第71話 〜選ぶということ〜
夜の屋上に、ランタンの灯りが揺れていた。
アンリとネレアが並んで立っている。闇の中では、その小さな灯りだけが目印だった。
空気がかすかに歪む。
次の瞬間、二人が現れた。
屋上へ足が触れる。着地は静かだった。
繋いでいた手が、ゆっくりと離れる。
背にはまだ六枚の羽が残っていた。白い輪郭は端から崩れ、細かな光の粒となって夜へ溶けていく。
最後の一枚が消えたとき、フィーラの身体が大きく揺れた。
――そして、静寂が壊れた。
フィーラが泣いていた。
声を抑えることもできず、息を吸うたびに泣き声が引き攣る。涙は次から次へと溢れ、細い肩が何度も大きく跳ねた。
まるで子供だった。
大切なものを失いかけて、怖かったとも苦しかったとも言えず、ただ泣くことしかできなくなった子供のようだった。
足元も定まらない。立っているだけで精一杯になっている。
エルドウルフはフィーラへ一歩踏み出しかけ、止まった。
胸の奥がひきつり、短い咳が漏れる。振動が胸の脇へ響き、ほんのわずかに眉が寄った。
呼吸は戻りつつあったが、まだ浅い。
アンリの顔から、いつもの軽さが消えた。
泣き続けるフィーラと、浅い呼吸を繰り返すエルドウルフ。そのあいだを視線が一度だけ往復する。
ネレアはすでにフィーラへ向かっていた。アンリもエルドウルフとの距離を詰める。
そのとき、ランタンの光が右耳を照らした。
耳の縁から流れた血が一筋、首筋を伝い、外套の襟へ落ちている。まだ止まっていなかった。
「エルドウルフ。息は」
「問題ない」
「そうは見えない。それに、耳も切れてるぞ」
エルドウルフはそこで初めて耳元に触れ、離した指先についた赤を見た。
「……気づいてなかったのか」
「大したことじゃない」
「大したことかどうかは聞いてない」
アンリはもう一度、泣き続けるフィーラを見た。
「何があった」
「後で話す」
「今じゃないんだな」
「会議だ。行く」
エルドウルフは指先についた血を無造作に拭い、階段へ向かった。
背筋を伸ばし、歩幅も崩さない。浅い呼吸も、耳元を濡らす血も、足取りには出さなかった。
その背を、フィーラは追えなかった。
手を伸ばしたまま、何もない宙を掴んでいる。
ネレアが横へ立ち、そっと肩に触れた。
その瞬間、フィーラの膝から力が抜けた。
崩れ落ちる身体をネレアが抱き止める。支える腕に触れたことをきっかけにしたように、泣き声がさらに大きくなった。
アンリはもう一度二人を見る。
ネレアがフィーラをしっかり抱き支えていることを確かめると、何も言わず視線を切った。
階段へ向いたときには、エルドウルフはもう扉へ手をかけていた。
アンリを待つ様子も、振り返る様子もない。
扉が開き、廊下の光が屋上へ細長く差し込む。白金の髪がその中で淡く浮かび、すぐに向こうへ消えた。
アンリもその後を追う。
扉が閉じると、廊下の光も消えた。
屋上には揺れるランタンと、夜へ溶けていくフィーラの泣き声だけが残った。
部屋へ戻るまでのあいだも、フィーラはまともに歩けなかった。
足は何度ももつれ、涙で前もよく見えていない。ネレアに支えられ、半ば引かれるようにして廊下を進んだ。
部屋ではサラとルイーズ、それに数人の使用人たちが落ち着かない様子で待っていた。誰もが何かをしようとして、それでも何をすればよいのか分からずにいる。
ネレアだけが静かだった。
「湯を使いましょう」
拒む余裕もなく、フィーラは手を引かれるまま浴室へ向かった。
白い湯気の中、温かな湯に浸かっても、頬を伝う涙は途切れなかった。ときおり喉が詰まり、そのたびに肩が小さく震える。
ネレアは何も訊かなかった。
背に湯をかけ、濡れた髪を丁寧に梳き、力の入らない身体を静かに支え続けた。
やがて部屋へ戻り、椅子に座らされる。
髪が乾き、群青の髪が肩へ落ちる頃になっても、フィーラの涙は止まらなかった。
ふらりと立ち上がり、そのまま縋るようにネレアへ抱きつく。
ネレアは黙って受け止め、背へ腕を回した。頬を伝う涙を手にしていた布で拭いながら、そのままフィーラを支えて寝台へ腰を下ろす。
フィーラは腕をほどかないまま、崩れるようにネレアの膝へ身を預けた。
もう泣き声はほとんど聞こえない。
疲れ切った呼吸に合わせ、肩だけが小さく揺れている。
ネレアは背に手を置き、ゆっくりと頭を撫でた。
サラとルイーズは少し離れた場所で立ち尽くしていた。声をかけることも、近づくこともできない。
部屋には灯りと、フィーラのかすかな呼吸だけが残った。
扉は叩かれないまま、静かに開いた。
エルドウルフが灯りの中へ入ってくる。
その姿を認めた瞬間、フィーラの肩がわずかに強張った。
右耳から襟元へ、乾きかけた血が細い跡を残している。外套の肩口にも、黒ずんだ染みが広がっていた。
背筋も歩幅も崩れていない。
けれど、近くまで来れば、呼吸がまだ浅いことは隠せなかった。
サラとルイーズが息を呑む。
ネレアはフィーラを支えながら、ゆっくりと寝台へ座らせた。すぐには立ち上がらず、その顔を覗き込む。
フィーラの視線はエルドウルフへ向いたまま、動かなかった。
そこでようやくネレアは立ち上がった。
エルドウルフが何も言わず、小さく頷く。
それだけで意図を受け取ったネレアは、サラとルイーズへ目配せした。
三人は静かに一礼し、衣擦れの音だけを残して部屋を出ていく。
最後にネレアが一度だけ振り返った。
フィーラを見て、それからエルドウルフへ静かな視線を向ける。
何も言わない。
扉が閉じた。
