第66話 〜修復という名の反逆〜
リモージュ家は、シュバリエ王国でも指折りの古参家門である。
西南辺境を預かり、王国の外縁を支えてきた辺境伯家。
二代前には王家の傍系から姫を迎え、その血にも連なっている。
だが、第一王妃の実家であるフリヒア家とは、ドランヴェール川を挟んで長く争ってきた。
停戦も、条約も、婚姻もあった。
それでも、領境に積もった恨みが消えたことはない。
その二つの家の均衡を変えたのが、リモージュ家の嫡子フーガだった。
若くして王都へ呼ばれ、エルドウルフの馬術と槍術の指南役となる。
やがて王太子推挙の中核を担い、リモージュ家と王家を再び強く結びつけた。
王太子の言葉を預かり、国境の外で交渉する。
それを任せられる数少ない人間の一人が、フーガ・ド・リモージュだった。
◇◇
シュバリエ王国ニカ領、ラクトゥ。
北はハンサン、東はネルマ。
二つの国境に挟まれたこの街は、古くから交易で栄えてきたニカ領の領都である。
ガーネットとサファイアの産地としても名高く、ネルマを経由してミッドガロン人やセルリア人も往来する。
多国籍の商人が集う、王国屈指の商業都市だった。
街の東を流れる大河セシール。
幅広く、中洲が多い。水路が複雑なため、大型船は通れない。
ゆえに――橋が命綱だった。
ネルマ側には長大で堅固な大橋。
ハンサンとの国境は支流で隔てられ、渡し船が往来している。
渡河地点が限られているため、国境警備は比較的容易だった。
だが、多国籍の商人が絶えず行き交う街では、旅人が一人増えたところで目立たない。
諜報活動にも、これ以上ないほど都合が良かった。
リモージュ家とロワール家の諜者が、城下のどこかで何食わぬ顔をして暮らしている。
そのこと自体は、公然の秘密だった。
しかし、誰がそうなのかを知る者は少ない。
その拠点の一つが、城下で食肉を扱うヴァルニエ商会である。
表向きは一商会にすぎないが、その実、リモージュ家が裏で所有している。
今夜、その屋敷に人が集まっていた。
ハンサン側の商人に扮した一団、二十名。
シュバリエ側の商人に扮した一団、二十名。
そして、軽装の旅人が二人。
屋敷の外周には十名。
内部の要所には九名の警護が置かれている。
広間へ入ったのは、二十三名だった。
どちらの陣営も商人の装いをしている。
だが、衣服の下に隠しきれない体格も、周囲へ向ける視線も、商いだけで生きてきた者のものではなかった。
長机の南側には五脚。
北側には八脚の椅子が並んでいる。
南側の中央に座るのは、シュバリエ王国王太子エルドウルフ。
その右隣には、フーガ・ド・リモージュ。
さらに端の席に、リモージュ家の家臣が一人。
エルドウルフの左隣には、バスティアン・モローが座っていた。
表向きはヴァルニエ商会の支配人。実際にはフーガの直属として、ハンサン側との連絡を担ってきた男だ。
その外側には、バスティアンを補佐してきたもう一人の家臣。
商談を装い、名を変え、ハンサンの貴族と軍部の双方へ道をつないだのは、この三人だった。
その背後、壁際には四人の兵士。
さらに後ろには、フードを深く被った小柄な騎士が一人立っていた。
北側。
壁際に護衛騎士五名。
長机には、ハンサン万騎長ヘルドラ、デスメット、ビエリー、カクタス。
大貴族ミュラー、シムノン、ドグレル。
そして、中央の一席に座る男が紹介された。
「ギルタン・エステス・ド・ハンサン殿下です。先王の御代、王太子であられた亡き第一王子の嫡子。現国王陛下の甥御にあたられます」
現在の王位継承順位は第七位。
現王の六人の王子に次ぐ順位だった。
だが父が亡くなる以前、ギルタンは王太子の嫡子として、父のあとに王位を継ぐはずだった。
父は王位に就くことなく世を去り、その弟が王座に就いた。
ギルタンは直系となるはずだった場所から外れ、現王家の傍系へ置かれた。
だからこそ、この場にいる貴族たちは彼を担ぐ。
現王の甥だからではない。
本来受け継がれるはずだった王統を、元へ戻すために。
