第78話 〜ラクトゥの贈り物〜
帰りの馬車は、行きより静かだった。
車輪が土を踏む音だけが、規則正しく続いている。
窓の外では、午後の光が運河へ傾き始めていた。
フィーラは揺れに身を任せ、
買い物のことでも考えているのか、ぼんやりと外を見ている。
サリムはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「殿下」
エルドウルフが視線を向ける。
サリムはまっすぐにその目を見た。
「命令も、取引も、お願いも」
そこで一度、言葉を置く。
「三つとも、ニカは引き受けましょう」
副官が顔を上げる。
驚きはあった。
だが反対はしない。
あの谷を見たあとでは、もう意味が違っていた。
エルドウルフはわずかに目を細める。
「助かる」
短い礼だった。
サリムの口元がかすかに動く。
「力があることは知っていました」
静かな声。
「だが、あれほど制御されたものとは思っていなかった」
窓の外を見やる。
「消せるのに、消しきらない。
残せるのに、残しすぎない」
そこでまた視線を戻す。
「そういう力なら、こちらも賭ける理由がある」
エルドウルフは何も言わない。
ただ、わずかに頷いた。
フィーラがそのやりとりを見て、少し嬉しそうに笑う。
谷の水音は遠ざかり、車輪の音だけが残る。
窓の外では川面が白く光っている。
「殿下には、私から市場の基礎をお教えしましょう」
副官が姿勢を正す。
フィーラは窓の外の水鳥を目で追っている。
「市場は競争させるものです」
穏やかな声だった。
「領主が守るのは商人ではない。市場そのものです」
エルドウルフは黙って聞いている。
サリムはそこで言葉を切った。
馬車が石をひとつ越え、窓の外の水面が小さく揺れる。
「強い者は放っておいても生き残る。問題は、強い者だけが残る市場です」
指先で窓枠を軽く叩く。
「小さな商人にも、商いを続ける余地を残す」
「税を重くしすぎない。契約を守らせる。暴力で商いを奪わせない」
エルドウルフは小さく頷いた。
「それだけで十分です」
サリムは続ける。
「観測も必要だ。市場は生き物です。昨日の正解が今日も正しいとは限らない」
副官が無言で頷く。
「価格。流通。流行。失敗。成功」
サリムは指を折るように、一つずつ挙げた。
「常に見る。常に聞く。常に数える」
「流行は?」
エルドウルフが低く問う。
サリムの口元がわずかに上がる。
「作るものです」
フィーラが振り向いた。
「作るの?」
「ええ」
サリムは頷く。
「人は欲しいものを買うのではない。欲しいと思わされたものを買うのです」
車輪が石を踏む音が響く。
「戦と同じだ」
エルドウルフが言う。
サリムが笑った。
「よく気づかれた」
「ですが、これは最初の一つにすぎません」
エルドウルフが視線を上げる。
「商会長のアシルには、週に一度、殿下のもとへ帳簿を持たせましょう」
「帳簿だけか」
「いいえ。売れた品、滞った品、値の動き、流通の滞り。――そして、流行の芽です」
サリムは穏やかに続けた。
「市場で起きたことを、まずはアシルから聞いてください。商いを回す者の目で見た話は、帳簿だけでは分かりません」
エルドウルフは小さく頷いた。
「月ごとに、アシルから私へ商会の報告を送らせます」
サリムは言葉を置く。
「殿下には、そのひと月で何を見て、何を決めたのか。ご自身の考えと疑問を、書状にしてお寄越しいただきたい」
「返事は」
「私が書きます」
サリムの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「街をつくる術は、一度聞いて覚えるものではありません。クワルノーが育つ間、共に見ていきましょう」
エルドウルフは一度、車窓へ目をやった。
午後の光を受け、運河が静かに流れている。
ゆっくりと息を吐いた。
得られたのは、アルマーの門を造る約束だけではない。
クワルノーに商いを根づかせるための人と仕組み。
そして、迷ったときに遠慮なく問いを投げ、答えを返してくれる相手。
それは、金でも命令でも得られないものだった。
サリムはふと、向かいの少女へ視線を向けた。
市場の話には口を挟まず、窓の外を眺めている。
分からないことがあれば聞き、それ以外は黙っている。
交渉の空気を和らげるために、あえて連れてきたのかとも思った。
利害の外にいる者を一人置けば、場が張りつめきらない。
だが、そういう役目を与えられているようにも見えない。
妙な少女だ。
それなのに、不思議とそこにいることだけは自然だった。
少女が場に馴染んでいるのではない。
場の方が、最初から彼女を拒んでいないように見える。
サリムはわずかに目を細めた。
説明のつかない収まり方だった。
馬車が石畳へ乗り上げた。
車輪の振動が軽くなる。
湿った川の匂いが戻ってくる。
窓の外にラクトゥの街が広がった。
昼の市場はすでに熱を帯びている。
荷車が交差し、呼び声が飛び、金属が触れ合う音が絶えない。
運河の水面が光を返し、帆布の影が揺れていた。
フィーラが窓に顔を近づける。
「人、増えた」
「昼が本番だ」
サリムが答える。
しばらく街を眺めた。
言葉はなく、車輪の音だけが続く。
馬車が城門前で止まる直前、サリムが静かに口を開いた。
「少しお待ちを」
副官がすぐに扉を開け、外へ下りる。
短い指示が小声で交わされ、ほどなく戻ってきた。
手には小さな箱があった。
透明なガラスの器。
丸く膨らんだ蓋付きの容器は、繊細な細工が光を受けてきらめいている。
中には淡い紫の花びらが、砂糖の結晶をまとって収められていた。
サリムがフィーラへ差し出す。
「ミッドガロンより取り寄せた菓子です」
フィーラは目を見開いた。
「花……?」
「スミレの砂糖菓子です。紅茶に入れても、そのままでも」
フィーラは両手で受け取った。
壊れ物を扱うように、そっと抱える。
「きれい……」
小さく呟く。
ガラス越しに覗き込み、光に透かす。
角度を変えるたび、砂糖の結晶が細かく瞬いた。
その様子を見て、副官がわずかに目を逸らした。
あまりに無防備だった。
「工芸茶もお持ち帰りください。湯を注ぐと花が開きます」
フィーラが顔を上げた。
「花、開くの?」
「ええ」
サリムは小さく頷く。
フィーラの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう」
言葉は短い。
だが迷いのない声だった。
サリムは深く一礼した。
「またお越しください」
少しだけ間を置き、
「今度は、先触れを」
口元にほんのわずかな笑みが浮かんだ。
エルドウルフは短く頷く。
「次は使者を寄越す」
扉が開く。
街の喧騒が流れ込んできた。
熱と匂いと音が一斉に戻る。
ラクトゥの一日は、まだ続いている。
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