↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光を背負った王――戦場から始まる、王になるまでの物語  作者: RE:ANNE
第九章 選ぶということーー王を選ぶ者たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
71/83

第71話 〜選ぶということ〜


 夜の屋上に、ランタンの灯りが揺れていた。


 アンリとネレアが並んで立っている。闇の中では、その小さな灯りだけが目印だった。


 空気がかすかに歪む。


 次の瞬間、二人が現れた。


 屋上へ足が触れる。着地は静かだった。

 繋いでいた手が、ゆっくりと離れる。


 背にはまだ六枚の羽が残っていた。白い輪郭は端から崩れ、細かな光の粒となって夜へ溶けていく。


 最後の一枚が消えたとき、フィーラの身体が大きく揺れた。


 ――そして、静寂が壊れた。


 フィーラが泣いていた。


 声を抑えることもできず、息を吸うたびに泣き声が引き攣る。涙は次から次へと溢れ、細い肩が何度も大きく跳ねた。


 まるで子供だった。


 大切なものを失いかけて、怖かったとも苦しかったとも言えず、ただ泣くことしかできなくなった子供のようだった。


 足元も定まらない。立っているだけで精一杯になっている。


 エルドウルフはフィーラへ一歩踏み出しかけ、止まった。


 胸の奥がひきつり、短い咳が漏れる。振動が胸の脇へ響き、ほんのわずかに眉が寄った。


 呼吸は戻りつつあったが、まだ浅い。


 アンリの顔から、いつもの軽さが消えた。


 泣き続けるフィーラと、浅い呼吸を繰り返すエルドウルフ。そのあいだを視線が一度だけ往復する。


 ネレアはすでにフィーラへ向かっていた。アンリもエルドウルフとの距離を詰める。


 そのとき、ランタンの光が右耳を照らした。


 耳の縁から流れた血が一筋、首筋を伝い、外套の襟へ落ちている。まだ止まっていなかった。


「エルドウルフ。息は」


「問題ない」


「そうは見えない。それに、耳も切れてるぞ」


 エルドウルフはそこで初めて耳元に触れ、離した指先についた赤を見た。


「……気づいてなかったのか」


「大したことじゃない」


「大したことかどうかは聞いてない」


 アンリはもう一度、泣き続けるフィーラを見た。


「何があった」


「後で話す」


「今じゃないんだな」


「会議だ。行く」


 エルドウルフは指先についた血を無造作に拭い、階段へ向かった。


 背筋を伸ばし、歩幅も崩さない。浅い呼吸も、耳元を濡らす血も、足取りには出さなかった。


 その背を、フィーラは追えなかった。


 手を伸ばしたまま、何もない宙を掴んでいる。


 ネレアが横へ立ち、そっと肩に触れた。


 その瞬間、フィーラの膝から力が抜けた。


 崩れ落ちる身体をネレアが抱き止める。支える腕に触れたことをきっかけにしたように、泣き声がさらに大きくなった。


 アンリはもう一度二人を見る。


 ネレアがフィーラをしっかり抱き支えていることを確かめると、何も言わず視線を切った。


 階段へ向いたときには、エルドウルフはもう扉へ手をかけていた。


 アンリを待つ様子も、振り返る様子もない。


 扉が開き、廊下の光が屋上へ細長く差し込む。白金の髪がその中で淡く浮かび、すぐに向こうへ消えた。


 アンリもその後を追う。


 扉が閉じると、廊下の光も消えた。


 屋上には揺れるランタンと、夜へ溶けていくフィーラの泣き声だけが残った。


 


