第69話 〜王太子の段取り〜
評定が終わったころには、夜が完全に街を覆っていた。
ヴァルニエ商会の屋敷の灯りだけが、石畳に淡く滲んでいる。
遠くでは、川を渡る渡し船の灯火がゆっくり揺れていた。
ハンサン勢の一団が、無言のまま馬へ向かっていく。外套の襟へ手をやり、何もない喉元を確かめる者がいた。
誰も屋敷を振り返らなかった。
門が閉じる音が、静かに夜へ溶ける。
ハンサン勢を見送ると、エルドウルフたちはリモージュ家のタウンハウスへ向かった。
夜のラクトゥは静かだった。
川霧が低く流れている。
石畳を馬蹄が叩く。
川沿いの灯りが水面へ揺れ、閉まり始めた店々の窓から橙色の光が漏れている。
夜道を進む一行を、呼び止める者はいない。
やがて、リモージュ家の紋章を掲げた屋敷が見えてくる。
一行が門前へ着くより早く、重い門扉が内側へ開き始めた。
使用人たちが慌ただしく動き出した。
王太子の来訪。
本来なら執事が出迎え、客間を整え、茶の支度が始まる。
「若様、客間の準備を――」
「いらない」
フーガが即座に言った。
「殿下は間もなくお発ちになる。大袈裟にするな」
使用人たちが足を止める
「承知いたしました」
執事が頭を下げた。
「茶もいらない」
フーガは続ける。
「居間を借りる。誰も近づけるな」
「かしこまりました」
王太子が来たとは思えない簡素な対応だった。
だが、リモージュ家の使用人たちは慣れている。
若様は、必要とあれば徹底して儀礼を尽くし、不要と見れば一切を切る。
一度判断が下れば、使用人が気を利かせる余地はない。
王太子もそれを承知している。
そして彼らは、余計なことを聞かない。
三人はそのまま奥の居間へ通された。
扉が閉じられ、案内役の足音が廊下の先へ遠ざかっていく。
ほどなく、行き交っていた使用人たちの気配も消え、居間は外から切り離されたような静けさに包まれた。
燭台の火が、小さく爆ぜた。
フーガはようやく肩の力を抜いた。
だが、表情にはまだ硬さが残っている。
長椅子へ腰を下ろしたエルドウルフにも、評定を終えた安堵はなかった。
先ほどから、必要な言葉しか口にしていない。
「……脅してほしいとは、頼まれていた」
エルドウルフが、顔を上げる。
「ギルタン殿下や取り巻きが生温いことを言い出したら、後へ引けなくなるまで追い込んでほしい――そう言ってきたのは、ヘルドラたちだ」
フーガは向かいの椅子へ座らず、その背に片手を置いた。
「俺が煽り、向こうが怒る。騎士が剣へ手をかけたところで、軍部が止める。そこまでは、事前に決めてあった」
「そうだな」
「そうだな、じゃない」
フーガはエルドウルフの隣に座る小柄な騎士を一度だけ見た。
それから、言葉を選ぶように続ける。
「鍔が鳴るところまでは織り込み済みだった。だが、盤面そのものを壊す話はしていない」
フィーラが、フードの奥で小さく首を傾げる。
エルドウルフには、その意味が分かっていた。
「分かっている」
「本当に分かっているのか?」
フーガの視線が、まっすぐエルドウルフへ戻る。
「そもそも、お前が盤上へ出てくること自体、筋書きにはなかった」
「必要だと思った」
「来るなら先に言え。いや、来るな」
フーガはきっぱりと言い切った。
「俺で足りた」
「足りていただろうな」
「なら、なぜ来た」
「急ぐことにした」
あまりに短い返事だった。
フーガの指が、椅子の背へ食い込む。
光を放ったのが誰なのか、フーガは知っている。
それでも、その視線はエルドウルフから外れなかった。
「お前があの場を収め損ねていたら、ギルタン殿下も、軍部も、貴族の中枢も盤上から消えていた。盤面ごとひっくり返り、アルマーまで空くところだったんだぞ」
エルドウルフは燭台の火へ視線を落としたまま、答えない。
フィーラは、フードの奥から二人を見比べていた。
誰が盤上から消えると、なぜアルマーが空くのか。
そして、アルマーが空けば何が起こるのか。
フィーラには分からない。
けれど、フーガがこうしてエルドウルフへ文句を言うのは珍しくなかった。
自分へ向けられた話だとは思っていないらしく、膝の上に揃えた手は落ち着いている。
むしろ、背筋はいつもより少しだけ伸びていた。
「分かってる」
