第75話 〜命令からだ〜
扉が閉じる音が、部屋に静かに残った。
応接室は広すぎず、狭すぎない。
豪奢ではないが、調度は質が良い。
厚い絨毯は足音を吸い、机の木目は使い込まれて艶を帯びている。
商人の城らしい、実用の匂いがする部屋だった。
中央に立つ男が一歩進み出る。
――サリム・ド・ニカ。
数歩の距離で止まる。
互いに動かない。
副官が一歩進み出た。
「殿下の御品を」
黄金が、光を受けて静かにきらめいた。
サリムは一瞬だけそれを見た。
細工、石、重み。
確認はもう済んでいる。
副官の隣に控えていた侍従長が、恭しく王印環を差し出した。
「失礼いたしました」
エルドウルフはそれを受け取り、左耳に留め直す。
留め金が小さく鳴った。
フィーラが小さく首を傾げる。
「それ、きれい」
場違いなほど素直な感想だった。
エルドウルフは一瞬だけ言葉を失った。
左耳に触れかけて、やめる。
「……そうか」
「ようこそ、ラクトゥへ」
サリムが深く一礼した。
「シュバリエ王国王太子殿下」
丁寧な言葉。
しかし声は測る温度だった。
エルドウルフもわずかに頭を下げる。
「突然の訪問を詫びる」
短い挨拶。
視線が交わる。
サリムは目を細めた。
——立ち姿が違う。
戦場に立った者の重心だ。
サリムは手で席を示す。
「どうぞ」
二人が腰を下ろす。
フィーラも隣に座った。
サリムが軽く指を鳴らした。
扉脇に控えていた使用人が静かに進み出る。
銀の盆に載せられた茶器から、淡い湯気が立っていた。
白磁のカップに、琥珀色の液体が注がれる。
乾いた果実と花の香りが、ゆっくりと室内へ広がった。
「長旅でございましょう。まずはお茶を」
試す言葉でも、媚びる言葉でもない。
距離を測るための礼儀だった。
エルドウルフは小さく頷く。
フィーラは湯気を不思議そうに見つめている。
両手でカップを持ち、湯気に顔を近づけた。
「いい匂い」
視線が彼女へ移る。
「こちらの方は?」
「フィーラ。遠縁の姫だ」
少女が小さく頭を下げる。
「フィーラです」
少し考えてから、
「こんにちは」
拙い挨拶だった。
サリムはカップを置く。
少女は湯気を見ているだけだった。
何も計算していない顔だ。
それでもサリムは、視線を戻すまでにほんの少し遅れた。
わずかに目を細め、深く礼を返す。
「ラクトゥへようこそ」
沈黙が落ちる。
「王太子殿下が先触れもなく訪れられるとは、急ぎのご用件とお見受けします」
サリムの声は穏やかだが探る言葉だった。
エルドウルフは視線を外さない。
「三つある」
短く言う。
「命令。取引。お願い」
部屋の空気が静かに張り詰めた。
サリムは微動だにしない。
視線だけが測るように鋭い。
「どちらから承りましょう」
試す声音だった。
エルドウルフは迷わない。
「命令からだ」
即答だった。
声に迷いはない。
ただ、その硬さはまだ完全には冷えていない。
「内容は」
「昨夜、ハンサンから商団が入った」
副官の肩がわずかに強張る。
サリムは表情を動かさない。
「商人と護衛の一行がラクトゥに入ったとは聞いております」
「その一行に、余計な手出しをするな」
「……何のことでしょう」
穏やかな声だった。
否定も肯定もしない。
エルドウルフは視線を逸らさない。
「お前なら、ただ見送るはずがない」
サリムの目が、ほんのわずかに細くなった。
「仮に、動向を確かめさせているとして——」
「目だけにしろ」
飾りのない命令だった。
「理由を伺っても?」
「俺の客人だ」
沈黙。
サリムは椅子の背にわずかに体重を預ける。
「ここはニカ領です。治安は私の責任。不審な一行を監視するのは、領主として当然の判断です」
穏やかな言葉だった。
だが、譲る気はない。
エルドウルフはわずかに重心を前へ移す。
「好きに見るなとは言わない」
短く区切る。
「だが、刺激するな」
声が落ちる。
「相手を読み違えるな」
室内の空気がわずかに変わった。
サリムの目が、初めてほんの少しだけ揺れる。
「……どういう意味で」
「そのままの意味だ」
エルドウルフは視線を逸らさない。
「迂闊に手を出せば、ニカでは済まない」
短い沈黙。
「それを避けるための命令だ」
静かな声。
その底には、まだ冷えきらない熱が残っていた。
研ぎ澄まされる直前の刃のように。
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