 部屋へ戻るまでのあいだも、フィーラはまともに歩けなかった。


 足は何度ももつれ、涙で前もよく見えていない。ネレアに支えられ、半ば引かれるようにして廊下を進んだ。


 部屋ではサラとルイーズ、それに数人の使用人たちが落ち着かない様子で待っていた。誰もが何かをしようとして、それでも何をすればよいのか分からずにいる。


 ネレアだけが静かだった。


「湯を使いましょう」


 拒む余裕もなく、フィーラは手を引かれるまま浴室へ向かった。


 白い湯気の中、温かな湯に浸かっても、頬を伝う涙は途切れなかった。ときおり喉が詰まり、そのたびに肩が小さく震える。


 ネレアは何も訊かなかった。


 背に湯をかけ、濡れた髪を丁寧に梳き、力の入らない身体を静かに支え続けた。


 やがて部屋へ戻り、椅子に座らされる。


 髪が乾き、群青の髪が肩へ落ちる頃になっても、フィーラの涙は止まらなかった。


 ふらりと立ち上がり、そのまま縋る(すが)ようにネレアへ抱きつく。


 ネレアは黙って受け止め、背へ腕を回した。頬を伝う涙を手にしていた布で拭いながら、そのままフィーラを支えて寝台へ腰を下ろす。


 フィーラは腕をほどかないまま、崩れるようにネレアの膝へ身を預けた。


 もう泣き声はほとんど聞こえない。


 疲れ切った呼吸に合わせ、肩だけが小さく揺れている。


 ネレアは背に手を置き、ゆっくりと頭を撫でた。


 サラとルイーズは少し離れた場所で立ち尽くしていた。声をかけることも、近づくこともできない。


 部屋には灯りと、フィーラのかすかな呼吸だけが残った。


 


 扉は叩かれないまま、静かに開いた。


 エルドウルフが灯りの中へ入ってくる。


 その姿を認めた瞬間、フィーラの肩がわずかに強張った。


 右耳から襟元へ、乾きかけた血が細い跡を残している。外套の肩口にも、黒ずんだ染みが広がっていた。


 背筋も歩幅も崩れていない。


 けれど、近くまで来れば、呼吸がまだ浅いことは隠せなかった。


 サラとルイーズが息を呑む。


 ネレアはフィーラを支えながら、ゆっくりと寝台へ座らせた。すぐには立ち上がらず、その顔を覗き込む。


 フィーラの視線はエルドウルフへ向いたまま、動かなかった。


 そこでようやくネレアは立ち上がった。


 エルドウルフが何も言わず、小さく頷く。


 それだけで意図を受け取ったネレアは、サラとルイーズへ目配せした。


 三人は静かに一礼し、衣擦れの音だけを残して部屋を出ていく。


 最後にネレアが一度だけ振り返った。


 フィーラを見て、それからエルドウルフへ静かな視線を向ける。

 何も言わない。

 扉が閉じた。

 部屋には灯りと、二人の呼吸だけが残った。

 


