第70話 〜手を離した夜〜
夜の空は深く澄んでいた。
ラクトゥの灯りが、はるか下で星のように滲んでいる。
風だけが強く、冷たい。
フィーラは機嫌がよかった。
エルドウルフと一緒にラクトゥまで来られた。
サリムにも会えた。
サリムは、朝に聞いたとおり、ニカの領主だった。
エルドウルフが一人で会いに行ったと聞いた時は、フーガが少し怖い顔をしていたけど、ちゃんと会えて、ちゃんと話していたと思う。
何を話していたのか、フィーラには難しいところもあった。
だけど、サリムとエルドウルフの間にあった硬いものが、初めより少しだけやわらかくなったように見えた。
それが嬉しかった。
サリムにお土産ももらった。
割れたらいけないから、フーガに預けた。
そのフーガには、エルドウルフをよろしくと頼まれた。
自分はちゃんと役に立てたのだと思う。
それに、危ない人間は消した。
エルドウルフを傷つけようとした者はいなくなった。
だからフィーラは、今日のことを、うまく終わったのだと思っていた。
その沈黙を破ったのは、エルドウルフだった。
「朝した約束、覚えてるか」
振り返ったエルドウルフの顔は、笑っていなかった。
夜風が強い。
ラクトゥの市街は、すでに遠い。
その外れから闇へ散るように、家々の灯りが点々と見えていた。
街を離れた土地にも、人は暮らしている。
朝のことを思い出す。
ラクトゥへ連れて行ってほしいと頼んだ時、エルドウルフは言った。
人と会う。
同席して構わない。
ただし、今日は何があっても見ているだけ。
力は使わないでほしい、と。
「……見てるだけ」
フィーラは答えた。
短い沈黙。
その沈黙が、冷たかった。
「なら、あれは何だ」
声は低く、静かだった。
「危なかったから」
即答だった。
「危なくない」
「剣、抜いた」
「抜かせたんだ」
言葉がぶつかった。
風が二人の髪を乱す。
フィーラの指に力がこもる。掴んでいるエルドウルフの手首が、手袋越しに硬かった。
「でも危なかった」
「危なくする必要があったんだ」
「どうして」
エルドウルフの喉が、小さく動いた。
「戦争を起こさないためだ」
一瞬、間が空いた。
フィーラは瞬きをした。
戦争。
それは知っている。
人がたくさん死ぬこと。祈りがたくさん集まること。大地が赤くなること。
でも、今ここにいるのはエルドウルフだった。
剣を向けられていたのは、エルドウルフだった。
「あの場でギルタンと重鎮をまとめて殺せば、それはハンサンの内輪揉めでは済まない」
エルドウルフの声が、さらに低くなる。
「しかも俺がいた。シュバリエの王太子が密談の場にいて、その場でハンサンの王族と重鎮が死ぬ。そう見られる」
フィーラの指が強張った。
「違う。わたしが殺した」
「誰が信じる」
鋭く返された。
「誰が、神が勝手にやったなどと信じる。誰が、シュバリエに責任はないと納得する。誰が、国境に兵を置かずに済ませる」
声が、少しずつ熱を帯びていく。
「ハンサンが動く。シュバリエが動く。ミッドガロンは隙をついて侵攻する。火は一度ついたら、誰が最初だったかなんて関係なくなる」
「でも」
「でもじゃない」
初めて、エルドウルフの声が強くなった。
フィーラの胸が跳ねる。
「あれは、あの場で終わる話じゃない。お前が見ていたのは、剣を抜いた人間だけだ」
「だって、切ろうとしてた」
「切らせるつもりはなかった」
「傷つくかもしれなかった」
「傷くらいで済むなら安い!」
その声が夜に叩きつけられた。
フィーラは目を見開く。
エルドウルフの顔が、初めてはっきり怒っていた。
冷たい怒りではない。抑えて、抑えて、それでも内側から焼けてくるような怒りだった。
「俺が少し傷つくことと、その後に国境で何万人も死ぬことを、同じ皿に乗せるな」
「同じじゃない」
「分かってないから言っている!」
エルドウルフがフィーラを引き寄せた。
風が二人の間で裂ける。
「俺一人を守るために、後で死ぬ人間を見捨てるな」
「見捨ててない!」
「見ていないんだ!」
政を語るときの、整った言葉ではなかった。
