」
「お話の途中でしたので」
「何の話だった」
「殿下のお話です」
「聞かなければよかった」
マルグリッドは気にした様子もなく、ゴディエと並んで食堂へ向かう。
「第二城壁の内側も、ずいぶん空き地が減りましたでしょう?」
「そうだな」
「お店も増えました。市場も前よりずっと賑やかですし」
「人が増えたからな」
「アザンクールまで行かなくても手に入るものが増えましたもの。布も靴も。それに、ブティックも何軒かできましたでしょう?」
「宝石商も増えましたな」
少し後ろを歩くベルトが言った。
「まだ数軒ですが」
「ほら」
マルグリッドが嬉しそうに振り返る。
「やはり殿下のお力ですわね!」
「なぜそうなる」
「殿下がいらしてからですもの」
マルグリッドは迷いなく言った。
ベルトが、そこで小さく咳払いをした。
「マルグリッド」
「はい?」
「何もかも、殿下がお越しになってから始まったわけではありませんよ」
マルグリッドが振り返る。
「ですが、今ほど街が――」
「それはそうでしょう」
ベルトは穏やかに頷いた。
「ですが、今のクワルノーの土台を整えてきたのは、ここ十年、この地を預かってきたヴェルカ家とストラス家です」
ゴディエは何も言わなかった。
王家の保養地。
その南北にあった二つの領地。
本来は別々だった土地を、ミレーヌ第二王妃が少しずつエルドウルフの名のもとへ集めてきた。
その管理を任されたのが、ヴェルカ家とストラス家だった。
「旧ブーシエ領では、先代伯爵が王都へ続く道ばかりを整えておりましたからね。大旦那様方は、三つの土地を一つとして動かせるよう、道を見直し、土地を調べ、人を置いてこられたのです」
ベルトは続ける。
「殿下が三月にこちらへお越しになって、確かに街の動きは大きく変わりました。ですが、何もないところへ突然、街が生まれたわけではありません」
「……なるほど」
マルグリッドが少しだけ神妙な顔になる。
「大旦那様や、ストラス家の皆様が準備してくださっていたから」
「ええ」
ベルトが頷く。
「その上で、殿下が今までとは違う方向を示されたのでしょう」
マルグリッドはすぐに顔を明るくした。
「では、やはり皆さまで作っているのですね!」
「そういうことです」
「貴族も平民も、手を携えて――」
「そこまで美しくはない」
ゴディエがすぐに遮った。
マルグリッドが目を瞬く。
「まあ」
「土地の値でも揉めている。市場の場所取りでも揉める。商人同士は競争しているし、道も倉庫も足りていない」
人口が増えた。
それに合わせて、商人も職人も増えた。
街は確かに大きくなっている。
だが、それだけで上手く回るわけではない。
「人が増えた分、必要なものが増えて、それに商人がついてきているだけだ。まだ整ってはいない」
「でも、前より便利になったのでしょう?」
「それは否定しない」
答えた途端、マルグリッドの顔がまた明るくなった。
「やはり殿下のお力ですわね!」
ベルトがわずかに笑う。
「もちろん、旦那様のお働きがあってこそだということは、ヴェルカ家の者は皆よく分かっております」
「ええ。それはもう」
マルグリッドも大きく頷いた。
「殿下が先を示されて、旦那様方が形になさっているのでしょう?」
ゴディエは額を押さえた。
結局、殿下礼賛からは一歩も出ていない。
「街でも、似たようなものでございますよ」
ベルトが続けた。
「市場へ出れば、よく耳にいたします。殿下が来られてから治安がよくなった、とか」
マルグリッドがすぐに続ける。
「店が増えたとか。夜でも前より安心して歩けるとか。殿下がおられるから、クワルノーはこれからもっとよくなる、とか」
「それは第三騎士団が入り、巡回が増えたからだ」
「でも、王都から第三騎士団を率いたのは殿下なのでしょう?」
「……そうだが」
「ほら」
また勝ち誇った顔をされた。
「それから」
マルグリッドが、急に声を潜める。
「殿下のお姿を見て、気を失った娘がいたそうですわ」
「は?」
「若い娘が、道をお通りになる殿下を見て、その場で」
「大袈裟だな」
ゴディエはうんざりして言った。
「本当ですって」
「暑かっただけだろう」
「窓からお姿を見つけて、決まりかけていた縁談を断った娘は?」
「それはきっと殿下のせいではない」
「でも、見てしまったのですもの」
「知らん」
「では、腰の曲がったおばあさまが、殿下を見た途端に背筋を伸ばして、すたすた歩き出したのは?」
「また出鱈目を。お前はすぐ話を大きくする」
「出鱈目ではございません! その場にいた者が何人も見ております」
マルグリッドは心外そうに眉を上げた。
「殿下がお姿をお見せになるだけで、街の者まで元気になるのです。若くて、お強くて、あれほどお美しい王子様ですもの」
「一人は気を失っていたんだろう」
「それは、あまりにお美しかったからです」
「……どれも街の発展とは関係ない」
「大いにございます」
「ない」
即答した。
それでも、マルグリッドは納得した様子を見せない。
ゴディエは深く息を吐いた。
いったい街では、エルドウルフがどんな王太子になっているのだ。
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