返事は遅く、声にも言い争うような熱がなかった。
フーガが黙れば、エルドウルフも黙る。
声をかけられるたびに、遠くへ向いていた意識をこちらへ戻しているようだった。
その薄い反応が、フーガの神経を逆撫でする。
「分かってるなら、勝手に盤上へ出てくるな。お前が一つ動くだけで、ほかのすべてが動くんだぞ」
エルドウルフは何も言わなかった。
沈黙の中で、燭台の火がパチリと爆ぜる。
フーガはなおも椅子の背を掴んでいた。
言葉を重ねようとして、やめる。
危険を理解していないわけではない。
あの場で何が起こりかけたのか、エルドウルフは誰より早く悟っていた。
だからこそ、光も死も自らの掌中にあるように振る舞い、最悪の事態だけは押しとどめた。
結果が出てしまった以上、今ここでいくら怒鳴っても、起きたことは戻らない。
ハンサン側はすでに後へ引けなくなり、ギルタンを担ぐ者たちの覚悟も、ヘルドラたちの決意も、予定していた以上に固まった。
危うさと成果は、別に数えるしかない。
フーガは椅子の背を掴んでいた指を、一本ずつほどいた。
そのまま椅子を引き、重く腰を下ろす。
「……結果だけを見れば、予定以上だ」
低く吐き出し、そこで言葉を切った。
「だから始末が悪い」
エルドウルフは返さなかった。
フーガも、しばらく何も言わなかった。
まだ腹の底には、吐き出しきれないものが残っている。
だが、この話は帰ってから改めて詰めればいい。
今夜はこれ以上、何も起こさせない。
あとはこの二人を帰せば終わる。
そう思っていた。
エルドウルフは外套の襟を整えた。
「三ヶ月は進んだ」
フーガの動きが止まった。
「三ヶ月?」
灯りの中で、王太子の横顔は驚くほど静かだった。
「ハンサンの前に、ニカの領主に会ってきた」
フーガはすぐには言葉を返さなかった。
今聞いたものを、頭の中でもう一度確かめるような沈黙だった。
「……誰だって?」
「サリム・ド・ニカ」
椅子の脚が、床を擦った。
フーガはゆっくりと立ち上がった。
視線をエルドウルフへ据えたまま、動かさない。
「待て」
声は低かった。
先ほどまでの苛立ちを、さらに深い場所へ押し込めたような声だった。
「俺の知らない予定だな」
「そうだな」
エルドウルフの返事は、先ほどと同じ高さだった。
フーガの顎が、わずかに動く。
「そうだな、じゃない」
怒鳴ってはいない。
それでも、室内の空気が張り詰めていく。
「お前、一人で行ったのか」
「二人だ」
フーガの視線が、エルドウルフの隣に座るフィーラへ滑る。
フィーラは、その視線を正面から受け止めた。
サリムに会えたことを尋ねられていると思ったのか、どこか誇らしげな顔をしている。
「姫さままで連れて行ったのか」
フィーラが迷いなく頷いた。
「人とあうとき、同席していいって」
うまく役目を果たしたことを報告するような返事だった。
フーガはフィーラからエルドウルフへ、ゆっくりと視線を戻した。
先ほど押し込めたばかりの怒りが、今度は抑えの利かない熱となって腹の底からせり上がってくる。
「……お前、ふざけんなよ」
エルドウルフは答えない。
「王太子が先触れも出さず、護衛もつけず、城門の列へ並んだのか?」
「正式に申し入れても、サリムは出てこない」
返す声は、まだ静かなままだった。
「だから俺たちが、商会から道を作ってたんだろうが!」
「待てなかった」
その一言で、フーガの顔から最後の抑制が消えた。
「だからって、全部飛び越えて自分で城門へ行く奴があるか!」
フーガの声が、居間へ響いた。
エルドウルフは姿勢すら変えない。
「王印環と、息子の手紙があった。門前まで行けば、無視はできない」
「策の成否を怒ってるんじゃない!」
フーガは一歩で距離を詰め、そのままエルドウルフの襟を掴んだ。
引き寄せられても、エルドウルフは抵抗しなかった。
ただ、目の前まで来たフーガを静かに見返す。
「本人が出てこないからって、自分から門前へ立つ王太子がどこにいる!」
「ここにいる」
「そういうところだぞ!」
フーガの腕に力がこもる。
「何かあったらどうする」
「何もなかった」
「結果論だ!」
声を荒らげるフーガとは反対に、エルドウルフの温度は上がらない。
