第74話 〜ニカ領主サリム・ド・ニカ〜
白金の髪が朝日に淡く光る。
運河の水面が揺れ、街は何事もないかのように動き続けている。
だが城の奥では、すでに人の動きが変わり始めていた。
◇◇
副官は書類を落としかけた。
机の上で紙が滑り、茶器が小さく鳴る。
「……王太子殿下が?」
「はい。正門で待機中です。護衛はなし。同行は若い娘が一人」
副官は言葉を失い、窓へ視線を向けた。
運河の水面が朝日を返している。いつもと変わらない朝だった。
だが、城の中だけが違った。
「領主は」
「執務室です」
副官は深く息を吸い、帽子を掴んだ。
濃紺のフェルト帽。商都ラクトゥでは役人の正装に近い。
それを被り直し、歩き出す。
足音が石廊下に乾いて響いた。
◇◇
領主執務室の扉が叩かれた。
「入れ」
低い声が返る。
室内には朝の光が満ちていた。
大きな窓から運河が見える。水路を行き交う小舟、荷揚げの声。
机の前に立つ男は、背丈は高くない。
だが、厚い肩が空間を押さえている。
サリム・ド・ニカ。
黒に銀が混じる髪を後ろへ撫でつけ、髭は短く整えられている。
武人の名残を残した体躯だが、動きは軽い。
衣装は深い茶の長衣。
上質な厚布に控えめな刺繍。豪奢ではないが仕立ての良さが分かる。
帯には装飾の少ない短剣。完全な実用品だった。
副官は一礼した。
「朝から失礼いたします」
「構わん。用件は」
副官は帽子の縁に触れた。
無意識の癖だった。
「王太子殿下が、城門に」
沈黙が落ちた。
サリムは瞬きもしない。
「……誰が?」
「エルドウルフ殿下です」
窓の外で荷車が石を鳴らす。
遠くで水鳥が鳴いた。
サリムは机に手を置いたまま動かない。
「証は」
「王印環です。報告されていた意匠と一致します」
副官の声がわずかに乾いていた。
両手で包んでいた王印環を机の端へそっと置いた。
「護衛は」
「おりません」
サリムはゆっくり息を吐いた。
「正門に?」
「はい」
王印環の金が、机の上で朝日を返していた。
サリムは椅子を引いた。
重い木が床を擦る。
王印環は、王太子以外が扱うことを許されない。
本来なら、本人の前で確認を終え、その場で返すべきものだった。
だが門兵はそれを受け取り、城務官、侍従長、副官を経て、いま自分の執務室まで運び込んでいる。
正門前の列には、王都とラクトゥを往来する大商会の者も混じっていたはずだ。
その中には、王太子の顔を知る者もいる。
白金の髪の若者が身分を問われ、王印環を差し出したことも。
その印が、城の中へ運ばれていったことも。
確認のために自ら差し出したものとはいえ、城の奥まで運ぶ許しを得たわけではない。
もしこれが本物で、王太子が「王印環を勝手に持ち去られた」と言えば――言い逃れはできない。
城壁の外に、王太子の騎士が伏せていないとも限らない。
王太子の印を奪い、城内へ引き入れた。
そう訴えられれば、ニカへ兵を入れる名分になる。
サリムは、深く息を吐いた。
もう、引き返せない。
「通せ。応接室まで警護をつけろ。無礼はするな」
副官の目が見開く。
「よろしいのですか」
「王印環を城の中へ入れた時点で、もう門前の旅人としては扱えん。ここで返せば、それこそ終わる。今さら引かせる余地はない」
低い声だった。
副官は深く頭を下げた。
「直ちに」
扉が閉まる。
執務室に残ったのは水音だけだった。
サリムは窓の外を見た。
「……面白い王太子だ」
小さく呟いた。
◇◇
門が静かに開いた。
しばらくして、先ほどとは別の兵が城門の内側から現れた。
その後ろには、槍を携えた衛兵が二人控えている。
「こちらへ」
頭を下げる姿勢も、声の硬さも、先ほどの門兵とは明らかに違う。
列に並んでいた商人たちの声が途切れる。
理由までは分からなくとも、白金の髪の若者がただの旅人ではなかったことだけは伝わった。
二人は城門をくぐった。
案内役が前を歩き、二人の衛兵が左右の後方につく。
守るための警護なのか、逃がさぬための監視なのか。外から見ただけでは分からない。
その中央を、エルドウルフは歩調ひとつ変えずに進んだ。
白金の髪も、整いすぎた顔も隠していない。
フィーラも隣を歩いている。
城内は外の喧騒が嘘のように静かだった。
広い中庭。隙なく敷かれた石畳。
軍旗が並ぶ代わりに、商会の紋章を掲げた旗があちこちに見える。
低く広がる建物は実用的で、飾りは少ない。
軍城ではない。
都市を統べる城だった。
フィーラが周囲を見回す。
「広いね」
「商人の城だからな」
案内役は一定の歩幅で先導している。
肩はわずかに固く、振り返らない。
後ろについた衛兵たちも、一定の距離を崩さなかった。
城内の視線が集まっていた。
帳簿を抱えた書記。
槍を持つ衛兵。
水桶を運ぶ使用人。
誰もが一度、足を止める。
警護に挟まれた、見慣れない白金の髪の若者。
これほど視線を集めているのに、本人だけが何も気にしていない。
背筋を伸ばし、まるで行き先を最初から知っているように歩いている。
「誰だ」
「正門から、警護つきで入ったらしい」
「あの髪……」
最初は、ただの疑問だった。
やがて、年嵩の書記が息を呑む。
「王太子殿下ではないのか」
声は低かった。
それでも、その名は周囲へ伝わった。
「まさか」
「なぜ、ラクトゥに」
「本当に、あのエルドウルフ殿下なのか」
槍を持つ衛兵の一人が、通り過ぎる横顔を目で追った。
疑いに揺れていた顔が、ゆっくりと強張っていく。
「あの方だ。凱旋のときに見た」
囁きが止まった。
王太子という身分だけではない。
戦場に立ち、何度も国を救った王子。
兵とともに剣を取り、生きて帰ってきた英雄。
その名を知らない者はいなかった。
こんな場所へ、護衛も連れずに現れるはずがない。
だが、白金の髪も、青い瞳も、隙のない歩き方も、戦で国を救ったと聞く王太子の姿と重なっていく。
警護に挟まれているのに、連行されているようには見えない。
むしろ城の方が、彼をどう扱えばよいのか分からず、緊張しているように見えた。
「……本物だ」
誰かが呟いた。
エルドウルフは振り返らない。
囁きなど聞こえていないように、フィーラを隣に置いたまま進んでいく。
二人が通り過ぎたあとも、人々の動きはすぐには戻らなかった。
回廊を曲がるたび、驚きと緊張が波のように広がっていく。
「みんな、見てるよ」
フィーラが小さく囁いた。
「見せている」
短い返事。
石階段を上る。
回廊を渡る。
厚い扉の前で案内役が止まった。
後ろの衛兵たちも、揃って足を止める。
「領主が、お待ちです」
丁寧な言葉だが、声は固い。
重い扉が押し開かれる。
室内の朝の光が、廊下へこぼれた。
その奥に、ニカ領主サリム・ド・ニカが立っていた。
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