第77話 〜商売だけがわからない〜
沈黙がゆっくりほどけた。
サリムは茶器へ手を伸ばす。
湯気が細く揺れている。
「三つ目を」
穏やかな声だった。
エルドウルフはわずかに視線を外した。
ニカは、ネルマとハンサンに近い地で、長く交易を止めずにきた。
王家に媚びず、隣国のどちらにも寄りかかりすぎない。
それでいて、戦の火をラクトゥへ持ち込ませず、利益を残している。
土地の運だけではない。
サリム・ド・ニカが、その均衡を見誤らずに守ってきたのだ。
戦わずに土地を守る術を、この男は知っている。
「教えてほしい」
副官の指先が止まる。
「商売を」
部屋が、わずかに静まり返る。
サリムは瞬きをした。
戦を語り、国境を動かし、世代の未来を論じた男が、いま、静かに頭を下げている。
「クワルノーを、ラクトゥのような商業都市にしたい」
エルドウルフは続けた。
「大河セシールが流れ、アザンクールとリノンの中継地にもなる。立地は悪くない。道を引き、桟橋を造り、製鉄も始める」
サリムは何も言わない。
「商人もいる。俺の商会もある。管理は執事長に任せている」
そこで、少しだけ言葉を探す。
「報告は読む。収支も分かる。税も予算も扱える」
視線を戻す。
「だが、俺は自分で物を仕入れたことも、売ったこともない。商人が何を見て街を選び、どう金と物を動かすのかを知らない」
率直だった。
「政治は分かる。戦も分かる」
短く区切る。
「商売だけが分からない。——商会を増やせば、それで街がラクトゥになるわけでもない」
エルドウルフは続けた。
「商人が安心して集まり、物を運び、金を落とす。そのために領主が何を整え、どこまで手を出し、どこで退くべきか」
視線を戻す。
「その術を、教えてほしい」
副官が主君を窺う。
護衛たちも視線を動かさない。
サリムは茶を一口含んだ。
その奥で、何かがやわらぐ。
「王太子が商人に師事するか」
かすかに笑みが混じる。
「必要なら」
迷いのない返答だった。
副官が目を見開く。
王族の口から出る言葉ではなかった。
サリムは茶器を置く。
「商会を持つことと、商業都市をつくることは別です」
声が少し低くなる。
「商いは、商人一人を置けば始まるものではない。人脈、取引先、信用。荷を保管する倉庫と、その中の在庫。物を運ぶ馬と船。それらが結びついて、初めて動く」
エルドウルフが小さく頷く。
「一から揃えれば、時間がかかります」
「どれくらいだ」
「金だけでは買えぬものもあります。信用と取引先は、積み重ねるしかない」
サリムはエルドウルフを見た。
「私の商会を一つ、殿下に預けます」
サリムは組んだ手を膝に置いた。
「商会長には商いを教えさせましょう。優秀な男です。商いを回しながら、殿下と、いまお持ちの商会へ教えることもできる」
静かに続けた。
「商会長以下、人もそのまま。取引先との繋がりも、ラクトゥにある倉庫と拠点も使わせます」
「在庫は」
「倉庫内の品、馬、船はお買い上げいただく。引き渡し時の時価で」
エルドウルフの目がわずかに細くなる。
「新たな仕入れと、クワルノーで動かす資金も殿下持ちです。私が貸すのは、人と信用、取引網。それに、すぐ商いを始められる形です」
エルドウルフはすぐに頷いた。
「ですが、街をつくる話は別です。道、河、税、治安、他領との距離――それは領主が決めることになる」
サリムは顔を上げ、エルドウルフを見た。
「私から、お教えします」
副官が目を見張った。
「助かる」
フィーラは横で静かにソファに沈み、
クッションの房飾りを指で揺らしていた。
話は分からない。
それでも、エルドウルフの声だけは聞いている。
その無防備さが、場の緊張を少しだけ浮かせた。
サリムは小さく息を吐いた。
「願いは受けます」
低い声。
「その代わり、私の願いを一つ、聞いていただきたい」
「聞こう」
「城の外へお付き合い願えますかな」
エルドウルフは頷いた。
副官は帽子の位置を直し、静かに一礼した。
◇◇
城を出たのは昼前だった。
馬車は西へ向かう。
街の喧騒が遠ざかり、石畳はやがて固い土の道へ変わった。