その静けさが、フーガの怒りへさらに熱を注いだ。
「俺たちが何のためにいると思ってる」
エルドウルフは答えなかった。
「俺たちは、お前を死なせないためにいるんだ!」
空気が止まった。
フィーラが、ゆっくり顔を上げる。
エルドウルフは短く息を吐いた。
「分かってる」
「分かってる顔じゃねえ」
フーガの手は離れなかった。
エルドウルフは襟を掴む手首へ軽く触れた。
「だが、先に仕事だ」
フーガはしばらく睨みつけていたが、やがて乱暴に手を放した。
エルドウルフは外套のポケットへ手を入れ、折り畳まれた紙束を取り出す。
「会談の要約だ。五枚ある」
フーガは乱暴に受け取った。
紙の擦れる音がやけに大きく聞こえた。
灯りの下で文字を追う。
整った筆跡。
びっしりと埋まった行。
余白はほとんど無い。
読み進める。
フーガの眉間に深い皺が刻まれる。
紙を持つ手に力が入った。
さらに読む。
最後まで目を通す。
怒りは消えていない。
だが、先にやるべき仕事が増えていた。
「……全部終わらせてきたのか」
「下準備だけだ」
そのとき、エルドウルフが左耳に触れた。
黄金の王印環が外れる。
それは本来、王太子が常に身につける証だった。
剣を握る邪魔にならぬよう、紋章指輪の代わりに誂えられた“王太子の印”。
燭台の灯りを受けて、静かに光った。
フーガの目が見開かれる。
「おい、何してる」
「今朝、門兵に見せてある」
「そういう話じゃない」
黄金が灯りを返す。
「これを見せれば話は早い。明日行け」
差し出されたそれを、フーガは反射的に受け取っていた。
重みが掌に残る。
王太子の印。
それを他人に預ける意味も、重さも分かっている。
だから余計に腹が立った。
「簡単に外すなよ……」
スカーフに包み、胸元へしまった。
「約束は九時だ。段取りはしてある」
フーガは額を押さえた。
——殴りたい。
だが、仕事はもう動いていた。
フーガは目を閉じ、長く、長く息を吐く。
怒りは胸の奥へ押し込めた。
「……分かった。話を進めて帰る」
フーガは二人を見た。
言いたいことは、まだ残っている。
だが、もう時間だった。
「じゃあ行け」
ぶっきらぼうな声だった。
エルドウルフは小さく頷いた。
「頼んだ」
「任せろ」
三人は居間を出た。
廊下に人影はない。
燭台の火だけが揺れている。
使用人たちの気配はない。
誰も見ない。
誰も聞かない。
命じられた役目だけを残して、屋敷は夜の静けさへ沈んでいる。
リモージュ家らしい仕事だった。
階段を上り、最上階を抜ける。
屋上へ出た瞬間、湿った夜風が頬を撫でた。
運河から流れた霧が低く漂っている。
橋の灯りが水面に揺れる。
幾筋もの水路が夜の街を縫い、ラクトゥの輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
フーガは腕を組む。
「帰ったら報告書を書け」
「書く」
「全部だぞ」
「分かってる」
その返事だけで、怪しい。
だが今さらだ。
フィーラが外套の留め具へ手を伸ばした。
布が肩から滑り落ちる。
夜気が揺れた。
背中の空間が白く満ちる。
六枚の羽。
羽ばたかない。
ただ、そこに在る。
月光を受けた白が霧の中へ淡く浮かび上がる。
雪とも絹とも違う。
光を抱いたまま形になったような白だった。
ラクトゥの灯りが羽の縁で砕ける。
人ではない。
そう思う。
数刻前、彼女は黄金の槍を生み出し、人を殺した。
喉元へ死を突きつけた。
闘神フェギスノーラ。
間違いなく神だった。
だが。
エルドウルフが手を差し出す。
フィーラが迷いなく取る。
重なった指を見ていると、そんなことも少しだけ遠くなる。
「姫さま」
フィーラが振り返る。
「こいつをよろしく頼みます」
「うん」
金色の瞳が笑った。
「まかされた」
二人の身体が浮く。
音はない。
霧の上へ。
白い羽は夜空へ溶けていく。
やがて見えなくなった。
フーガは空を見上げたまま頭を掻く。
「帰ったら殴る」
誰も聞いていない。
明日は忙しい。
王太子が勝手に三ヶ月進めた仕事の後始末が待っていた。
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