第76話 〜王座に届く〜
沈黙が落ちた。
窓の外では、運河を小舟が一艘、ゆっくりと横切っていく。
荷を積んだ船頭が棹を操り、向こう岸では誰かが荷を降ろしていた。
室内だけが、その流れから切り離されている。
サリムはゆっくり指を組み直した。
机の上で組んだ指が、わずかに固くなる。
対するエルドウルフは、椅子に深くもたれもせず、身を乗り出しもしない。
ただ正面からサリムを見ていた。
命じる側の姿勢だった。
声を荒らげる必要などない、とでもいうように。
「承服できかねますな」
表情が消える。
「ニカの法は私が守る。領主である以上、王太子殿下のご命令だけで、理由なく監視を解く判断はできません」
監視の是非ではない。
王太子の命令に従うかどうかを、サリムは拒んでいる。
少し間を置いて、サリムは続ける。
「場合によっては——」
視線を外さないまま。
「場合によっては、あなたを王太子を名乗る人物として、第一王子殿下へ身柄を差し出すことも可能です」
副官が息を止めた。
止めたことに、自分で気づいたらしい。
ごく浅く息を吸い直す。
誰も動かない。
フィーラだけが、卓上の茶へ視線を落とした。
小さく器を持ち上げ、ほんの少しだけ口をつける。
飲むというより、立ちのぼる香りを確かめるように。
それから、またエルドウルフを見る。
エルドウルフは言い返さなかった。
表情も変わらない。
代わりに、外套の内側へ手を入れた。
侍従長の肩がわずかに強張る。
だが、取り出されたのは一通の封書だった。
エルドウルフはそれを机の上へ置く。
サリムの視線が落ちる。
すぐには手を伸ばさない。
封蝋。
筆跡。
ニカ家の紋章。
それらを順に確かめてから、ようやく封書を取った。
今日の日付。
差出人は次男シュラン。
朝七時、クワルノーのタウンハウスにて、
王太子殿下の指示により書状を認めた旨が、簡潔に記されている。
サリムの指が止まった。
顔を上げることも、問い返すこともしない。
今朝、クワルノー。
そして今、ラクトゥ。
馬では間に合わない。
船でも無理だ。
計算が合わない。
副官は意味が分からず、主の横顔を窺った。
サリムは封書から目を離さない。
短い沈黙。
——理屈は通らない。
ならば、理屈の外にいるのだろう。
王太子の神力。
戦場で振るわれるものとは、別の一端か。
サリムは、もう一度書状へ目を落とした。
それほどの力があるのなら、門を越える必要も、名を告げる必要もなかったはずだ。
シュランから書状を取るだけなら、もっと乱暴なやり方もあった。
だが、この男は自らニカのタウンハウスを訪れた。
息子に書かせたのは、この一通だけ。
少なくとも、家人に危害があった様子はない。
強引ではある。
礼儀正しいとも言い難い。
だが、踏み越えてはいない。
サリムは封書を机へ戻した。
「……それでも、監視を解く理由にはなりませんな」
「解けとは言っていない」
サリムの目が細くなる。
「目だけにしろと言った」
「違いを伺いましょう」
「見張るだけなら構わない。だが、近づくな。探るな。接触するな」
サリムは黙って聞いている。
「今のまま追わせれば、いずれお前の部下はハンサン側まで入り込む」
「……それが何か」
「そこで誰かに潰される」
サリムの指が止まった。
「ハンサンの人間かもしれない。俺の部下かもしれない。どちらでも同じだ」
エルドウルフは淡々と続ける。
「一人消えれば、次を出す。次が消えれば、さらに探る。そうしているうちに、何が起きたのか確かめるための人間まで必要になる」
「……小競り合いになりますな」
「なる」
「そして、引けなくなる」
「だから最初から引いておけと言っている」
サリムは答えなかった。
窓の外で、水を切る音がした。
先ほどの小舟とは別の船が、運河を下っていく。
街は何も知らない。
市場も、船着き場も、いつも通り動いている。
その間に、サリムは考えていた。
監視をやめるのではない。
手を出さない。
深入りしない。
領主として必要な目は残る。
その上で、余計な火種だけを避ける。
相手の素性によっては、領内の揉め事では終わらない。ハンサンとシュバリエ、両国の名が出るところまで転がる。
――ニカでは済まない。
サリムは言葉の意味を理解した。
「……なるほど。それならば、命令の意味は分かります」
ようやく、固く組んでいた指をほどいた。
「……先ほどは、失礼しました」
深くはない。
だが、声の調子はわずかに変わっていた。
「身柄をどうこうという話は、取り下げましょう」
サリムは封書の脇へ手を置いた。
「次は取引、でしたな」
エルドウルフは頷く。
「アルマー渓谷に門を作る。鉄で」
副官が思わず顔を上げた。
サリムの視線が細くなる。
「門、ですか」
「高さ二十メートル。落とし門でいい」
室内が静まる。
サリムの目が変わった。
領主ではなく、商人の目だった。