考えるより先に、声が出ていた。
その言葉に、フィーラの喉が詰まった。
ニカの灯りが、はるか下で揺れている。
遠い。
小さい。
けれど、そこに人がいる。
「政治は、目の前にいる一人だけを守るものじゃない。まだ顔も知らない人間が、明日も生きられるようにするものだ」
「わからない」
「だから、見ていないと言った!」
エルドウルフは目を逸らさなかった。
「お前は、俺だけを見て、俺を選んだ」
フィーラの手が震えた。
「でも俺は、その選択の先にいる人間まで背負わなければならない」
エルドウルフの声が低く沈む。
次の言葉だけは、押し殺しきれなかった。
「今だけ俺を守って、その後で何万人死んでもいいのか!」
「いい!」
即答だった。
金の瞳が涙に揺れる。
息も乱れている。
それでも、その答えだけは少しも揺らがなかった。
「じゃあ、ハンサンもミッドガロンも、わたしが全部こわす!」
息を詰まらせる。
「全部、全部こわす!」
泣きながら、声を張り上げる。
「エルドウルフが死ぬよりいい!」
世界が止まった。
胸の奥から、すうっと熱が引いていく。
広場で笑う子供たち。
覚えた名前。
好きになった街。
これから始まる、いくつもの明日。
フィーラが大切にしてきたものは、どれも嘘ではなかった。
それでも、自分一人と並べた瞬間、すべて捨てられる。
――違う。
並べられてすらいなかった。
同じ皿に乗せるなと言ったのは、自分だった。
フィーラは本当に、同じ皿には乗せていなかった。
彼女にとって俺だけが、最初から別の場所にいた。
風の音が遠のく。
ラクトゥの灯りも、星も、夜も、意味を失った。
手首を掴む力が、反射的に強くなる。
「……お前」
その先の言葉が出なかった。
何か言わなければならない。
叱らなければならない。
止めなければならない。
それなのに、うまく言葉にならなかった。
「本気で、言ってるのか」
「うん」
フィーラは泣いていた。
けれど、迷ってはいなかった。
「エルドウルフが生きてるなら、それでいい」
エルドウルフの指に、さらに力がこもる。
「俺は守られるために王になるんじゃない」
「守らないの?」
「違う。俺は危険に立つ」
「だめ」
即答だった。
「俺の仕事だ!」
声が夜空に弾けた。
「俺の国だ。俺の戦いだ。俺の判断だ!」
「守っただけ!」
「俺の判断を奪うな!」
「奪ってない!」
「奪ったんだ!」
言い切ったあと、エルドウルフの呼吸が乱れた。
胸が激しく上下している。
フィーラの唇が震える。
「わからない」
小さな声だった。
「わからない、わからない、わからないよ!」
涙が滲む。
「エルドウルフが傷つくのは、だめ!」
叫びだった。
エルドウルフの瞳が揺れた。
次の瞬間――
エルドウルフは、掴んでいた手を振り払った。
フィーラは動けなかった。
何が起きたのか、分からない。
さっきまで掴んでいた手が、ない。
白金の髪が、視界の下へ落ちていく。
「……え」
暗い。
顔が見えない。
伸ばした手は、何も掴めなかった。
その姿は、夜の底へ小さくなっていく。
そして――見えなくなった。
「いや――!!」
絶叫が夜を裂いた。
その声を置き去りにして、エルドウルフは落ちていく。
髪が激しく風に煽られる。
息が奪われ、音が遠のく。
世界が闇へ沈んでいく。
フィーラは落ちるというより、
重力そのものを踏み外した。
空気が軋む。
神力が爆ぜる。
距離が消える。
闇の中へ消えた白金が、再び目の前に現れた。
フィーラはさらに速度を上げる。
落ちているエルドウルフと、同じ速さまで。
腕を伸ばす。
背中へ身体を寄せ、そのまま両腕を回した。
掴んだ。
温かい。
確かに、ここにいる。
フィーラは背後からエルドウルフを抱え込んだまま、すぐに力を解放した。
だが、二人の身体をその場で止めはしない。
急に止めれば、落下の勢いがそのままエルドウルフの身体へ返る。
重力を少しずつ歪める。
長い距離を使い、落下の速さを削っていく。
二人はなお闇へ引かれていくように見えた。
けれど、落下の速さは、確かに落ちていた。