部屋には灯りと、二人の呼吸だけが残った。
フィーラは寝台の端に座っていた。
泣き疲れているはずなのに、涙はまだ雫となって頬を伝っている。
エルドウルフは少し離れた椅子を引き、手を伸ばせば届く距離へ腰を下ろした。
沈黙の中で、フィーラの指がシーツを握る。
「……ごめんなさい」
かすれた声だった。
エルドウルフはすぐには答えなかった。
「俺も、謝りに来た」
フィーラが顔を上げる。その目から、また涙が落ちた。
「お前を怖がらせた。あれは、俺が悪かった」
「じゃあ……」
唇が震える。
「どうして、手を離したの」
エルドウルフは視線を逸らさなかった。
「お前が、分からないまま話を終わらせようとしたからだ」
「わたし、守ろうとした」
「分かってる」
「エルドウルフ、危なかった」
「ああ」
「みんな、剣持ってた」
「ああ」
「だから――」
「それでもだ」
フィーラの言葉が止まる。
エルドウルフは静かに息を吐いた。
「守ろうとしたことを、責めているんじゃない」
黄金の瞳が揺れる。
「でも、怒った」
「俺が選んだことを、お前の力で変えたからだ」
「……わからない」
「そうだろうな」
責める声ではなかった。
「俺は、あそこで起きることを承知して席に着いた。危険も、その先にあるものも、自分で引き受けると決めていた」
フィーラの指がシーツを強く握る。
「わたしは、エルドウルフを守りたかった」
「知ってる」
「死んだら、いや」
「ああ」
「傷つくのも、いや」
エルドウルフはしばらく黙った。
「でも、俺は王になる」
フィーラが顔を上げる。
「俺が選んで、俺が背負う」
その声は静かだった。
「お前の力で、何もかも無かったことにはできない」
「……守ったら、だめなの?」
「違う」
短く答える。
「守ってほしくないわけじゃない」
「じゃあ、どうして?」
エルドウルフは言葉に詰まった。
守ることと、消すことは違う。
選ぶことと、選ばずに済ませることも違う。
共に考えてほしい。
自分が選んだ先に残るものまで、一緒に見てほしい。
言葉にすれば、それだけのはずだった。
「俺が見ているものを、お前にも見てほしい」
フィーラは涙に濡れた目で、まっすぐエルドウルフを見た。
「見てるよ」
迷いのない答えだった。
「子供たちも、街も、ちゃんと見てる。みんな、すき」
「ああ。知ってる」
否定するつもりはなかった。
「じゃあ、なにがだめだったの?」
答えようとして、また言葉に詰まる。
フィーラが街を見ていないわけではない。
子供たちの名を覚え、人の営みを喜び、明日を楽しみにしている。
それでも、自分を守ると決めた瞬間、そのすべてが選択の外へ置かれた。
なぜ、それが彼女の中で矛盾しないのか。
エルドウルフには、まだ分からなかった。
「……その先だ」
「そのさき?」
「ああ」
伝えたいことはいくつもあった。
だが、どの言葉も足りない気がした。
「俺を守ると選んだ、そのあとに何が起きるのか」
フィーラは黙っている。
「誰が何を失うのか。何が残るのか」
静かな声で続けた。
「俺は、選んだあとに残るものまで背負わなければならない」
「エルドウルフが?」
「ああ」
目を逸らさない。
「だから、選ぶ前に、その先まで考えてほしい」
返事はなかった。
黄金の瞳がゆっくり伏せられ、シーツを握っていた指がわずかに動く。
何を考えているのか、エルドウルフには分からなかった。
広場で笑っていた子供たちか。
毎日、少しずつ形を変えていく街か。
それとも、まだ自分だけを見ているのか。
フィーラは、分かったとも、分からないとも言わなかった。
ただ今度は問いから目を背けず、そのまま黙っていた。
エルドウルフも、それ以上は求めなかった。
今夜、答えを出せることではない。
それでも、この問いだけは彼女の中に残したかった。
長い沈黙のあと、フィーラが小さく口を開いた。
「……もう、あんなことしないで」
エルドウルフは答えなかった。
フィーラの指が、またシーツを強く握る。
「わたしが、わからなくても」
かすれた声だった。
「手、離さないで」
そう思わせたのは、自分だった。
分からなければ、また同じ恐怖を与えられる。
その不安を残したままでは、フィーラが何を考えても、自分を失わないために選んだ答えにしかならない。
「ああ」
エルドウルフはまっすぐにフィーラを見た。
「あのやり方は、もうしない」
「……約束?」
「ああ。約束する」
フィーラの顔が歪んだ。
次の瞬間、寝台から立ち上がり、エルドウルフの胸へ飛び込む。
外套を掴み、強く身体を寄せた。
胸の脇に痛みが走る。
エルドウルフは一瞬だけ動きを止めたが、何も言わず、震える背へ腕を回した。
「こわかった」
「ああ」
「わたしが、わからなくても……手、離さない?」
「離さない」
フィーラはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、外套を掴んだ指からは力を抜かなかった。
何が正しかったのか。
何を選ぶべきだったのか。
今夜、答えは出なかった。
フィーラはまだ、エルドウルフを何よりも大切に思っている。
エルドウルフも、自分の選択を譲るつもりはない。
それでもフィーラは問いに背を向けず、エルドウルフも、もう二度と同じ方法で答えを迫らないと約束した。
外では、風が窓を鳴らしている。
二人の間に残った問いを、どちらも手放さなかった。
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