「用途を伺っても?」
「国境を固定する。ハンサン側の関所は消える。谷を押さえているのは今はミッドガロンだ。門が立てば逆になる」
副官が息を呑む。
護衛たちが無意識に顔を見合わせた。
サリムはすぐには答えない。
「大工事になりますな」
「知っている」
「運搬も困難です」
「分かっている」
短い応酬。
「なぜニカに」
「鉄と職人がいる。河がある。距離が近い」
余計な言葉はない。
サリムの口元がわずかに動く。
「……確かに」
完全に商談の顔だった。
「対価は?」
「払う。相場の三倍。前金半分、残りは完成時」
副官の手元の帳面が止まる。
頭の中で金額を弾いている。
サリムは沈黙したまま、エルドウルフを見た。
「これは、王家のご意思ですか」
「俺の意思だ」
即答だった。
サリムの視線が深くなる。
「ハンサンとミッドガロンは停戦しております。恒久のものではないとしても、数年は大きく動かぬでしょう」
慎重に言葉を選ぶ。
「クワルノーにおられる殿下が、いま手を出される必要があるのでしょうか。王位に就かれてからでも、遅くはありますまい」
「遅い」
短い返答だった。
サリムは、しばらく何も言わなかった。
「戦の火種になりますぞ」
「ならない」
短い否定。
視線が交差する。
「根拠を?」
エルドウルフは一度だけ呼吸を整えた。
「戦を起こさないための門だ」
言葉が静かに落ちる。
フィーラは卓上のガラスの文鎮を指先で転がし、
光が揺れるのをじっと見ていた。
サリムは、すぐには答えなかった。
本来なら、ヨルダーネス第一王子が王位へ進むはずだった。
エルドウルフの立太子は、その順を覆した。
戦で挙げた功と、神力。
それだけでは、この先まで何事もなく王位へ届くとは限らない。
だからこそ、療養を名目にクワルノーへ移られたのだと思っていた。
王太子派を増やす。
自領を育てる。
王都の外に、容易には崩れない地盤をつくる。
そうして、来るべき時を待つのだと。
「私は、そうお考えだと思っておりました」
サリムは静かに言った。
「クワルノーを盤石にし、王都を動かせる時を待たれるのだと」
視線が、さらに深くなる。
「それなのに、いま、ミッドガロンとの境を定めるために動かれるのですか」
エルドウルフは視線を外さない。
「クワルノーは育てる」
短く言う。
「だが、国境を後回しにはしない」
室内が静まる。
「停戦している今しか、国境は定められない」
サリムは、しばらく何も言わなかった。
「面白い。続けてください」
部屋の温度が変わった。
商談ではない。
ここからが本題だと、サリムは理解した。
「独立を考えたことはあるか」
唐突な問いだった。
副官が思わず顔を上げる。
扉脇の護衛たちの視線が一斉に動いた。
サリムは瞬きをしない。
「領主であれば、一度は考えますな」
肯定も否定もしない答え。
「卿は考えている」
断定だった。
室内の空気がわずかに止まる。
「王都に戻らない。嫡男だけを残した。周辺国と折衝を始めた。援軍要請を一度拒んだ」
淡々と並べられる。
副官の指先が机の上で止まった。
護衛の一人が、無意識にサリムへ視線を向ける。
サリムはゆっくり息を吐いた。
「よく見ておられる」
否定しない。
「王都は弱い。王は決断が遅い。自領は自分で守るしかありますまい」
静かな声。
だが核心だった。
エルドウルフは頷く。
「正しい。全部」
短く言い切る。
「だが、それを各地が続ければ、国は割れる」
その言葉に、副官の眉がわずかに動いた。
否定されると思っていた。
「独立して何年持つ」
言葉が静かに落ちる。
「十年後、隣国はいくつ増える」
誰も動かない。
「卿の孫の代で、ニカは残るか」
沈黙。
副官が息を忘れている。
護衛たちは王太子から視線を外せない。
フィーラは膝の上のクッションの刺繍を指でなぞっていた。
話の意味は半分も分からない。
けれど、空気の張りだけは感じている。
エルドウルフの声が続く。
「王は守らない」
護衛の一人がわずかに目を見開く。
「守らなくて済む形を作る」
言葉が静かに落ちる。
「卿の孫が戦場に立たない未来を買いに来た」
長い沈黙が降りた。
サリムは目を閉じた。
胸の奥が静かに冷えていく。
恐怖。理解。計算。
それらが、ゆっくりと並び替えられていく。
独立。
交易。
周辺国。
十年。
二十年。
孫の代。
視界の中で、地図の線が音もなく動いた。
目を開ける。
目の前の男は、表情を変えない。
だが見ている高さが違う。
サリムは気づかれぬよう、ゆっくり息を吐いた。
独立は、今すぐ選ぶ道ではない。
王都が守れなくなった時、ニカだけは沈ませないための、最後の手段だった。
心の奥で、静かに認めていた。
――王座に届く。
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