第64話 〜走るための休息〜
王太子の命令は、休めだった。
週の初め。
役人も貴族も入れない、六人だけの小会議。
今日は一席空いていた。
窓は半分だけ開けられている。
風は入るが、陽はもう高い。
部屋の空気は少しぬるく、長卓の上には書類と茶器が隙間なく並んでいた。
卓の中央には、深い鉢にナッツが山のように盛られている。
胡桃、アーモンド、塩気のある豆。
誰かが手を伸ばしては、減ったぶんだけまた足される。
そういう会議だった。
扉の脇には、アストロフが控えている。
会議へ口を挟むことはない。ただ、室内のすべてを見渡せる位置に立っていた。
エルドウルフが席に着いたまま言う。
「フーガは?」
エランが書類から目を上げず答えた。
「夜明け前に発ちました。予定どおり、ラクトゥへ。ハンサン王甥と、その後ろ盾となる者たちとの内談のためです」
「そうか」
短く頷く。
三日。
フーガの足でも三日。ニカ領都ラクトゥ。
アンリがナッツをひとつ口へ放り込み、椅子の背へ身体を預けた。
「で? 今日は何の話だ」
エルドウルフは机に肘をついた。
「お前たち全員、月に一度は休め」
静まり返った。
高い窓から差す昼の光が、卓の真ん中だけを白く照らしている。
まだ手のついていない茶も、山盛りのナッツも、そのまま止まって見えた。
ルーソルが持ち上げかけた茶器を、静かに受け皿へ戻す。
エランはようやく書類から顔を上げた。
ゴディエが真っ先に口を開く。
「無理だ」
即答だった。
エルドウルフは鉢からナッツを一粒摘んだ。
弾く。
――正確に額へ。
「痛っ!」
「命令だ」
声は低い。
「必ず休め」
ゴディエが額を押さえる。
「仕事が回らん」
二粒目。
「痛い!」
「お前一人が欠けただけで、務めが滞るようなやり方をするな」
静かな叱責だった。
「俺たちの誰かが倒れても、政は止められない。代わりを務められる者を育てろ」
ゴディエは口を開きかけ、結局閉じた。
アンリが肩を揺らして笑っている。
エランはすでに手元の紙へ何かを書き始めていた。
エルドウルフは続ける。
「頭を冷やす時間が必要だ」
視線が一人ずつに向けられる。
「考えを整理する時間もな。止まらずにいれば、いずれ判断を誤る」
アンリが鉢へ手を伸ばす。
「休んだくらいで、頭が回るようになるのか?」
「なる」
即答だった。
「俺が証明した」
ルーソルが小さく笑った。
「説得力はあるな」
エランが書きつけた紙を一度読み返す。
「では、月ごとの決まりといたします」
「今日からだ」
ゴディエがため息をついた。
「鬼か」
エルドウルフは無視した。
「誰に何を任せるか、見直せ。それぞれ、自分の務めを任せられる者を一人は育てろ」
エランがすぐに頷く。
「近縁や傍系も含め、適任者を選定します」
「今日中に動け」
「承知しました」
エランのペンが、再び紙の上を走り始める。
アンリは自分には関係がないという顔で、胡桃を選んでいた。
そこで、エルドウルフが言った。
「三日後、ラクトゥへ行く」
全員が顔を上げた。
扉の脇に立つアストロフも、目線だけをエルドウルフへ向ける。
ゴディエが眉をひそめた。
「予定にない」
「今決めた」
「護衛はどうする」
アストロフは口を挟まない。
ただ、その眼差しだけが先ほどより鋭くなっていた。
エルドウルフは淡々と答える。
「不要だ」
誰も追及しなかった。
全員が、その意味を理解した。
アンリが摘んでいた胡桃を鉢へ戻す。
「……人目につかずに移動できるのは、便利だな」
「そうだ」
エルドウルフの声が低くなる。
「だが、勘違いするな」
エランのペンが止まった。
ルーソルも茶器から手を離す。
「フィーラの力は使わせるな」
静寂が落ちた。
「彼女が望んでもだ」
ゴディエがゆっくり頷く。
「承知した」
「俺をラクトゥまで運んでもらう。それだけだ」
短い間。
「その力で、これから先を決めることはさせない」
ルーソルだけが、静かに目を細めた。
やがて、エルドウルフが椅子を引いて立ち上がる。
「協議へ行く。午後は川港を見に外へ出る」
アンリが笑った。
「休みを決めた本人が、さっそく働くのかよ」
