第73話 〜商業都市ラクトゥ〜
ラクトゥの朝は早い。
街は運河に沿って目を覚ます。
石の水路を行き交う小舟が水面を細く切り裂き、荷を積んだ船頭の掛け声が石壁に反響していた。
川の匂いと湿った木材の匂いが風に混じる。
乾いた魚、焼きたてのパン。香辛料。
混ざり合った匂いが城門前の広場を満たしていた。
城門前はすでに混雑している。
荷車、商人、傭兵、旅人。
入城待ちの列は石畳の坂を長く伸びていた。
その最後尾に並び、フィーラが小さく言う。
「並ぶの?」
「今日は客なんだ」
短い返事だった。
フィーラは列の向こうを覗き込む。
運河を行き交う小舟。
荷を運ぶ人々。
香辛料の袋を開ける商人。
色布が風に揺れている。
目が忙しく動いていた。
「すごい」
小さな声。
「街が動いてる」
列の外へ出かけて、はっとしたように足を止める。
今日は人と会う。ただ見ていると約束したことを、思い出したらしい。
それでも視線は止まらない。
「ね、見て。あっちの舟、花が乗ってる」
指が伸びる。
笑っている。
完全に、外出の顔だった。
エルドウルフは一瞬だけ目を閉じた。
会わせるための手は、すでに打ってある。
あとは、相手がどう出るかを見るだけだった。
――なのに。
横では、街に来ただけの少女がいる。
「……あとで、ちゃんと見せる」
小さく息を吐いた。
止めなかった。
門兵が荷札を改め、旅人の身分証を確かめる。
通行を許された者から、城門をくぐっていく。
列は少しずつ進んだ。
やがて二人の番が近づいた。
エルドウルフは外套のフードへ手をかけた。
ゆっくりと下ろす。
白金の髪が、朝日の下へ現れた。
列の後ろで、ごく小さなざわめきが起こる。
王都とラクトゥを往来する商人の一人が、息を呑んだ。
「……まさか」
「似ているだけだ」
「だが、あの髪を見ろ」
誰も大きな声では言わない。
それでも視線は、次々に白金の髪へ集まっていく。
門兵の視線が止まる。
白金の髪。
王太子の肖像画が、脳裏をよぎった。
視線が顔へ移る。
整いすぎた顔立ち。
そして背が高い。
周囲の男たちより頭一つ分近く高い。
護衛はいない。
――まさか。こんな場所に。あり得ない。
声をかけるべきか迷った。
違えば不敬。
本物なら、見逃す方が終わる。
逡巡の末、口を開く。
「身分証明を」
エルドウルフは答えず、左耳に触れた。
黄金の王印環が外れる。
掌の上で朝日を受け、細く光った。
門兵は思わず身を乗り出す。
近くで見て初めて気づく。
一角獣の細工。中央のサファイア。
血の気が引いた。
喉が鳴る。
偽物かもしれない。
だが、もし本物なら。
門兵は深く頭を下げた。
「確認を取ります。少々お待ちください」
声がわずかに震えていた。
門兵はイヤーカフを両手で包む。
朝の冷気の中、その金属はわずかに温もりを帯びている。重みがやけに現実的だった。
深く頭を下げ、石床を鳴らして詰所へ駆け込んだ。
落とし門の鎖がかすかに軋む。
残された門前は妙な沈黙に包まれた。
運河から、小舟の櫂が水を打つ音が届く。
だが列の商人たちは声を潜め、様子を窺っていた。
フィーラは石畳の端に溜まった水を覗き込んでいた。
運河から跳ねたしぶきが朝日を受け、細かく光っている。
「ラクトゥ、きれいだね」
何でもない声だった。
エルドウルフは答えなかった。
ただ、否定もしなかった。
◇◇◇
城務官は机の上の黄金を見下ろし、息を止めた。
「侍従長に」
それ以上の判断はしない。
できない。
侍従長はイヤーカフを手に取り、光へかざした。
細工、石、重量。
目立たない傷の位置まで、記録と一致している。
「……本物の可能性が高い」
室内の空気が重くなる。
「どこに」
「正門前でお待ちです」
「護衛は」
「おりません」
侍従長は一瞬だけ目を閉じた。
もし王太子本人であれば、ここで無礼があれば終わる。
「副官へ報告だ。急げ」
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