谷が開ける。
切り立った崖。
狭い水路。
その中央に、川を押し潰すような巨岩が横たわっていた。
崩れた岩は、一軒の家どころではない。
一辺は二十メートルを優に超え、もとは崖の一部だったのだと分かる。
水路の四分の一が、その岩で塞がれていた。
サリムが馬車を降り、崖の下へ視線を向けた。
「あれです」
低い声だった。
「数年前の嵐で、上から落ちました」
エルドウルフも崖縁まで歩く。
岩の脇を、水が白く泡立ちながら流れ抜けている。
「動かせなかったのか」
「人の手では」
サリムは答えた。
「砕こうにも、足場が悪い。川を止めずに大勢を入れることもできませんでした」
水流に削られた岩肌には、流木が引っかかった跡が残っている。
水位が上がれば、ここへさらに土砂が溜まるのだろう。
「雨季には何度か、下流の水位が上がりました」
副官が言葉を継いだ。
「市街まで届く前に水は引きましたが、次も同じとは限りません」
サリムが頷く。
「もう一度、大きな嵐が来れば、流木と土砂がここへ詰まる。完全に堰き止められれば、上流側に水が溜まる」
少し間を置いた。
「そして、決壊すれば下流の市街を呑みます」
谷を抜けた先に、ラクトゥの屋根が見える。
遠くからなら穏やかに見えるその街まで、水は続いている。
「放置できる段階は、とうに過ぎています」
エルドウルフは、巨岩を見下ろした。
水を制せぬ地に、境は引けない。
岩まで百五十歩。川幅は三十歩。
岩は流れを斜めに塞いでいる。
エルドウルフは動かない。
三歩、位置をずらす。
さらに二歩。
角度を測るように視線を走らせる。
真正面では水が暴れる。
上からでは崩落が広がる。
上流から下流へ抜く線を、頭の中に引く。
――届く。
だが、余裕はない。
わずかでも逸れれば谷を削る。
それでも、ここしかない。
「全部は消せない。半分だ」
視線を岩から外さないまま言う。
「残りは人でやれ。雇用にもなる」
剣を抜く。
空気が変わった。
風が止む。
谷の音が遠のく。
剣の周囲に、乾いた火花のような音が弾けた。
白金の刃に、光が細くまとわりつく。
最初は糸のようだった。
だが次の瞬間、それは密度を増し、刃のまわりで眩い輪郭を持ち始める。
光なのに、重い。
空気そのものが、刃先へ引かれていくようだった。
フィーラの胸が跳ねた。
思わず一歩前に出る。
指先が胸元でぎゅっと握られる。
――綺麗。
呼吸を忘れる。
胸の奥が熱くなる。
副官が後ずさる。
足がもつれ、その場に尻をついた。
護衛の一人が思わず剣に手をかける。
エルドウルフが、わずかに剣を引いた。
次の瞬間。
光が走った。
一直線だった。
だが線ではない。
遠くの空へ抜けていく巨大な光の奔流が、剣先から放たれたように見えた。
白く、鋭く、力そのもののような光。
岩へ届くまでの一瞬、
その軌道にあった空気さえ焼き切られたように震える。
音は遅れて来た。
爆ぜるような轟音。
谷が揺れる。
世界が白く染まる。
光の中心をなぞられた岩の上流側が、
蒸気と砕けた砂を噴き上げながら、音もなく崩れ落ちていく。
ただ砕いたのではない。
削られた断面は、まるで見えない刃で一息に抉り取られたように滑らかで、そこだけが異様に明るかった。
閉ざされていた空間が、一気に開ける。
水が歓声のような音を立てて流れ出した。
沈黙。
そして遅れて、どよめきが広がった。
「……すごい」
「神の御業だ」
歓声が谷に反響する。
フィーラは頬を染めたまま、じっと彼を見ていた。
エルドウルフは息を整え、剣を収める。
「これで十分だろう」
サリムはすぐには答えなかった。
消えた岩の断面を見つめたまま、
胸の奥で静かに理解していた。
――人の力ではない。
だが、暴力でもない。
流れを読み、
削る量を定め、
残すものまで選んだうえで使われた力だ。
これは、使い手の意思に従う神力だ。
ゆっくり息を吐く。
「ええ。十分すぎます」
更新 月曜日/木曜日 20:00
X更新情報/活動報告など発信してます
たまにイラストも
https://x.com/REANNEcreative




