第63話 〜ゆっくり、だけどはやく〜
夜はすでに城を包んでいた。
三階の回廊だけが、まだ明るい。
四階の寝室が使えなくなり、エルドウルフが三階へ移ってきてからというもの、三階の使用人たちは今日も張り切っていた。
これまで仕えていたのは、驚くほど手のかからない姫君だった。
衣装も食事も社交も、多くを望まない。
夜になれば四階へ上がり、三階は静けさを取り戻していた。
そこへ突然、王太子が住み始めた。
柱は磨かれ、燭台は揃い、
白いリネンは三度もアイロンをかけられ、折り目まで妙に誇らしげだった。
低いテーブルの上には、過剰な夜食が並んでいた。
焼き菓子、果実、チーズ、薄く切った燻製肉。
果実酒は、なぜか三種類もある。
その隅には、フィーラのための小さな茶器。
テーブルの手前には、毛足の長いラグが敷かれていた。
エルドウルフはその上に胡座をかき、隣ではフィーラがクッションを胸の下に抱え、うつ伏せに寝転んでいる。
二人の前には、分厚い一冊。
神獣図鑑。
エルドウルフの髪はまだ少し湿り、首元には湯上がりの熱が残っていた。
「……ユニコーン」
フィーラが頁をめくる。紙が柔らかく鳴った。
「シュバリエのしるし、これなんだね」
「そうだ」
短く返す。
フィーラは絵を見つめる。指先で角をなぞる。
「きれい」
「まあな」
フィーラの指が、ユニコーンの角から頁の下に描かれた紋章へ移る。
「でも、クワルノーは?」
唐突だった。
エルドウルフは一瞬言葉に詰まる。
「……まだ決めていない」
「はやく決めてくれないかな」
「なんでだ」
フィーラは本へ視線を戻した。
「……べつに」
明らかに、何かある顔だった。
エルドウルフは片眉を上げる。
「怪しい」
責めるというより、面白がっている声だった。
フィーラは本の端を指でなぞり、視線を落としたまま口を尖らせる。
「あやしくない」
エルドウルフは片手をラグにつき、フィーラの顔を覗き込むように身を寄せた。
「何を隠している」
「かくしてない」
「目が泳いでいる」
「めはおよがない」
「本の端ばかり触って、文字を見ていない」
フィーラの指がぴたりと止まった。
ゆっくり顔を上げる。
「……見てたの?」
「見ている」
即答だった。
フィーラはむくれたまま身体を起こし、膝を抱えるように座り直す。
「ずるい」
「ずるくない」
エルドウルフは小さく息を吐き、低いテーブルへ手を伸ばした。
三種類ある果実酒のうち、一番近くにあったグラスを取る。淡い赤が、燭火を受けて揺れた。
「言えない理由があるのか」
フィーラは少し考える。
肩からこぼれた髪の先を、指に巻きつける。
そして、ゆっくり首を振った。
「まだ」
「まだ?」
「いま言ったら、だめ」
「なぜ」
「だめだから」
完全に子供の理屈だった。
エルドウルフはグラスをテーブルへ戻した。
グラスの底が天板に触れ、かすかな音を立てる。
喉の奥で笑いを噛み殺す。
「……余計に気になる」
フィーラは本を胸に抱えた。
無意識に、彼の袖をつまむ。
「決まったらわかるよ」
「つまり、俺に関係があるのか」
沈黙。
開けた窓の向こうから、細い虫の声が届いた。
袖を掴む指に力が入り、ほんの一瞬、視線が逸れる。
答えだった。
エルドウルフは目を細めた。
「なるほど」
少しだけ口元が緩む。
「なら、急ぐ必要があるな。明日、会議の議題にするか」
フィーラが勢いよく顔を上げる。
「だめ!」
思わず袖を引いた。
エルドウルフが瞬きをする。
「……じゃあ、ゆっくり決めるか」
「それもだめ!」
フィーラは本を膝へ下ろし、今度は両手で袖を掴んだ。
エルドウルフの片眉がゆっくり上がる。
「どっちならいい」
フィーラは袖を放すと、もう一度本を抱え込み、視線を逸らした。
「ゆっくり、だけどはやく」
「曖昧だな」
「自分でちゃんと、かんがえて」
エルドウルフは、しばらくフィーラを見つめていた。
やがて、小さく笑う。
フィーラは無視して頁をめくった。
紙の柔らかな音が、窓の外の虫の声に重なった。
二頭の白い有翼の獅子の絵。
フィーラの指が止まる。
「……ランギュース」
声から、さっきまでの拗ねた響きが消えた。
エルドウルフが顔を上げる。
「知っているのか」
「うん」
少し間。
「ともだちだった」
エルドウルフは笑いそうになって飲み込む。
「友達の規模が違うな」
フィーラは真剣だった。
「大きいよ」
フィーラは図鑑をラグへ置いて立ち上がった。
両手を大きく広げ、その場でくるりと回る。
「これくらい!」
腕では足りず、ぴょんと背伸びする。
「背、ここくらい」
自分の頭のずっと上を指す。
それから再びラグへ座り、頁の白い毛並みを指先でなぞった。
「白くて、ふわふわ。いつも一緒にいた」
小さな声。
「一頭は青い目。もう一頭は緑」
「名前は?」
「ない」
首を振る。
「二頭で、ランギュース」
静かな沈黙。
エルドウルフは頁を見つめたまま言う。
「……昔の話だな」
「すごくむかし」
「どれくらい?」
「街が、あまりなかったころ」
エルドウルフの手が止まる。
頁を押さえたまま、動かない。
「……ずいぶん前だな」
フィーラは頁の獅子を見つめたまま、嬉しそうに続ける。
「くもの上、はしるのはやいよ」
嬉しそうに言う。
「人は神獣になれない」
「うん」
「でも――」
長い沈黙。
「今は、同じ速さで走れる」
フィーラが首を傾げる。
「長く生きるだろ。お前」
「わからない」
正直な声。
エルドウルフは少し笑う。
「だろうな」
頁へ視線を戻し、ふと呟いた。
「だから、俺は急ぐのか」
独り言のような声だった。
フィーラが瞬きをする。
「なにを?」
「いろいろ」
曖昧なのに、それ以上ない答えだった。
エルドウルフは息を吐いた。
「気のせいだ」
声は、いつもと変わらなかった。
フィーラはそれ以上追わない。
「ランギュース、すき」
「俺もだ」
まだ見たことはないのに。
窓の外は夜だった。
三階だけが、まだ明るい。
時間の長さが違う二人が、同じ本を読んでいた。
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