エルドウルフは扉へ向かった。
「俺は休んだ」
それだけ言って出ていく。
それまで壁際に控えていたアストロフが、音もなく続いた。
ルーソルも茶を飲み切り、二人の後を追う。
残された三人。
ゴディエが額を押さえた。
「……休める気がしない」
エランは書きつけたばかりの紙を持ち上げる。
「だから、決まりにするのでしょう」
アンリが笑った。
「まず、お前が休め」
エランの手が止まる。
沈黙。
そして三人は、同時にため息をついた。
◇◇◇
午前中いっぱい続いた商業ギルドとの協議は、予定より早く終わった。
商人たちは最後まで負担を渋った。
倉庫用地にかかる土地の使用料。
荷馬車道の拡張と整備にあてる、道の使用料。
領内を巡回する警備兵のための領恵料。
新たにクワルノーへ入る商会を、どの区分に置くのか。
ギルドがまとめて納めるのか、各商会から個別に徴収するのか。
倉庫が使う土地の広さと、行き交う荷馬車の数を示せば、負担の根拠は明らかだった。
商人たちも最後には黙って頷いた。
合意を得るところまではいい。
面倒なのは、そのあとだった。
執務室は、中央館二階の南東側にある。
左手には、バルコニーへ続く大きな窓。
昼の光が、書類に埋もれた執務机へまっすぐ落ちている。
右手の回廊側は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。
扉の後ろにはアストロフ。
姿は見えないが、気配だけが静かにある。
開けた窓から風は入るものの、昼の熱と紙の匂いが、まだ部屋に残っていた。
「可もなく不可もなく、だな」
持ち帰った書類を机へ置きながら、エルドウルフが言った。
ルーソルは苦笑し、崩れかけた紙束を揃える。
「十分だよ。道の整備も巡回兵の増員も、見込める税収の範囲に収まった。初年度なら上出来だ」
最後の一枚を重ね、紙の端を軽く叩いて揃える。
「商いの流れは、これでひとまず整う。次は耕作だね」
「来年から、作付けにもう少し関わる」
「土地に合わない作物を減らすのが、一番早いだろうね」
「土質と水利で領地を四つに分けて、案を出せるか」
「期限は?」
「来週末。二、三案でいい」
「了解」
間髪を入れず、返事が返る。
「作付けを一律に定めるのは急がない。これから入る領民から試す」
エルドウルフは、机の上の地図へ視線を落とした。
「今、土地を支えている農民には、余計な負担をかけたくない」
「なら、勘定と農政をそれぞれ見る役人が必要だな」
「専任を置く」
わずかに考えてから、エルドウルフが続ける。
「勘定方の立ち上げは、エランかお前に任せる」
「エランだよ」
ルーソルは迷わなかった。
「全体の仕組みを組むのは、あの人の領分だ。俺は数字を集めて、一つずつ試すほうが向いてる」
「なら、農政方の立ち上げはお前が見ろ」
ルーソルが瞬きをした。
「俺が?」
「作付けの案を出すのもお前だ。試験用の畑を用意して、収量を比べろ」
「収量だけでいい?」
「ほかに何を見る」
「保存のしやすさと、加工したあとの価値」
ルーソルは揃えた書類から一枚を抜き取り、余白へ書きつける。
「同じだけ採れても、そのまま食べるしかない作物と、別のものへ加工できる作物では価値が違う」
「分かった。そこまで任せる」
「なら、小さな作業場も借りるよ」
「必要なものを揃えろ。金額は先に出せ」
「了解」
ルーソルのペンが、再び紙の上を走り始めた。
エルドウルフは椅子を引いて腰を下ろす。
背もたれへ身体を預け、そのまま脚を机へ乗せた。
椅子はすでに、頑丈なものへ取り替えられている。
今度は、ひっくり返らなかった。
陽はまだ高く、窓辺だけが白く明るい。
外は静かなのに、部屋の中には、考え続けた二人の頭の熱だけが残っているようだった。
「……何かあった?」
ルーソルが机の端へ軽く腰を預ける。
「今日は、ずいぶん先を見てる」
「先を見るのは、いつものことだ」
「いつもより遠いよ」
エルドウルフは、椅子の背へ身体を預けたまま天井を見ていた。
「思っているより、時間がない」
深く息を吸う。
「……明日できることは、今日やる」
「急だな」
扉が控えめに叩かれた。
