第65話 〜名前を書く日〜
石畳を抜けた瞬間、朝の音が広がった。
まだ店を開ける前の商人の声。
桶に水を汲む音。
遠くで鳴る鍛冶の槌。
けれど広場だけは、少しだけ軽い。
朝の光が石畳を白く照らし、風が柔らかく抜けていく。ここだけ、街より半歩あたたかい。
子供の声は、朝よりも先にこの広場を目覚めさせていた。
ネレアが半歩後ろを歩く。腕には薄い日よけのケープ。そのさらに後ろで、サラとルイーズが大きな紙の筒と籠を抱えている。
籠の中では布に包まれた焼き菓子が揺れ、ほんのり甘い匂いが漂っていた。
「今日は良い天気ですね、姫さま」
「うん。おそら、ひろい」
フィーラは空を見上げ、目を細める。
広場に近づくと、子供たちの声が弾んで聞こえてきた。
地面に白い石で描かれた丸。
その上を、片足で跳ねながら順番に進んでいる。
石畳の段差は埋められた。走るための一角には柔らかな芝が植えられている。
広場の周囲には低い柵が巡り、少し離れた場所にはさりげなく衛兵が立っていた。
「つぎぼく!」
「ずるい、まだ終わってない!」
砂埃が光の中で舞い上がる。
一人がふと顔を上げた。
「あ」
「おねーちゃんだ!!」
声が跳ねる。
振り返る子。跳ねるのをやめる子。走り出す子。
小さな足音が石畳を打つ。
「おねーちゃん!」
「きょうも来た!」
「なにするの?」
「かけっこ!?」
あっという間に囲まれる。
ネレアと侍女たちは自然に距離を取り、外側に立つ。
広場の中心が、するりとフィーラへ移る。
フィーラはほんの少し胸を張った。
「みんな。きょう、わたしは、先生です」
目が一斉に丸くなる。
「せんせい?」
「ほん?」
「えほん!?」
歓声が弾ける。
その中で一人だけ腕を組んだ少年がいた。
レオナールだ。
「えー。べんきょうやだ。あそぼうよ」
風が少し強く吹き、紙の筒がかすかに鳴る。
フィーラはまっすぐレオナールを見る。
「うん。あそぶよ」
レオナールの口元がにやりと動く。
「でも、きょうのあそびは、べんきょう」
子供たちが顔を見合わせる。
「それ、あそびじゃないじゃん」
レオナールが言う。
フィーラは首をかしげた。
「たのしいよ?」
きっぱり言った。
朝の光が、彼女の髪を透かしている。
レオナールは腕を組んだまま、フィーラを睨む。
「たのしくないよ。べんきょうなんて」
フィーラは少し考える。
それから、くるっと振り返った。
サラとルイーズの方へ歩き、籠を受け取る。
中身がちらりと見えた。
包まれた布。
色のついた紙。
見慣れない瓶と羽根ペン。
レオナールの視線が、ほんの少しだけ動く。
フィーラは戻ってきて、子供たちの前にしゃがんだ。
「文字を知るとね、いろいろ便利なんだ」
色紙を一枚取り出す。
「まず、みんなのお名前を書くよ」
子供たちがざわっと動く。
レオナールはまだ腕を組んでいる。
けれど、視線はもう逸れていなかった。
「レオナール、おいで」
名前を呼ばれた。
眉がぴくっと動く。
「なんで俺から」
「さいしょに言ったから」
フィーラは当たり前の顔で言った。
周りの子が押す。
「いけよ!」
「はやく!」
レオナールはぶすっとした顔のまま歩き出す。
でも、歩幅は思ったより速かった。
フィーラは色紙を机代わりの石の上に置き、ペンを取った。
真剣な顔。
ゆっくり、丁寧に線を重ねていく。
―― Léonard
書き終えると、両手で大事そうに差し出した。
「はい」
レオナールはそっと受け取る。
「……これ、俺の名前?」
フィーラは嬉しそうに頷いた。
「レオナールはね、勇気とか、強さとか、高貴さって意味」
にこっと笑う。
「かっこいいね」
レオナールは紙と文字を何度も見比べた。
初めて見る、自分の名前だった。
「いいな、次は私!」
「ぼくも!」
一斉に手が上がる。
小さな体が前へ前へと押し寄せた。
フィーラは慌てて両手を振る。
「みんな、順番に書くよ。並んでね」
ネレアが静かに一歩前に出る。
それだけで、子供たちは不思議と列を作り始めた。
侍女たちはこっそり顔を見合わせる。
フィーラは一人ずつ名前を聞き、ゆっくりとペンを走らせた。
「マリー」
「やさしいって意味」
「トマ」
「先を見る、って意味」
「カリナ」
「かわいい、って意味」
色紙が一枚ずつ、子供たちの手に渡っていく。
受け取るたび、目が輝いた。
紙を胸に抱きしめる子。
友達に見せて走る子。
何度も文字を指でなぞる子。
フィーラは少し得意そうだった。
――昨日の夜、サロンで。
ルーソルとゴディエに教わったばかりだった。
「お名前、真似して地面に書いてみようか。できたら教えて!」
子供たちは一斉にしゃがみ込み、小枝や指で地面に文字を書き始めた。
土の上に、ぎこちない線が増えていく。
曲がった線。
大きすぎる文字。
途中で止まる手。
みんな、驚くほど真剣だった。
やがて――
「できた!」
「みて!」
「書けた!」
顔を上げた瞬間、笑顔が広がる。
「お姉ちゃん、みて。あってる?」
レオナールがまっすぐな目で聞いた。
フィーラはしゃがみ込み、土の文字を覗き込む。
少し歪んだ、でも確かに並んだ文字。
フィーラは大きく頷いた。
「うん。あってるよ。上手だね」
レオナールの顔がぱっと明るくなった。