だが、その姿は、これから王座を奪おうとする密議の中心人物には見えなかった。
白い顔。
細い身体。
卓上へ置かれた手には、剣を握り慣れた跡がない。
フーガの視線が、一度だけギルタンの上を通った。
何も言わず、すぐに広間全体へ戻る。
ギルタンには、その短い視線さえ、自分を値踏みしているように思えた。
ハンサン王都で動けば、王の目に触れる。
地方で軍人と貴族が集まれば、それだけで反逆を疑われる。
だが交易都市ラクトゥなら、国境を越えた一団も商談客で通すことができた。
そして何より、彼らにはシュバリエの確約が必要だった。
政変の間、背後から国境を侵さないこと。
その隙にミッドガロンが侵攻した場合、同盟国としてハンサンを支えること。
その二つについて、シュバリエ王太子の確約を得る。
王太子の名代として席に着くのは、腹心フーガ・ド・リモージュ。
ハンサン側はそう聞かされていた。
だが今夜、長机の中央に座っているのは――王太子本人だった。
「ギルタン殿下、お初にお目にかかる。シュバリエ王国王太子、エルドウルフ=アンドレース・ド・シュバリエだ」
エルドウルフは静かに名乗った。
「越境のうえの御足労に感謝する。今日は両国にとって、実りある評定にしよう」
それだけだった。
声を張ったわけでもない。
威圧する言葉も、相手を試すような問いもない。
それなのに、広間の重心が長机の南側へ移ったように感じられた。
十歳以上も年下の王太子。
神力を持つ、白金の英雄。
ギルタンは内心でたじろいだ。
――噂は誇張ではなかった。
春。
ガレオ周辺での戦。
この若者は最前線に立ち、剣を振るい、兵を率いた。
対して自分は、王都にいた。
招集されなかった。
志願もしなかった。
いや、できなかった。
戦場に立ったことのない、亡き王太子の遺児。
剣すら満足に握れぬ、王位継承第七位の王族。
胸の奥に、鈍い熱が滲んだ。
しかも、エルドウルフは第三王子として生まれた男だ。
本来なら、王座から遠い場所にいたはずの王子。
それが戦功を立て、神力を示し、兄たちを越えて王太子となった。
自らの力で、王位へ続く道を切り開いたのだ。
だが、王は剣の腕だけで決まるものではない。
自分には血がある。
本来なら王位を継ぐはずだった父の血が。
この男が力によって王太子となったのなら、自分は正統な血によって、奪われた王統を取り戻す。
それは、いかなる武勲にも劣らないはずだ。
ギルタンは、そう自分に言い聞かせた。
長机の向こうにある青い目は静かだった。
軽蔑も、期待も読み取れない。
だからこそ、落ち着かなかった。
――この男は、私をどう見ている?
軽蔑か。
無関心か。
それとも――値踏みか。
視線を合わせることが、ひどく難しかった。
そのとき。
机の向こう側で、淡々と前提が確認される。
現ハンサン国王セドリク・エステス・ド・ハンサン。
王妃。
第一王子から第六王子までの直系血族。
――全員を排除する。
事故でもなく、戦死でもない。
毒、暗殺、内乱。手段は問わない。
現王から続く直系を、一夜で断つ。
それが、この場に集まった者たちの“前提”だった。
ハンサンは長く軍事貴族の国だ。
剣で領土を広げ、戦で家名を刻んできた。
だが王は軍を縛った。
財を吸い上げ、遠征を禁じ、剣を収めさせた。
栄光は失われ、誇りは痩せ、領地は貧しくなった。
武門の家々は、静かに、確実に衰えていった。
だから――王を替える。
「反逆」ではない。
彼らはそれを、王国を本来あるべき姿へ戻すための“修復”と呼んでいた。
少なくともギルタンには、それが奪われた王統を取り戻すための決起に思えた。
そう信じるに足る熱が、広間には満ちていた。
春。ガレオ近郊でのミッドガロン戦。
二万の兵が土に還った。
アルマー渓谷以南の守備は薄い。
補充も再編も、いまだ間に合っていない。
今、背後からシュバリエに動かれれば――
王都は守れない。
機は熟している。
遅れれば、二度と巡らない。
だからこそ彼らはここにいる。
ヘルドラが静かに立ち上がった。