 フィーラは寝台の端に座っていた。


 泣き疲れているはずなのに、涙はまだ雫となって頬を伝っている。


 エルドウルフは少し離れた椅子を引き、手を伸ばせば届く距離へ腰を下ろした。


 沈黙の中で、フィーラの指がシーツを握る。


「……ごめんなさい」


 かすれた声だった。


 エルドウルフはすぐには答えなかった。


「俺も、謝りに来た」


 フィーラが顔を上げる。その目から、また涙が落ちた。


「お前を怖がらせた。あれは、俺が悪かった」


「じゃあ……」


 唇が震える。


「どうして、手を離したの」


 エルドウルフは視線を逸らさなかった。


「お前が、分からないまま話を終わらせようとしたからだ」


「わたし、守ろうとした」


「分かってる」


「エルドウルフ、危なかった」


「ああ」


「みんな、剣持ってた」


「ああ」


「だから――」


「それでもだ」


 フィーラの言葉が止まる。


 エルドウルフは静かに息を吐いた。


「守ろうとしたことを、責めているんじゃない」


 黄金の瞳が揺れる。


「でも、怒った」


「俺が選んだことを、お前の力で変えたからだ」


「……わからない」


「そうだろうな」


 責める声ではなかった。


「俺は、あそこで起きることを承知して席に着いた。危険も、その先にあるものも、自分で引き受けると決めていた」


 フィーラの指がシーツを強く握る。


「わたしは、エルドウルフを守りたかった」


「知ってる」


「死んだら、いや」


「ああ」


「傷つくのも、いや」


 エルドウルフはしばらく黙った。


「でも、俺は王になる」


 フィーラが顔を上げる。


「俺が選んで、俺が背負う」


 その声は静かだった。


「お前の力で、何もかも無かったことにはできない」


「……守ったら、だめなの?」


「違う」


 短く答える。


「守ってほしくないわけじゃない」


「じゃあ、どうして?」


 エルドウルフは言葉に詰まった。

 守ることと、消すことは違う。

 選ぶことと、選ばずに済ませることも違う。


 共に考えてほしい。

 自分が選んだ先に残るものまで、一緒に見てほしい。

 言葉にすれば、それだけのはずだった。


「俺が見ているものを、お前にも見てほしい」


 フィーラは涙に濡れた目で、まっすぐエルドウルフを見た。


「見てるよ」


 迷いのない答えだった。


「子供たちも、街も、ちゃんと見てる。みんな、すき」


「ああ。知ってる」


 否定するつもりはなかった。


「じゃあ、なにがだめだったの?」


 答えようとして、また言葉に詰まる。


 フィーラが街を見ていないわけではない。

 子供たちの名を覚え、人の営みを喜び、明日を楽しみにしている。


 それでも、自分を守ると決めた瞬間、そのすべてが選択の外へ置かれた。


 なぜ、それが彼女の中で矛盾しないのか。

 エルドウルフには、まだ分からなかった。


「……その先だ」


「そのさき?」


「ああ」


 伝えたいことはいくつもあった。

 だが、どの言葉も足りない気がした。


「俺を守ると選んだ、そのあとに何が起きるのか」


 フィーラは黙っている。


「誰が何を失うのか。何が残るのか」


 静かな声で続けた。


「俺は、選んだあとに残るものまで背負わなければならない」


「エルドウルフが?」


「ああ」


 目を逸らさない。


「だから、選ぶ前に、その先まで考えてほしい」


 返事はなかった。


 黄金の瞳がゆっくり伏せられ、シーツを握っていた指がわずかに動く。


 何を考えているのか、エルドウルフには分からなかった。


 広場で笑っていた子供たちか。

 毎日、少しずつ形を変えていく街か。

 それとも、まだ自分だけを見ているのか。


 フィーラは、分かったとも、分からないとも言わなかった。


 ただ今度は問いから目を背けず、そのまま黙っていた。


 エルドウルフも、それ以上は求めなかった。


 今夜、答えを出せることではない。

 それでも、この問いだけは彼女の中に残したかった。


 長い沈黙のあと、フィーラが小さく口を開いた。


「……もう、あんなことしないで」


 エルドウルフは答えなかった。


 フィーラの指が、またシーツを強く握る。


「わたしが、わからなくても」


 かすれた声だった。


「手、離さないで」


 そう思わせたのは、自分だった。


 分からなければ、また同じ恐怖を与えられる。


 その不安を残したままでは、フィーラが何を考えても、自分を失わないために選んだ答えにしかならない。


「ああ」


 エルドウルフはまっすぐにフィーラを見た。


「あのやり方は、もうしない」


「……約束?」


「ああ。約束する」


 フィーラの顔が歪んだ。


 次の瞬間、寝台から立ち上がり、エルドウルフの胸へ飛び込む。


 外套を掴み、強く身体を寄せた。


 胸の脇に痛みが走る。


 エルドウルフは一瞬だけ動きを止めたが、何も言わず、震える背へ腕を回した。


「こわかった」


「ああ」


「わたしが、わからなくても……手、離さない?」


「離さない」


 フィーラはそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、外套を掴んだ指からは力を抜かなかった。


 


 何が正しかったのか。

 何を選ぶべきだったのか。


 今夜、答えは出なかった。


 フィーラはまだ、エルドウルフを何よりも大切に思っている。


 エルドウルフも、自分の選択を譲るつもりはない。


 それでもフィーラは問いに背を向けず、エルドウルフも、もう二度と同じ方法で答えを迫らないと約束した。


 外では、風が窓を鳴らしている。


 二人の間に残った問いを、どちらも手放さなかった。

更新 月曜日/木曜日 20:00


X更新情報/活動報告など発信してます

たまにイラストも

https://x.com/REANNEcreative

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。