その笑顔を見て、フィーラも笑った。
朝の光が石畳に反射して、広場全体がきらきらして見える。
遠くでは市場の呼び声。パンを焼く匂い。馬車の車輪の音。
街の一日が始まっている。
でも、この場所だけが少し特別だった。
フィーラは立ち上がり、くるっと振り返る。
「サラ、ルイーズ」
二人はすぐに大きな紙の筒を運んできた。
地面に広げると、子供たちが「おおー」と声を上げる。
「いつも歌ってる“やさしいひばり”の歌詞を書いてきました」
紙の上に、整った大きな文字が並んでいる。
フィーラは指で最初の行をなぞった。
「あさのそらに ひばりがひとつ」
歌いながら、言葉を一つずつ指さす。
「きらり きらり ひかってる」
子供たちが息をのむ。
文字が、歌になった。
「“あさの”がこれね」
指がゆっくり動く。
「“そら”。“ひばり”。“ひとつ”」
子供たちの目が、紙の上を追いかける。
遊び場のざわめきは消えていた。
風の音だけがやさしく通り抜ける。
フィーラは最後の行を指した。
「じゃあ、みんなで歌おう」
小さな声が重なり始める。
最初はばらばら。
すぐに揃う。
朝の広場に、歌が広がった。
歌い終わると、子供たちがぱっと顔を上げた。
「今日のお勉強はここまでね」
一瞬、静まる。
そして――
「えー!」
「もっとやろうよ!」
トマが一歩前に出た。
「二ばんも教えて!」
周りの子も頷く。
フィーラはくすっと笑った。
「つぎは、からだを動かすお勉強だよ」
すくっと立ち上がる。
トマの手を取る。
「これから毎日お教室をするよ。明日も、明後日も」
子供たちの目が一斉に輝いた。
「ずっとね!」
そう言って、トマの手を引いて走り出した。
小さな足音が一斉に追いかける。
笑い声が広場いっぱいに広がった。
朝の光の中で、教室は駆けっこに変わった。
走って、転んで、また走って。
息が弾み、頬が赤くなり、遊び疲れた頃。
サラがそっと声をかけた。
「姫さま、そろそろおやつの時間にいたしましょう」
子供たちの顔が一斉に輝く。
フィーラは足を止め、振り返った。
「みんな、手をふくよ」
ルイーズが大きな布包みを開く。
中から小さな白い布が何枚も現れた。
「はい、並んでくださいねー!」
「なんでー?」
「おやつの前は手をきれいにするの!」
子供たちは素直に並び、手を拭き始める。
真似をしながら、きゃっきゃと笑っている。
準備が整うと、サラがもう一つのバスケットを開いた。
甘い香りがふわっと広がった。
「わああ!」
小さな歓声。
「おやつだ!」
フィーラが嬉しそうに頷く。
「がんばったごほうび」
――始めは、おやつ目当てでもいい。
――きっかけは、なんでもいいから。
エルドウルフの言葉が、ふと胸に浮かぶ。
――持ち帰らせず、その場で食べさせてほしい。
フィーラは小さく頷き、子供たちに菓子を配った。
小さな焼き菓子を、一人ひとりに手渡していく。
子供たちは目を丸くして、恐る恐る口に入れた。
次の瞬間。
「おいしい!!」
笑顔が弾けた。
夢中で食べる子供たちを見て、フィーラも笑顔になる。
その光景を、ネレアは静かに見守っていた。
――子供たちが、もう少しやりたいと思うところで終わりましょう。
ゴディエの助言が思い出される。
「きょうはここまで」
フィーラが言うと、子供たちから声が上がる。
「えー!」
「もう終わり?」
「明日もやろうね!」
フィーラは大きく頷いた。
「明日もするよ」
歓声が広場に広がる。
やがて子供たちは手を振りながら帰っていった。
石畳の坂道を、城へ向かって歩く。
ネレア、サラ、ルイーズが左右に並ぶ。
午後の空気はやわらかく、充実した静けさがあった。
サラが微笑む。
「子供たち、とても楽しそうでしたね」
「うん。わたしも、たのしかった」
少し考えて、フィーラが続ける。
「むずかしくなかったかな。ちゃんと教えられてた?」
ネレアが穏やかに頷いた。
「ええ。皆とても興味津々でした。明日が待ち遠しいと」
フィーラの肩がほっと緩む。
「よかった」
ルイーズが弾んだ声で言う。
「明日のおやつは何でしょうね!」
サラも笑う。
「料理長が張り切っていましたよ」
フィーラは小さく頷く。
「つぎの紙、かかなきゃ」
ネレアが一歩寄る。
「お手伝いいたします」
「ほんと?」
「ええ。私も楽しくなってきました」
フィーラは嬉しそうに笑った。
石畳の坂を、軽い足取りで登っていく。
城の白い壁が、昼の光を受けて静かに輝いていた。
フィーラは一度だけ振り返る。
さっきまでいた広場。
小さな影が、まだ手を振っているのが見えた。
フィーラも手を振り返した。
胸の奥が、ふわりと温かい。
文字を知ること。
歌を歌うこと。
笑って、走って、また明日ねと約束すること。
どれも小さなことなのに、
どれも消えないものだと思った。
「明日も、がんばろう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ネレアが静かに微笑む。
空は高く、光はまだ明るい。
この場所から、
きっといくつもの明日が生まれていく。
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