低く、よく通る声だった。
春の戦で、ハンサンは二万の兵を失ったのだと、まず事実から置く。そのうえで、兵は王のために死んだのではない、ハンサンの誇りのために死んだのだと、言葉を重ねた。
広間の空気が張る。
いま王は剣を縛り、軍を削り、国境の守備線を後退させている。では自分たちは、誰のために血を流すのか。
問いは広間の全員に向けられていたが、最後にはまっすぐギルタンへ落ちた。
殿下が立たれぬなら、兵は二度と立たない。
その一言に、将校たちが黙って頷く。
続いたのは、怒声ではなく報告だった。
春の戦では出陣命令が三日遅れたこと。
三日あれば五千は救えたということ。
昨年から六度にわたって軍備増強を進言してきたこと。
それがすべて棚上げにされたこと。
補給費は削られ、訓練日数も削られ、徴兵は延期されたままなのに、戦だけは必ず来ること。
誰も声を荒らげない。
けれど、ひとつひとつの事実が、刃のように机の上へ積み上がっていった。
最後にデスメットが、ほとんど独り言のような小ささで言った。
王は、何も決断なさらなかった、と。
その静かな断定が、かえって広間を深く冷やした。
ギルタンは何も言えなかった。
沈黙が落ちた、そのときだった。
「ギルタン殿下」
口を開いたのはフーガだった。
いつもの軽い調子ではない。
辺境伯家の嫡子としての、低い声だった。
「ここで黙るなら、兵はついて来ません」
広間の空気がわずかに変わる。
「怖いのは分かる。だが、怖いまま立つ気があるのかどうかを、皆が見ている」
ギルタンは顔を上げた。
万騎長たちが見ている。
自分を担ぐ貴族たちも、答えを待っている。
そして長机の中央に座る若い王太子は、何も言わない。
助け舟も出さない。
軽蔑も、期待も見せない。
ただ静かに、ギルタンが何を選ぶのかを見ていた。
◇◇
長机の向こうでは、なおも議論が続いていた。
責任の所在。
王位継承の正当性。
兵を動かす時期。
現王家を排したあと、誰がどの地を押さえるのか。
ヘルドラたちの怒りに、偽りはない。
春の戦で失われた兵も。
遅れた命令も。
削られ続けた軍備も。
すべて事実だった。
ただし――その事実を誰が語り、どの言葉でギルタンへ突きつけ、最後に誰が決断を迫るのか。
ここまでの流れはすべて、バスティアンとハンサン軍部が事前に組み上げた筋書きだった。
ギルタンを担ぐ貴族たちは、自分たちこそがこの政変の主導者だと信じている。
そして、そう信じてもらわなければならない。
彼らには、正統性を掲げてもらう。
王を見限り、自らの名で兵を動かしてもらう。
現王権を覆す決起は、誰かに命じられて始めるものではない。
王として担がれる者と、王を担ぐ者たち。
その双方が、自らの意思で始めたと思わなければ意味がなかった。
エルドウルフは黙ったまま、長机の中央に座っていた。
彼が言葉を重ねる必要はない。
シュバリエ王太子が、この場にいる。
フーガの口から伝えられるはずだった二つの確約は、王太子本人がこの席にいることで、そのまま彼自身の意思となる。
その事実だけで、今夜の評定が持つ重みは変わっていた。
そして何より――
目の前に十八歳の王太子が座っているだけで、ギルタンは、自分も王となるに足る人間だと示さずにはいられなくなる。
劣等感は、正統な血を持つという自負へ変わる。
自負は、やがて虚勢を支える柱になる。
最後には、自分こそが国を救わねばならないという使命へ姿を変える。
あとは、彼自身が立ち上がればいい。
バスティアンが粉骨砕身して整えた舞台だ。
ヘルドラたちも、見事に役目を果たしている。
マティスへ告げた言葉が、脳裏をよぎった。
――ハンサンを落とします。
国境を越え、軍を差し向ける必要などない。
ハンサンは、ハンサン人の手で落ちる。
そして彼らは、それを王国を救うための決起だと信じるだろう。
エルドウルフの中では、この会議はすでに終わっていた。
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