風が耳元で唸る。
それでも、フィーラの腕は緩まない。
さらに力を強める。
速い。
まだ速い。
それでも、少しずつ。
風の唸りが低くなっていく。
その途中。
フィーラの腕の中で、エルドウルフの身体がわずかに強張った。
落下はさらに緩む。
やがて、沈むような速度へ変わり――
止まった。
夜空の中で、二人の身体だけが不自然に引き留められていた。
フィーラは背後から抱き締めたまま、顔を背中へ押し当てる。
温かい。
鍛えられた身体の感触がある。
――生きている。
「……よかった」
声にならない。
涙が溢れる。
けれど落ちない。
歪んだ重力にほどけた滴が、ゆっくり宙へ漂う。
月光を受け、小さな光の粒になる。
「間に合った……間に合った……」
腕がさらに強く締まる。
エルドウルフの身体は、まだ強張っていた。
腕は垂れたまま動かない。
呼吸が――ない。
一拍。
二拍。
三拍。
やがて胸が、ぴくりと震えた。
空気を奪い返すように、肺が開く。
「……っ、は」
何度か浅い呼吸を繰り返し、エルドウルフはようやく自分の息を取り戻した。
振り払った手の感触が消えない。
衝動から始まった。
だが、無計算ではなかった。
フィーラなら必ず追いつく。
必ず俺を助ける。
フィーラが、手を離された痛みを知る。
俺を失うかもしれない恐怖を知る。
そして、この先も俺が同じように危険へ立ち、その手を離すかもしれないと理解する。
そうすれば、次は。
俺を守るために、俺の判断を奪おうとはしないかもしれない。
そこまで、分かっていた。
彼女の手は必ず届くと信じていた。
その確信ごと、俺へ向けられた信頼と、失いたくないという思いを利用した。
王のすることじゃない。
彼女を守ると決めた者のすることでもない。
分かっている。
それでも、あのときは、ほかに方法が浮かばなかった。
胸の前に回る腕が震えている。
呼吸が乱れている。
泣いている。
俺のために。
ただそれだけの理由で。
違う、とすぐに思った。
こんなふうに怯えさせて、俺のそばへ縛りつけたいわけじゃない。
恐怖で止めても、フィーラが俺の背負うものまで選んだことにはならない。
俺だけを選んだままになる。
――もしあの場で全員を殺していたら。
彼女はきっと、迷わない。
俺のためなら、世界ごと壊す。
そういう存在だ。
胸の奥が重く沈む。
嬉しい。
同時に、怖い。
守られるために王になるわけじゃない。
だが――守られない王でありたいわけでもない。
一緒に生きるなら。
同じ高さに立つなら。
俺だけではなく、
俺が背負うものごとを、彼女に選ばせなければならない。
どうすれば伝わる。
俺が危険に立つことも。
その先で生きる、まだ顔も知らない人間のことも。
どうすれば、フィーラ自身のものとして選ばせられる。
考えはまとまらない。
ただ、背中の温もりだけが確かだった。
深く息を吸おうとして、すぐに咳がこぼれる。
「……っ」
胸の脇に鋭い痛みが走り、反射的に息を止めた。
背中越しに振動が伝わる。
フィーラの指がさらに食い込む。
「ごめんなさい」
額を肩に押し付ける。
声が崩れる。
「怒らせるつもりじゃなかった」
息が震えている。
「いなくなるの、だめ」
抱き締める腕は、子供のように必死だった。
夜は静かだ。
二人だけが空に浮いている。
エルドウルフは、まだ振り向かない。
胸に回された腕。
震えている指。
エルドウルフはゆっくりと息を吸った。
胸の前に重なっている彼女の手を、片手で掴む。
振り向かないまま、ぎゅっと力を込めた。
言葉の代わりだった。
生きている。
無事だ。
それだけを伝えるための握力。
背中越しに、息を呑む気配がした。
抱きしめる腕の力が、ほんの少し強くなる。
夜風が二人の間を通り抜ける。
エルドウルフは短く言った。
「帰ろう」
それ以上は言えなかった。
フィーラは答えない。
ただ、腕の力だけで頷いていた。
夜の空を、二人は城へ向かった。
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