入ってきた執事は、言葉もなく茶器を置いた。
立ちのぼる湯気が、昼の光の中で白くほどける。
一礼し、すぐに退がった。
「理解していたつもりだった」
エルドウルフの指先が、宙で何かを探るように動く。
「だが、分かっていなかった」
わずかな間。
「やりたいことを先延ばしにする余裕は、ほとんどない」
ルーソルは表情を変えない。
「珍しく焦ってる」
「焦ってない。優先するものを入れ替えただけだ」
言葉は軽い。
だが、視線は天井へ向いたまま動かなかった。
そのとき、空気がわずかに揺れた。
エルドウルフの手の先。
何もないはずの宙に、微かな光が集まり始める。
最初は塵。
次に粒。
やがて、渦。
砂金のような光の粒が、ゆっくりと球を形作っていく。
音はない。
ただ、静かに回転していた。
ルーソルの呼吸が止まる。
――見覚えがあった。
幼い頃。
神力を発現させたばかりのエルドウルフが、「見て」と差し出した小さな光の玉。
だが、今、目の前にあるものは違う。
粒は桁違いに細かく、密度が高い。
光というより、濃い霧。
凝縮された思考そのもののようだった。
エルドウルフ自身は、気づいていない。
ルーソルは反射的に手を伸ばした。
「――思い詰めるなよ」
その腕を掴む。
それ以上、形にさせたくなかった。
理由は言葉にならない。
ただ、本能的にそう思った。
光は、すっと消えた。
静寂が落ちる。
エルドウルフが瞬きをした。
「……なんだ」
「いや」
ルーソルは腕から手を離す。
「なんとなく」
少しだけ笑った。
「危なそうだった」
エルドウルフは、しばらくルーソルを見つめていた。
やがて、ふっと笑う。
「合理的だな」
「優しいだろ?」
「自分で言うな」
軽口が戻った。
エルドウルフは、机の端に置かれたカップを取る。
湯気も確かめず、そのまま口をつけた。
「あつっ」
すぐに受け皿へ戻す。
ルーソルがため息をついた。
「少しは冷ませよ」
「待つほどでもない」
「毒を確かめる癖、いい加減やめろよ。ここでは必要ない」
「分かっている」
そう答えながら、エルドウルフは肩をすくめて立ち上がった。
扉横の剣帯スタンドから剣を取る。
迷いのない動きで腰に回した。
扉の脇に控えるアストロフが、姿勢を正す気配。
「桟橋工事を見てくる」
「俺も行こうか?」
「自分の仕事をやれ」
振り返らない。
そのまま扉が開き、昼の光が差し込んだ。
扉が静かに閉じた。
廊下を進む足音が、少しずつ遠ざかっていく。
ルーソルは机の上へ視線を落とした。
茶は二つ置かれている。
ひとつは、エルドウルフが熱いと言って放置したものだ。
小さく笑い、自分のカップを手に取る。
今なら、飲める温度だった。
一口含む。
温かな香りが、ようやく思考の熱を鎮めていく。
思っていたより、時間がない。
エルドウルフは、そう言った。
焦りではない。
限りがあると知った者の覚悟だった。
明日できることを、今日やる。
やりたいことを、先延ばしにしない。
そう決めた人間の速度だ。
ルーソルは静かに息を吐いた。
フィーラのことを思い出す。
何の迷いもなく差し伸べられた手。
その血を通して、ほんの一瞬だけ触れた神の視座。
人が引いた境界も、積み上げた身分も、はるか上から等しく見渡す眼差し。
罪悪感は消えない。
おそらく、これからも。
けれど、罪悪感があることと、フィーラの意思を拒むことは同じではなかった。
自分から求めはしない。
奪うこともしない。
だが、もしフィーラが自ら望み、もう一度与えると決めたのなら――今度は拒まない。
そのときは、目を逸らさずに受け取ろう。
そして、与えられた神の視座を、人の世界のために使う。
エルドウルフは前へ進む。
限られた時間の中で、できることを選び続けている。
ならば、自分もできることをするだけだ。
少なくとも、罪悪感だけを理由に背を向けるのは、もうやめよう。
ルーソルはカップを置き、机の上の書類を引き寄せた。
やるべきことは、山ほどある。
まずは、目の前のひとつからだった。
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