第72話〜夜明け前の書状〜
——ギルタン王甥一行との密議当日の朝に時間は遡る。
◇◇
この日は長くなると、エルドウルフは分かっていた。
夜の名残がまだ残る朝だった。
空は深い群青から、ゆっくりと淡い青へ移ろい始めている。
エルドウルフは静かに身を起こした。
隣ではフィーラが眠っている。
群青の髪が白い枕に広がり、規則正しい呼吸がかすかに聞こえた。
起こさないよう、掛け布をそっと整える。
冷えた床へ足を下ろし、音を立てないよう立ち上がった。
寝台を振り返る。
フィーラは眠ったまま、動かない。
扉をわずかに開け、身体を滑らせるように廊下へ出た。
静かに閉める。
南館三階の回廊は、まだ城が目覚める前の静けさに包まれていた。
扉の脇にはイザーク。
少し離れた場所には、アストロフと夜明け前から交代していた騎士たちが控えている。
誰も声を上げない。
眠るフィーラを起こさぬよう、すでに心得ていた。
イザークが一礼し、向かいの衣装部屋へ先に立つ。
室内には、今日のために整えられた衣服が並んでいた。
黒い詰襟の上着。白いシャツ。濃紺の外套。
帯剣用の革帯と、王印環。
エルドウルフは黙って腕を通す。
イザークの手は静かで、無駄がない。
襟を整え、留め具を留め、剣帯を腰へ回す。
最後に、左耳へ王印環を取り付けた。
身支度が終わるころには、東の空がわずかに白み始めていた。
だが階下では、すでに朝の準備が始まっている。
荷を運ぶ足音。
桶の水が揺れる音。
遠くで馬が鼻を鳴らす。
城は、静かに動き出していた。
◇◇
城門を出たのは夜明け直後だった。
薄い朝靄の中、王太子は愛馬ノアに跨っている。
アストロフを含む護衛騎士二騎が、距離を置いて従った。
石畳は夜露でまだ濡れている。
商人の荷車が軋みながら並び始め、厩舎では馬具の金具が乾いた音を立てていた。
街が目覚める前の、最初の動き出しの時間。
向かった先はクワルノー市街の一角。
ストラス家をはじめとする有力貴族のタウンハウスが並ぶ屋敷街。
その一画に、ニカ家の屋敷がある。
門を叩く。
扉を開けた使用人の顔が凍った。
夜明けに王太子が立っている。理解が追いつかない。
やがて現れたのは、寝起きの男だった。
サリム・ド・ニカの次男、シュラン。
髪も整っていない。
「……殿下?」
困惑がそのまま声になっていた。
「朝早くすまない」
短い言葉。
「頼みがある」
シュランは一瞬だけ空を見た。
ため息は飲み込む。
王太子相手に迷惑とは言えない。
父に知られれば何を言われるか分からない。
「書状を書いてほしい。父上宛てだ」
理由は聞かない方がいい。
直感がそう告げていた。
「……承知いたしました」
紙とインク、封蝋が運ばれる。
シュランは父へ宛てた文面を、自らの手で書き始めた。
王太子殿下が、父との面会を望んでいること。
息子である自分から、その取次を願うこと。
文面は簡潔だった。
だが、断る余地はない。
書き終えたシュランが、羽根ペンを置く。
「これで、よろしいですか」
「最後に、今朝の日付と時刻を添えてくれ」
シュランの手が止まった。
「時刻も、ですか」
「ああ」
理由は問わなかった。
今日の日付。
そして、夜明けを少し過ぎた時刻。
シュランはそれを書き添え、印章を取り出した。
熱い封蝋へ、自らの印を押す。
「助かった」
それだけ言い、エルドウルフは立ち上がった。
扉が閉まる。
シュランは、しばらく動けなかった。
やがて深く息を吐く。
「……朝から嵐だ」
そう呟やき、項垂れた。
「父上へ早馬を出せ」
控えていた執事が、静かに顔を上げた。
「旦那様へ、どのようにお伝えいたしましょう」
「今朝、エルドウルフ殿下が自ら来られた。父上宛ての書状を書かされ、今日の日付と時刻まで添えた――そのまま伝えろ」
「書状は、殿下がお持ちに」
「ああ」
シュランは閉じた扉へ目を向けた。
「何かを見せるつもりなんだろう。あの書状そのものじゃない。今朝、俺がここで書いたということを」
執事の目が、わずかに細められた。
「左様でございますな」
「いつ、どこで使われるかは分からない。だが父上が何も知らずにそれを見れば、遅い」
「承知いたしました。急ぎ、旦那様へお知らせいたします」
執事はすぐに部屋を出ていく。
シュランは閉じた扉を見つめたまま、もう一度息を吐いた。
嵐は、もう動き始めている気がした。
◇◇
城へ戻るころにも、三階はまだ静かだった。
カーテン越しの光が、淡く部屋を照らしている。
エルドウルフは寝台の端に腰を下ろした。
フィーラはまだ眠っていた。
寝返りを打ち、握った手を頬のそばへ寄せる。
起こさなくてもいいかと、一瞬だけ思う。
だが、時間はない。
エルドウルフはそっと肩へ手を伸ばした。
「フィーラ」
まぶたがゆっくりと開く。
「……おはよう」
エルドウルフを見上げ、フィーラは微笑んだ。
「今日、早い」
「ああ」
「起きてる。すごい」
それから、すでに身支度を整えた姿に気づく。
「おでかけ?」
扉の向こうでは、ネレアが静かに支度を整えていた。
「今日、出かける」
「どこ?」
「ラクトゥ。ネルマの近くだ」
フィーラの目が、ぱっと明るくなる。
「ネルマの近く?」
「ああ。連れて行ってほしい」
フィーラは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「いいよ」
「人と会う。同席しても構わない」
「うん」
フィーラはもう寝台の上で身体を起こしていた。
エルドウルフは少しだけ間を置く。
「ただ、約束してほしい。今日は何があっても見てるだけだ。力は使わないでほしい」
「見てるだけ?」
「ああ」
「そうなんだ」
フィーラは少し考え、それから頷いた。
「わかった。約束する」
「ありがとう」
フィーラが笑う。
「ラクトゥ、楽しみ」
その顔を見て、エルドウルフはほんの少しだけ視線を外した。
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